第26話:最初の異変は、枯れた花園から
王宮の建国記念夜会において、あの陰気で地味な元婚約者――エリアーナ・ヴァン・ベルクを衆人環視のなかで叩き出し、愛らしく可憐な妹ティファーヌとの新たな婚約を高らかに宣言してから、およそ十日が過ぎていた。
ロシュ侯爵邸の主寝室で目覚めたユリウス・ド・ラ・ロシュは、上等な絹のガウンに腕を通しながら、満足げに薄い唇の端を吊り上げていた。
「ふっ……実に素晴らしい朝だ」
窓から差し込む朝の光を浴びながら、ユリウスは自らの優雅な姿を姿見に映して悦に入っていた。
二十二歳という若さにして、王国有数の富裕な領地を誇るロシュ侯爵家の次期当主。見目も良く、家柄も申し分なく、社交界の中心で常に脚光を浴びるべき選ばれし男――それが自分なのだと、彼は露ほども疑っていなかった。
これまでは、実家同士の取り決めというだけの理由で、あの薄汚れた木綿ドレスばかりを着ていた地味なエリアーナを婚約者として宛がわれ、どれほど恥ずかしい思いをしてきたことか。
愛嬌もなく、気の利いた冗談の一つも言えず、夜会に連れて行けば壁の花にもなれずに俯いているだけの女。
そんな出来損ないの姉を切り捨て、誰もが振り返るような華やかな美貌を持つティファーヌを手に入れたのだ。周囲の貴族たちも、今頃は自分の英断を讃え、羨望の眼差しで見つめているに違いない――ユリウスの頭の中は、そんな都合のいい妄想だけで満たされていた。
「ユリウス様ぁ……もう起きられてしまわれたのですか?」
寝台の豪奢な天蓋の隙間から、甘ったるい嬌声が漏れ聞こえてきた。
薄絹のネグリジェを身に纏い、豊かな金髪を乱したティファーヌが、わざとらしく目を擦りながらあざとく小首を傾げていた。その細い首元や手首には、昨日ロシュ侯爵家のツケで買わせたばかりの、大粒のルビーをあしらった装飾品がこれ見よがしに煌めいている。
「ああ、起きたよ、私の愛しいティファーヌ。今日は素晴らしい一日になるぞ」
ユリウスはベッドサイドへと歩み寄り、ティファーヌの白く柔らかな手の甲に芝居がかった口づけを落とした。
「今日は天気が良い。君のために、我がロシュ侯爵邸が世界に誇る『自慢の庭園』で、二人きりの特別な朝のお茶会を開こうと思ってね。王都中の一流貴族たちが喉から手が出るほど欲しがる我が家の名物、奇跡の薔薇を眺めながら、極上の紅茶を味わうんだ」
「まあ! あの『奇跡の薔薇園』でのお茶会ですの!?」
ティファーヌの瞳が、爛々とした歓喜の光で輝いた。
「素敵ですわ、ユリウス様! わたくし、ずっとあのお庭でお茶会を開くのが夢でしたの! お姉様がいた頃は、なんだか薄気味悪い空気ばかり漂っていて、ちっとも楽しめませんでしたもの。あんな陰気な女がいなくなって、ようやくこの屋敷もわたくしにふさわしい輝きを取り戻しましたわね!」
「全くだ。あの地味女がいなくなったことで、我が領地の空気がどれほど清々しくなったことか。……さあ、最高のドレスに着替えておいで。テラスに特等席を用意させておくからね」
「はい、ユリウス様!」
ティファーヌは甘えたようにユリウスの頬にキスを返すと、侍女たちを大声で呼びつけて着替えの準備を始めさせた。
鼻歌交じりに主寝室を出たユリウスは、廊下に控えていた従僕に命じ、本邸の一階――庭園を一望できる大理石のテラスへと、最高級の銀器と菓子、そして特注の紅茶を準備させた。
すべては完璧だった。
愛する美女を侍らせ、自らの財力と領地の豊かさを誇示しながら、優雅な朝のひとときを過ごす。これぞまさに、高貴なる次期侯爵にふさわしい休日の過ごし方ではないか。
やがて、極彩色のフリルとレースを幾重にも重ねた、ド派手な真紅のドレスを着飾ったティファーヌがテラスへと現れた。香水の匂いが強すぎて周囲の空気を噎せ返らせるほどだったが、ユリウスはその派手さこそが「正義」だと信じ込んでいた。
「お待たせいたしました、ユリウス様。……まあ、とても素敵なテーブルセッティングですこと!」
「さあ、座るといい、ティファーヌ。君のその美しいドレスに負けない、極上の花園をお見せしよう」
ユリウスは誇らしげに胸を張り、大理石の手すりの向こう――眼下に広がる広大な庭園へと、大仰な身振りで腕を広げてみせた。
ロシュ侯爵邸の薔薇園。
