第25話:届いた凶報と、ざまぁの幕開け
サロンの開け放たれたテラスから吹き込んできた風が、卓上の冷え切った紅茶の水面を微かに揺らした。
夕暮れの茜色の光が、窓枠を伝って部屋の奥へと長い影を落としている。
先ほどまで甘やかな吐息と、魂の再生を告げる温かな涙で満たされていた空間は、テラスの手すりから音もなく滑り込んできた一人の男によって、瞬時にして極めて緊迫した空気に包まれていた。
旅塵にまみれた深い緑の外套を翻し、床へと膝をついた美青年――諜報部隊長、ロヴェル・サン・ジュスト。
彼の蜂蜜色の金髪は汗と砂埃で額に張り付き、その琥珀色の瞳には、いつもの人を食ったような軽薄な色気など欠片も残っていなかった。手にした羊皮紙の束を強く握りしめ、かつてないほど鋭利で冷徹な視線を主君へと注いでいる。
「――閣下。急報です」
低く、地を這うようなロヴェルの声が、サロンの静寂を鋭く切り裂いた。
「ロシュ侯爵領で……エリアーナ様が抜けられたあの領地で、壊滅的な異変が始まったようです」
その言葉が落ちた瞬間、クロードの膝の上に座っていたエリアーナの華奢な肩が、ビクリと大きく跳ねた。
「……っ!」
エリアーナは息を呑み、反射的にクロードの胸元から身を起こして、自らの足で床へと下りようとした。
他国の重大な軍事情報である。ましてや、自分のかつての婚約者や実家に関わる不穏な報せを、大公の膝の上に抱かれたまま聞くなど、あまりにも不作法で恐れ多すぎる――染み付いた遠慮が、彼女を動かそうとしたのだ。
しかし――。
彼女の細い腰に回されていたクロードの逞しい腕は、緩むどころか、むしろ慈しむように優しく、しかし絶対に逃れられない確固たる力で、彼女の身体を引き寄せ直した。
「動かなくていい、エリアーナ」
耳朶を打つバリトンの声は、驚くほど穏やかで、砂糖菓子を溶かしたように甘かった。
クロードは彼女の栗色の髪を指先で優しく梳き、涙の跡が残る白い頬をそっと自らの胸板へと寄り添わせる。
「君はここにいていい。……君に関わるすべての事実は、君の耳で聞き、君の目で確かめる権利があるのだからね」
「で、でも……閣下、ロヴェル様の前でこのような姿勢は……」
「ロヴェルなど気にすることはない。……報告を続けろ、ロヴェル」
クロードはエリアーナへ向けていた蕩けるような眼差しをそのままに、膝元の部下へと冷ややかな一瞥を投げかけた。
主君のあまりの落差と相変わらずのスパダリぶりに、ロヴェルは引き攣った苦笑を漏らしかけたが、手にした報告書の重みを思い出し、即座に表情を引き締めて羊皮紙を広げた。
「……はっ。では、端的に申し上げます。エリアーナ様が王宮の建国記念夜会を辞し、ロシュ侯爵邸を出奔されてから、本日でちょうど十日が経過いたしました。……領地における崩壊の速度は、我が諜報部の予測を遥かに上回るペースで進行しております」
ロヴェルの口から語られた現実は、まさに悪夢そのものであった。
「まず、領地のシンボルであったロシュ侯爵邸の庭園です。エリアーナ様が指を鳴らして【万物最適化】を解除されたあの夜会以降、庭園に咲き誇っていた『奇跡の深紅の薔薇』は、一輪残らず黒く腐敗し、枯死いたしました。噴水の水源には泥が混ざり、悪臭を放つ濁流となって庭を浸食しております。ユリウスは激怒し、長年勤めていた老庭師長をはじめとする庭師全員を『管理を怠った無能』として即日解雇したとのことです」
「庭師長様を……解雇……?」
エリアーナの唇から、掠れた声が漏れた。
老庭師長は、頑固だが植物を心から愛する優しい老人だった。
エリアーナが一人で冷たい土を耕していた時、温かいハーブティーを差し入れしてくれたり、傷んだ枝の剪定のコツを教えてくれた恩人である。
