第24話:失われた自尊心の再生
午後の柔らかな光が、サロンのレースのカーテン越しに淡い黄金色の縞模様を描いていた。
卓上で湯気を立てていた紅雪茶の香り、小箱の中で静かに眠るクリスタルの小鳥、そして瑠璃色に輝く星露葡萄――先ほどまで三人の優秀な男たちが我先にと自らの忠誠と好意を競い合っていた痕跡が、静まり返った部屋の中に残されている。
部下たちに容赦のない追加任務を言い渡して追い払ったクロードは、今、ソファーの中央に深く腰を下ろし、その逞しい両腕でエリアーナの華奢な身体をすっぽりと抱きかかえていた。
彼の太腿の上に座らされ、広い胸板に背中を預ける形になったエリアーナ。
首筋に触れるクロードの温かな吐息と、薄いドレス越しに力強く規則正しく響いてくる彼の心臓の鼓動。
他国では「氷の魔将」「歩く天災」と恐れられ、何人をも寄せ付けぬ孤高の英雄が、まるで愛しい宝物を世界のすべてから隠し通そうとするかのように、腕の中に閉じ込めて離そうとしない。
それは、世のいかなる女性にとっても息が止まるほど甘美で、夢のような溺愛の情景であった。
しかし――。
その信じられないほどの温もりと安らぎに包まれながらも、エリアーナの小さな指先は、自らのドレスの裾をぎゅっと痛いほどに握りしめていた。
トクン、トクン、と脈打つ自らの心臓の音。
それが、歓喜のそれではなく、胸の奥底から這い上がってきた冷たい「恐怖」によって早鐘を打っていることを、彼女自身、痛感していた。
(あたたかい……。こんなにも、温かくて、優しいのに……)
視界が、ふっと翳る。
暖炉の火の温もりも、部屋を満たす甘い果実の芳香も、彼女の心の奥深くにこびりついた「暗い記憶の澱」を完全に溶かし去ることはできていなかった。
むしろ、今与えられている幸福が大きければ大きいほど、注がれる愛が深ければ深いほど――彼女の魂の芯を、底知れない不安が冷たく締め付けてくるのだ。
「……エリアーナ?」
耳朶を打つ、低く柔らかなバリトンの声。
クロードの腕が、わずかに強張った彼女の身体を確かめるように、そっと引き寄せられた。
彼は彼女の耳元に寄せていた顔をわずかに離し、横からエリアーナの横顔を覗き込んできた。
その切れ長の氷青色の双眸は、鋭利な刃の如き冷徹さを完全に潜め、水底のように澄み切った色で彼女の一挙手一投足を観察している。
人の心の微細な揺らぎ、筋肉の僅かな強張り、呼吸の乱れ――戦場と宮廷の修羅場をくぐり抜けてきた男の鋭敏な知覚は、彼女が抱え込んだ暗い影を一瞬で見抜いていた。
「どうしたんだい? ……まだ、寒気が残っているだろうか。それとも、私の抱きしめ方が強すぎて、どこか痛かったかな」
「い、いえ……っ」
エリアーナは慌てて首を振った。
「そんなこと、ありません。痛くなんて……ちっともありません。閣下の腕の中は、とても温かくて……」
「なら、なぜそんな顔をする?」
クロードの大きな手が、彼女の頬へとそっと伸ばされた。
手袋を外した素肌の掌。剣ダコのある指先が、壊れやすい花びらに触れるように慎重に、彼女の青白い頬を包み込む。
親指の腹が、伏せられた彼女の長い睫毛の端を優しく撫でた。
「嘘をつかなくていい。……君の瞳が、怯えている。まるで、今にも崖から突き落とされるのを待っているかのように。……私に言えないことかい?」
問いかける声音は、どこまでも優しく、どこまでも甘かった。
急かすことも、責めることもない。ただ、彼女が口を開くのをいつまでも待つという、絶対的な包容力。
その優しさが、エリアーナの胸の奥底で張り詰めていた最後の防壁を、あっけなく突き崩した。
「…………っ」
視界が、じわりと滲んだ。
堪えようとしても、目頭の奥から熱いものが溢れ出して止まらなくなる。
エリアーナはクロードの膝の上で小さく身を縮こまらせ、ポロポロと零れ落ちる涙を隠すように、両手で顔を覆った。
「あ、あの……閣下……私……私、怖いのです……」
震える声。
途切れ途切れに零れ落ちるその言葉を、クロードは息を詰めて聞き入れた。
「怖い……? 何が怖いんだい、エリアーナ。私かい? それとも、この城の誰かが君を脅かしたのか?」
「違います……! 皆様ではありません……! 閣下も、バスティアン様も、ニコラ様も、ロヴェル様も、ミレイユさんも……皆様、信じられないほどお優しくて……私にはもったいないくらい、良くしてくださって……!」
しゃくりあげる声が、サロンの静寂に痛々しく木霊する。