それは、王国内でも知らぬ者はいないとされる伝説の庭園だった。
「奇跡の深紅の薔薇」――寒風吹きすさぶ秋の深まりにあっても決して花びらを落とさず、ビロードのような艶やかな真紅の花弁を誇らしげに広げ、辺り一面に天上の香水を思わせる芳香を漂わせる、ロシュ家の富と名声の象徴。
代々の侯爵たちすら咲かせることができず、ここ数年で突如として満開を誇るようになり、国王陛下すらも視察に訪れたという自慢の至宝。
その絶景を前にして、ティファーヌが息を呑み、自分に熱烈な賛辞を寄せるはずだった。
――しかし。
「…………え?」
手すりの向こうを見下ろしたティファーヌの口から漏れたのは、感嘆の声などでは断じてなかった。
それは、喉の奥から絞り出されたような、引き攣った裏返り声だった。
「な……なんなの……これ……? ユリウス様……これ、一体何の悪趣味な冗談ですの……!?」
「ん? 何を言っているんだ、ティファーヌ。冗談など――」
ユリウスは笑いながら視線を庭園へと向けた。
そして――その視線が庭の景色を捉えた瞬間、彼の顔から、すべての血の気がサッと引いた。
「…………なっ!?」
呼吸が、喉の奥で詰まった。
我が目を疑った。幻覚を見ているのかと、思わず両手で目を擦った。
そこに広がっていたのは、彼が誇らしげに語った「世界一美しい花園」などでは断じてなかった。
「な……なんだ、これは……!? どうなっているんだ!?」
眼下に広がっていたのは、まるで戦火に焼き払われたかのような、あるいは疫病の呪いでもかけられたかのような――救いようのない「死の荒野」であった。
幾重にも巡らされていたはずの自慢の生け垣。
そこに咲き誇っていた数万輪もの「奇跡の深紅の薔薇」は、一輪残らず、無残に首を垂れてぐったりと折れ曲がっていた。
花びらの一枚一枚が、まるで泥水を吸い上げたかのように黒褐色へと無残に変色し、端からボロボロと崩れ落ちている。瑞々しい緑を誇っていた葉は黄色く縮こまり、カサカサに干からびて土の上に散乱していた。
天上の香水と讃えられた甘やかな芳香など、微塵も存在しない。
風に乗ってテラスへと這い上がってきたのは、腐敗した生ゴミと、饐えた泥水が混ざり合ったような――鼻を突く耐え難い悪臭であった。
「うっ……! く、臭い……! 何ですの、このドブのような臭いは!?」
ティファーヌが悲鳴を上げ、扇で鼻と口を覆って後ずさった。
その異臭の発生源は、枯れ果てた薔薇だけではなかった。
ボコッ、ボコボコボコッ……!
庭園の中央に据えられた、白大理石造りの巨大な噴水。
本来であれば、清らかな水が幾重もの虹を描いて空へと舞い上がるはずのその場所から、不快極まりない濁流が吹き荒れていた。
噴水口から吐き出されているのは、清涼な湧水などではなく、赤錆とヘドロが混ざり合ったような、赤黒く濁った泥水だったのだ。
池の水面には油膜がギラギラと浮かび、枯葉と腐った花びらがドロドロに溶け合って、まるで魔女の毒釜のように泡を吹いていた。
「ひ、酷い……! 酷いわ、ユリウス様!」
ティファーヌが甲高い金切り声を上げて床を踏み鳴らした。
その愛らしいはずの顔は、屈辱と激怒で醜く歪んでいる。
「わたくしに最高の庭園を見せてくださるって言いましたわよね!? こんな……こんなゴミ捨て場みたいな場所でお茶会だなんて、わたくしへの嫌がらせですの!? ドレスに臭いがついてしまいますわ! 最低ですわ、ユリウス様なんて大嫌い!」
「ま、待ってくれ、ティファーヌ! 違う、これは私のせいではない! 何かの間違いだ!」
ユリウスは激しく狼狽し、取り乱しながら叫んだ。
自らのプライドをズタズタに引き裂かれた屈辱と、愛する女からの罵倒。
その行き場を失った怒りの矛先は、当然のように、屋敷の管理を任せていた使用人たちへと向けられた。
「おいッ!! 誰かあるッ!! おい、誰か来いッ!!」
ユリウスがテラスの手すりを力任せに叩き、狂ったように怒鳴り散らした。
その絶叫を聞きつけ、青ざめた顔で駆け込んできたのは、本邸の従僕たち、そして――庭園の管理を長年一手に引き受けてきた、白髪混じりの初老の老庭師長であった。
「旦、旦那様……! いかがなさいましたか……!」
「いかがなさいましたか、だとぉッ!?」