その彼を、濡れ衣を着せて追い出したというのか。
「ええ。ですが、庭師を総入れ替えしたところで、花が蘇るはずもありません。……さらに深刻なのは、ロシュ侯爵領の財政を支えていた特産品――『銘酒ロシュ・ルージュ』のワイン醸造所です」
ロヴェルは淡々と報告を続ける。
「今季収穫された最高級の葡萄から醸造されていた樽のすべてが、突如として異常発酵を起こしました。芳醇な果実香は消え失せ、まるで泥水を腐らせたような強烈な酸臭とえぐみだけが残り、出荷を予定していた数千樽のすべてが『飲用に適さない産業廃棄物』へと成り果てました。王室御用達の看板を掲げていた大口の取引先や、帝都を含む各国の高級ホテルから、契約不履行による莫大な損害賠償請求が届き始めているようです」
「そんな……! あのワイン樽は、毎年、樽の木材の乾燥具合や発酵の温度を、私が少しだけ調整して差し上げていたのに……」
エリアーナの呟きに、クロードが低く喉を鳴らした。
「『少しだけ調整』ではないよ、エリアーナ。君が樽のポテンシャルを極限まで引き出し、雑菌の繁殖を完璧に抑え込んでいたからこそ、奇跡の美酒が生まれていたのだ。……君という奇跡の土台を失った瞬間、本来の凡庸な技術しか持たぬ者たちが作ったワインなど、ただの腐った果汁に戻るのは当然の帰結だ」
「……閣下の仰る通りです」
ロヴェルが頷き、さらに暗い影を落とす次なる事実を告げた。
「しかし、産業の崩壊など、これから起きる惨劇の前座に過ぎません。……最も致命的なのは、領地の外縁部に位置する『魔物除けの大結界石』です」
その単語が出た瞬間、サロンの空気が凍りついた。
「……結界石に、何があったのですか?」
エリアーナが身を乗り出す。
「ひび割れが、日を追うごとに拡大しております。エリアーナ様が注ぎ込み続けていた莫大な純粋魔力が完全に途絶えたことで、太古の遺物であった結界石は、自らの構造を維持できなくなっているのです。……すでに、領地の北部と東部の境界において結界が完全に破断いたしました」
ロヴェルの声が、低く沈み込む。
「これまで結界を恐れて森の奥深くに潜んでいた低級魔獣――フォレストウルフやゴブリンの群れが、街道沿いにまで白昼堂々と出没し始めております。すでに、王都と領地を結ぶ幹線道路において、商人の荷馬車が三台、完全に襲撃されて護衛騎士が重傷を負いました。交易商人たちは恐怖のあまりロシュ侯爵領への立ち入りを拒否し、領内の物流は完全にストップしております」
「馬車が、襲撃……!? 怪我人が出たのですか……!?」
エリアーナの顔から血の気が引いた。
彼女が三年間にわたり、自らの睡眠と生命力を削って守り抜いてきた領民たちの平和。
それが、わずか十日足らずの間に、魔獣の脅威に晒される無法地帯へと転落しかけているのだ。
「ええ。商人ギルドからは『安全が確保されるまで、一切の商取引を停止する』との最後通牒が突きつけられ、近隣の貴族諸侯からも『お前の領地の防衛はどうなっているのだ』と激しい抗議文が殺到しているとのことです。……そして、その未曾有の危機に直面した当の当事者たちは、と言いますと」
ロヴェルの口元に、冷え切った侮蔑の笑みが浮かんだ。
「次期当主のユリウスは、執務室に閉じこもり、山積みの書類を前に頭を抱えて喚き散らしているそうです。『なぜ数字が合わない!』『なぜ帳簿が合わない!』と机を叩き、書類を床に投げ散らかすばかり。……彼には、エリアーナ様が一人で処理していた高度な複式簿記の構造など、一行たりとも理解できないのです。代官たちの不正横領の数字を見抜くこともできず、金庫の残高を確認しては青ざめている状態だとか」