「だからこそ……怖いのです。……私のような者が、こんなに大切にされていいはずがありません……。だって、私……前の家では、ずっと……ずっと『役立たず』だと言われて育ってきたのですから……」
その単語が口から零れ落ちた瞬間、クロードの身体が、微かにピクリと跳ねた。
だが、エリアーナはそれに気づかず、長年胸の奥に押し込めていた暗闇のすべてを、吐き出すように語り続けた。
「ヴァン・ベルクの実家にいた頃から、父様も、義母様も、私のことを『地味で愛嬌のない出来損ない』だと仰っていました。母様が亡くなってからは、妹のティファーヌばかりが可愛がられて……私はいつも、薄暗い部屋で雑用ばかりを言いつけられて……」
幼い頃の記憶。
新しいドレスを着て着飾る妹の影で、すり切れた古着を着て、冬の冷たい水で雑巾がけをさせられていた日々。
どれほど頑張っても、褒められることなど一度もなかった。
「お前は可愛げがない」「ティファーヌの引き立て役にでもなっていればいい」と、嘲笑と冷遇だけが彼女の日常だった。
「ロシュ侯爵家に引き取られてからも、同じでした。ユリウス様は、私の顔を見るたびに『お前のような地味な女を妻にする男の身にもなれ』と仰って……。朝から晩まで、夜中を過ぎても、机の上に山積みにされた帳簿の計算や、領民の陳情書の処理を押し付けられました。私が徹夜で終わらせても、『遅い』『手際が悪い』と怒鳴られて……」
指先が凍える冬の夜の執務室。
頭痛と吐き気に耐えながら、一人で魔獣除けの結界石に魔力を注ぎ続けた記憶。
誰にも知られぬよう農地を整え、水源を清め、命を削って尽くし続けても、返ってきたのは侮蔑と無関心だけだった。
「あの建国記念の夜会で……ユリウス様から婚約破棄を言い渡された時、私は……本当に、心の底からホッとしたのです。もうあの冷たい部屋で怒鳴られなくていいのだと、嬉しくてたまらなかった……。でも、同時に思い知らされたのです。ああ、私という人間は、誰からも愛されず、ただ便利な雑用係としてしか、この世界に存在価値がなかったのだと……」
エリアーナの胸元から、母の形見である蒼い星彩石のペンダントが零れ落ちる。
彼女はその小さな石を涙で濡れた手でぎゅっと握りしめた。
「それなのに……ここに来てから、閣下は私を抱きしめてくださって、息をするのも忘れるような美しいドレスをたくさん買い与えてくださって……。騎士団長様もお茶を運んでくださり、魔導士様は可愛い玩具を作ってくださり、諜報部隊長様は珍しい果物を持ってきてくださる……」
顔を覆っていた手を下ろし、涙でぐしゃぐしゃになった顔を、エリアーナはクロードへと向けた。
その琥珀色の瞳は、罪悪感と底知れぬ恐怖で激しく揺らめいていた。
「私、何もしていないのです……! 少し木の下の土をお掃除したり、壊れかけた術式や暗号の並びを整えたり、ドレスの留め具を直したりしただけで……誰にでもできるような、些細な雑用しかしていないのに……! こんなに良くしていただいて……もし、いつか皆様が『やっぱりこいつは、何の役にも立たない地味な女だった』と気づかれたら……」
喉が詰まり、息が荒くなる。
「その時……また、捨てられてしまうのではないかって……! あの日と同じように、『お前などいらない』と冷たく見下ろされて、暗闇の中に放り出されてしまうのではないかって……そう思うと、怖くて、怖くてたまらないのです……っ!」
泣き叫ぶような告白。
二十年間、一度たりとも誰にも言えなかった、魂の叫び。
大切にされればされるほど、愛されれば愛されるほど、それを失う瞬間の絶望を想像して震えてしまう――虐待され続けた者が背負う、あまりにも深く、残酷な心の傷。
サロンの中に、エリアーナの切ない嗚咽だけが響き渡っていた。
「…………」
クロードは、沈黙していた。
だが、その肉体から放たれる気配は、かつてない異様な変貌を遂げていた。
彼の首筋に、青筋が太く浮き上がっている。
噛み締めた奥歯から、ギリ……と微かな軋み音が漏れ、その氷青色の瞳の奥底には、地獄の業火をも凍てつかせるような、底知れない「激憤」と「殺意」のマグマが煮えたぎっていた。
(あの豚どもめが…………ッ!!)
クロードの胸中で、狂おしいほどの怒りの嵐が吹き荒れていた。
世界で最も尊く、触れるものすべてを奇跡へと変えてしまうこの少女を。
神の愛し子そのものである彼女を、あの愚鈍な貴族どもは、どれほど踏み躙り、どれほどその柔らかな心を切り刻んでいたというのか。
役立たず? 出来損ない? 地味な雑用係?