ユリウスは駆け寄ってきた老庭師長の胸倉を掴み上げんばかりに詰め寄り、唾を撒き散らして怒鳴りつけた。
「貴様のその腐った目は何のために付いているんだ! 見ろ、あの庭を! 我がロシュ侯爵家の顔である薔薇園が、ドブ川の肥溜め同然になっているではないか! ティファーヌとの大切な朝のお茶会を、貴様らのような下賎な虫けらが台無しにしおって!」
「も、申し訳ございません……! ですが、旦那様――」
「言い訳など聞くか! 手入れを怠ったな!? 水やりをサボり、肥料の管理を誤ったからこうなったのだろう! 貴様らのような無能どもに高い給金を払っていたかと思うと、虫唾が走るわ! 貴様ら全員、即刻クビだ! 一文の退職金も出さん、今すぐ荷物をまとめてこの屋敷から出て行けぇッ!!」
理不尽極まりない解雇宣告。
周囲の若い庭師たちが顔を蒼白にして震え上がるなか、胸倉を掴まれかけた老庭師長は、しかし――怯えるのではなく、悲痛極まりない瞳でユリウスの顔をじっと見つめ返していた。
その瞳の奥には、怒りすら通り越した、深い、底知れない絶望の色が湛えられていた。
「……旦那様。手入れを怠ったなどと、滅相もない言いがかりにございます」
庭師長の声は、掠れ、震えていた。
「私たちは、朝露の降りる前から夜が更けるまで、一日たりとも水やりを欠かしたことはございません。肥料も、土の耕しも、これまでと何一つ変わらぬ手順で行ってまいりました。……ですが、駄目なのです。十日前の夜会の日を境に……土が、まるで死んでしまったかのように硬く凍りつき、どれほど水を撒いても一切吸い上げなくなってしまったのです」
「ふん! 土が死んだだと!? 天候のせいにする気か! 無能の言い訳は見苦しいぞ!」
「天候のせいなどではございません……ッ!」
老庭師長は、絞り出すように叫んだ。
長年、この屋敷の土と植物を見守り続けてきた者だからこそ知る、決定的な「真実」を。
「……前の奥方様が……エリアーナ様が、いらっしゃらなくなったからでございます!!」
「…………は?」
ユリウスの口から、間抜けな声が漏れた。
「エ、エリアーナだと……? 今、何と言った?」
「エリアーナ様でございます!」
庭師長は両膝を大理石の床に突き、涙を流しながら訴えかけた。
「旦那様はご存知ないのですか!? この庭園の薔薇が、なぜ一年中、あのように美しく咲き誇っていたのかを! ……エリアーナ様が、毎朝、毎晩、誰よりも早く起きられては庭を歩かれ、冷え切った土にその白く細い手を押し当てていらっしゃったのです! 枯れかけた蕾があれば優しく撫で、病気にかかった枝があればご自身の魔力で癒やし、噴水の魔導循環の目詰まりまで、あのお方が夜遅くまで一人でお手入れしてくださっていたのですよ!!」
「な…………っ!?」
「あのお方が触れるだけで、死にかけた苗木が一瞬で生気を取り戻し、どんな痩せ地も黒々と肥沃な土へと生まれ変わったのです! この庭園の奇跡は、すべて……すべてエリアーナ様のその清らかな御手によって支えられていたのですよ!! あのお方がいなくなってから、この庭の『命の循環』は完全に途絶えてしまったのです……! あのお方を追い出しておいて、花が咲くはずがございません!!」
魂を絞り出すような庭師長の絶叫が、テラスに木霊した。
周囲の従僕たちも、息を呑んで視線を伏せている。薄々、彼らも気づいていたのだ。この屋敷のあらゆる「快適さ」と「美しさ」が、あの地味で無口な令嬢が人知れず施していた雑務によって成り立っていたということに。
しかし――。
そのあまりにも明白な真実を突きつけられたユリウスの反応は、反省でも後悔でもなかった。
「…………っ、ざ、ざけるな……ッ!!」
ボッと、ユリウスの顔が真っ赤に鬱血した。
こめかみに太い青筋が幾重にも浮かび上がり、怒りで全身を激しく痙攣させる。
認められるはずがなかった。
自分が「地味で無能な雑用係」と嘲笑い、ゴミのように切り捨てたあの女が。
我がロシュ侯爵家の最大の誇りであり、自らの権威の象徴であった薔薇園の奇跡を、たった一人で支えていたなどという事実を――肥大化した彼のプライドが、受け入れられるはずが断じてなかったのだ。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁぁぁッ!!」
ドガァッ!!