「ユリウス様が……」
「さらに笑えないのは、妹のティファーヌ嬢です」
ロヴェルは呆れたように肩をすくめた。
「領地が破滅の淵に瀕していることなどどこ吹く風。彼女は王都の高級仕立屋や宝飾店を屋敷に呼びつけ、『次期侯爵夫人にふさわしい最高級のドレスと宝石』を、すべてロシュ侯爵家のツケで買い漁り続けているそうです。ユリウスが『少しは贅沢を控えろ!』と怒鳴りつければ、『私を愛していると言ったのは嘘だったの!?』『お姉様より私の方がふさわしいと言ったじゃない!』と大号泣してヒステリーを起こす始末。……すでに、侯爵家のツケの請求額は、領地の半年分の税収に匹敵する額に達しております」
「…………」
エリアーナは、言葉を失った。
あまりにも、愚かしい。
あまりにも、身勝手で、救いようのない現実。
自分を「地味で無能な雑用係」と罵倒し、大広間の真ん中で嘲笑いながら追い出した二人が。
そのたった十日後に、自らの無能と強欲によって、領地を破滅の泥沼へと引きずり込んでいる。
(私が……いなくなったから……)
ふと、エリアーナの胸の奥に、かつての呪縛の残滓が頭をもたげかけた。
自分が身を粉にして支えていたからこそ保たれていた平穏。
もし自分がすべてを投げ出さず、あの冷たい執務室で耐え続けていたなら、領民たちが魔獣に怯えることも、商人の馬車が襲われることもなかったのではないか――。
長年の過労と自己犠牲が染み付いた彼女の優しい心が、無意識のうちに己を責めようとした、その刹那。
スッ、と。
クロードの大きな掌が、エリアーナの額へとそっと当てられた。
心地よい温もりが、彼女の思考の乱れを優しく押し包む。
「……エリアーナ」
クロードの氷青色の瞳が、彼女の琥珀色の双眸を、真っ直ぐに射抜いていた。
そこには、一抹の迷いも、揺らぎも存在しなかった。
「自分を責めようとしているね。……君のその優しさは美しいが、この件において、君が心を痛める筋合いは塵芥ほどにもない」
「で、でも……クロード様。領民の方々が……」
「よく思い出してごらん」
クロードの声は、静かに、しかし岩をも穿つような確信に満ちていた。
「あの日、王宮の大広間で、君を『無能』だと罵り、切り捨てたのは誰だ?
『お前のような地味な女はいらない』と嘲笑い、華やかな妹を選んだのは誰だ?
そして――『私がかけていた付与魔法はすべて解除して出ていきます』と告げた君の言葉を、『負け惜しみの戯言だ』と笑い飛ばしたのは、一体誰だったのかな?」
「…………っ」
脳裏に蘇る、あの夜会の光景。
胸を反らし、傲慢に顎を突き出して嘲笑っていたユリウスの顔。
扇の陰で勝ち誇った笑みを浮かべていた妹ティファーヌの瞳。
指を鳴らし、恩恵を解いた後も、彼らは何一つ気づかず、腐りかけたワインを煽って「明日からさらなる栄華を極める」と叫んでいたのだ。
「彼らは、自らの意志で君を捨てたのだ」
クロードは彼女の小さな手を自らの両手で包み込み、引き寄せて、その甲に熱い口づけを落とした。
「君の献身を当たり前のものとして貪り、感謝の一片すら抱かず、あまつさえ踏み躙った。……彼らが今直面しているのは、他者から理不尽に課せられた悲劇ではない。自らの傲慢と無能、そして強欲が招いた、完全なる『自業自得』の報いだ」
クロードの眼差しは、どこまでも澄み渡り、そしてどこまでも冷徹だった。
「君は、十分に警告を与えた。身を引くと言い、魔法を解くと言った。それを信じず、自らの手柄だと過信して悦に浸っていたのは彼ら自身だ。……ならば、その傲慢のツケを、彼ら自身の血と骨で支払うのは当然の道理だろう?」