ユリウスは床に平伏していた老庭師長の肩を、革靴の爪先で力任せに蹴り飛ばした。
「ぐあっ……!」
「黙れ、老いぼれが! あんな地味で能なしの雑用女が、この至高の薔薇園に関係などあるはずがないだろうがッ! あいつはただ、部屋に閉じこもって帳簿を弄るくらいしか能のなかった、出来損ないの寄生虫だぞ!? あんな女に、そんな神業ができるわけがないだろうがッ!!」
喚き散らしながら、ユリウスは激しく肩で息をした。
隣のティファーヌもまた、扇を激しく仰ぎながら、ヒステリックに同調する。
「そうですわ! 何を寝言を言っていらっしゃいますの、この無礼な老いぼれは! お姉様にそんな力があるはずありませんわ! お姉様は昔から、わたくしの引き立て役しかできなかった無能ですもの! 自分の管理不足をお姉様のせいにするなんて、見苦しいにも程がありますわ!」
「その通りだ、ティファーヌ! おい、衛兵ッ!!」
ユリウスは駆けつけていた屋敷の私兵たちに、冷酷極まりない命令を下した。
「この老いぼれと、庭師の連中を今すぐ屋敷の敷地から叩き出せ! 二度と敷居を跨がせるな! ……代わりの庭師など、王都中から金を積んでいくらでも集めてやる! 最高峰の庭園師ギルドを呼びつけ、明日までにこの庭を元の満開に戻させろ! それができん奴らは全員クビだ!」
「は、ははっ……!」
兵士たちに乱暴に腕を掴まれ、引きずり出されていく老庭師長。
彼は泥にまみれた顔を上げ、去り際に、哀れみと絶望の混ざった瞳でユリウスを一瞥した。
「……後悔なさいますぞ、旦那様。……あのお方を手放した代償が、どれほど重いものか……貴方様は、骨の髄まで思い知ることになりますぞ……」
「黙って消え失せろ、ゴミがッ!!」
ユリウスは卓上の銀のポットを掴み、去りゆく老人の背中へ向けて投げつけた。
ガシャンとけたたましい金属音が響き、上等な紅茶がテラスの大理石を無残に汚す。
「……ハァ、ハァ……! どいつもこいつも、使えない無能ばかりだ……!」
荒い息を吐きながら、ユリウスは自らの乱れた髪を乱暴にかき上げた。
庭師を全員解雇し、怒鳴り散らしたことで、一瞬だけ胸のすく思いがした。すべては他人の怠慢のせいであり、自分には何の非もないのだと、そう思い込むことで己の正気を保とうとしたのだ。
――しかし。
現実は、彼の都合の良い癇癪などでは、一ミリたりとも動かなかった。
庭師長たちを叩き出した翌日、ユリウスは王都の商業ギルドに莫大な前金を払い、十数名の一流庭師を呼び寄せた。
だが、現場を見た庭師ギルドの長は、土を一握りすくい上げただけで、顔を青ざめさせて首を横に振ったのだ。
『……駄目です、侯爵令息様。この土は、ただ乾燥しているだけではありません。大地の生命力そのものが完全に死滅し、石のように壊死しています。どんな肥料を撒こうと、どんな高級な苗木を植えようと、根を張った瞬間に腐り落ちます。……最低でも数年間、土を丸ごと入れ替えて寝かせなければ、雑草一本すら生えませんよ』
そう言い残し、庭師たちは前金だけを懐に入れてそそくさと逃げ帰ってしまった。
庭園の薔薇は、日を追うごとにさらに黒く腐り果て、今や屋敷の窓を開けることすらできないほどの強烈な悪臭を放ち続けている。
そして――。
この自慢の花園の壊滅は、ロシュ侯爵領を襲うことになる未曾有の災厄の、ほんの小さな「プロローグ」に過ぎなかった。
執務室の机の上には、エリアーナというたった一つの防壁を失ったことで、収拾のつかなくなった領地経営の破綻の山が――まるで雪崩のように、音を立てて崩れ落ちようとしていたのである。