「クロード様……」
「君が責任を感じる必要など、爪の先ほどもない。君はもう、あのロシュ侯爵領の人間ではないのだからね。……君は、我がアルジェント帝国の至宝であり、私の愛しい妃だ。君のその尊い奇跡の手は、君を愛し、君を敬う者のためにだけ使われるべきなのだよ」
「…………っ」
胸の奥底に滞っていた、最後の迷いの霧が、ふわりと晴れ渡っていった。
そうだ。
クロードの言う通りだ。
自分は、もうあの場所の便利な道具ではない。
彼らが自らの手で恩恵を叩き壊し、自らの手で破滅への扉を開いたのだ。
泣いてすがることもせず、ただ静かに去った自分に対し、彼らが支払うべき「代償」の時が、今まさに訪れているに過ぎない。
エリアーナは深く息を吸い込むと、クロードの胸元で、静かに頷いた。
「……はい、クロード様。私……もう、振り返りません。あの領地で何が起きようと、それはユリウス様とティファーヌが、お二人で背負うべき運命ですわ」
「ああ、それでいい」
クロードの顔に、この上なく満足げな、極上の甘い笑みが咲き誇った。
彼は彼女の額にそっと自らの唇を押し当てると、慈しむようにその背中を撫でた。
そして――。
クロードはゆっくりと顔を上げると、膝元に控えていたロヴェルへと視線を向けた。
その瞬間。
クロードの表情から、先ほどの蕩けるような甘やかさが、氷の刃のように削ぎ落とされた。
現れたのは――大陸全土を震撼させる「氷の死神」としての、冷酷無比なる絶対強者の貌。
切れ長の氷青色の双眸に、獲物をじわじわとなぶり殺しにする冷徹な捕食者の光がギラリと宿る。
薄い唇の端が、残忍な弧を描いて吊り上がった。
「……ロヴェル」
「はっ」
「帝国軍は、一切の手出しをするな。国境警備隊にも厳命せよ。ロシュ侯爵領からの救援要請、並びに難民の流入があろうとも、国境の門は固く閉ざしたままとしろ」
「御意にございます」
ロヴェルの口元にも、主君と同じ冷ややかな笑みが浮かぶ。
「泳がせておくのだ。……己の身の丈も知らず、神の奇跡を踏み躙った豚どもが、どこまで無様に転落していくのか。……その一部始終を、一文字の漏れもなく記録しておけ。ユリウスとティファーヌが犯すであろう横領、不正蓄財、領民への暴虐、そして公文書偽造の証拠――そのすべてを、我が諜報部の手で完璧に押さえておくように」
「承知いたしました、閣下。……すでに我が諜報網の蜘蛛の巣は、ロシュ侯爵邸の執務室の隅々にまで張り巡らされております。彼らが足掻けば足掻くほど、首を絞める縄はより強固に締まりましょう」
「よろしい」
クロードは低く笑った。
その笑みは、美しい彫刻の如き美貌と相まって、神話の魔王のように禍々しく、そして圧倒的な威厳に満ちあふれていた。
「――そうか。では、愚か者どもが自滅していく様を、特等席で見守るとしよう」
冷酷公爵が下した、静かなる引導。
アルジェント大公城のテラスから見下ろす帝都の街並みは、古代樹の恩恵を受け、かつてないほどの豊かな実りと活気に満ちあふれていた。
城下の農民たちは豊作を祝って歌い、兵士たちは神剣と強化された結界に誇りを抱き、人々は奇跡の聖女エリアーナの名を、天上の女神のように讃えている。
愛され、守られ、満ち足りた幸福の中で、エリアーナは今、世界で最も尊い居場所を手に入れていた。
しかし――遥か南、王国ロシュ侯爵領。
そこには、恩恵を失い、傲慢の報いに震え、破滅へのカウントダウンを刻み始めた、愚かな道化たちの阿鼻叫喚が幕を開けようとしていた。
因果応報の歯車は、もう二度と止まらない。
自業自得の「ざまぁ」の嵐が、いま、凄まじい勢いで吹き荒れようとしていた――。