万死に値する。一族郎党、骨の一片すら残さず永久凍土の底へ叩き落とし、魂の果てまで凍結させてやりたいほどの憎悪。
だが――。
クロードは、その怒気の刃を、目の前で泣きじゃくる少女に向けて漏らすことは決してしなかった。
彼は強靭な意志の力で自らの殺気を完全にねじ伏せ、すうっと深く息を吸い込んだ。
そして――瞳の中に残ったもの。
それは、怒りなど遥かに凌駕する、底なしの慈愛と、狂おしいほどの情熱であった。
「……エリアーナ」
低く、甘く、胸の奥底に直接染み渡るような声。
クロードは自らの大きな両手を伸ばすと、涙で濡れた彼女の小さな右手を、そっと自らの掌の上に乗せた。
長年の過酷な労働で細くなり、それでもなお、誰かのために奇跡を紡ぎ続けてきた、白く可憐な手。
クロードは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめながら、ゆっくりと顔を寄せた。
そして――。
ちゅ、と。
エリアーナの右手――その「親指」の先端に、自らの熱い唇を、慈しむように落とした。
「っ……!? か、閣下……?」
エリアーナが驚いて息を呑む。
だが、クロードは止まらなかった。
続いて、「人差し指」の腹へ。
柔らかな唇が触れ、温かな呼気が彼女の肌を包み込む。
ちゅ、と。
次は「中指」の第一関節へ。
祈りを捧げる巡礼者のように、敬虔に、そして熱烈に。
ちゅ、と。
「薬指」の爪の先へ。
愛しい宝物を確かめるように、深く、甘く。
ちゅ、と。
最後に「小指」の腹へ。
消えない約束を刻み込むように、唇を押し当てる。
「あ……あ……っ」
一本、また一本と、指先に落とされる熱い口づけ。
そのたびに、エリアーナの背筋を、痺れるような甘い電流が駆け抜けていく。
右手だけでは終わらなかった。
クロードは彼女の左手を引き寄せると、同じように、親指から小指に至るまで、すべての指先の一つひとつに、優しく、丁寧に、惜しみない愛の口づけを降らせていったのだ。
十本の指先すべてを自らの唇で清め終えたクロードは、彼女の小さな両手を自らの胸元――ドクドクと力強く脈打つ心臓の真上へと強く引き寄せた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
至近距離で交錯する視線。
クロードの氷青色の瞳は、濡れていた。
目の前の少女が背負ってきた苦痛の深さに心を痛め、同時に、彼女を救い出すことができた奇跡に対する、狂おしいほどの歓喜の光。
「エリアーナ。よく聞いてくれ」
その声は、大陸最強の男が放つ、世界で最も甘く、最も力強い「魂の宣告」であった。
「君を役立たずと呼んだ連中は――ただの、盲目の愚か者だ」
一点の迷いもない、絶対的な断言。
「古代樹を蘇らせ、大公城全域に神話級の結界を張り直した力。
壊れかけた騎士の剣を国宝の神剣へと昇華させた力。
天才魔導士が半年かけて解けなかった術式の乱れを一瞬で整えた知性。
諜報部が総掛かりで挑んでも読めなかった暗号を一目で見抜いた慧眼。
……そのどこが、誰にでもできる雑用だというんだ?」
「で、でも……私、本当に少し整えただけで……」
「それが、君の規格外の尊さなんだよ」
クロードは愛おしそうに微笑み、彼女の手の甲に再び唇を落とした。
「君にとっては呼吸をするように簡単なことでも、この世界の誰一人として成し遂げられない奇跡なのだ。……それを『雑用』と呼び、君の命を削って搾取し続けたあの者どもは、豚に真珠を与えられて、その価値に気づけなかった愚か者に過ぎない」
クロードの瞳の奥に、揺るぎない絶対の光が宿る。
「だが、私は違う。……三年前、毒に侵された私に君が差し出してくれた水一杯から、私は君の魂の尊さを知っていた。君がどれほど尊く、どれほど純粋で、どれほどかけがえのない奇跡であるかを、誰よりも深く理解している」
クロードは彼女の両手を自らの頬へと押し当てた。
温かな青年の肌の熱が、エリアーナの手のひらを通じて、彼女の全身へと流れ込んでいく。
「君は、役立たずなどではない。
君はこの世で最も尊く、最も気高く、そして――この私の、命そのものだ」
「命……そのもの……?」
「そうだ」
クロードの腕が、彼女の細い腰を力強く引き寄せ、自らの胸の中へとすっぽりと抱きしめた。
逃げ場のない、圧倒的な愛の檻。
耳元に、彼の熱い囁きが、魂を震わせるように降り注ぐ。
「君がいなければ、私は三年前のあの夜会で死んでいた。君がいてくれたからこそ、今の私がある。……君が自分を無価値だと思い込もうと、私が何万回でも否定してやる。君の価値を、君の素晴らしさを、私の生涯のすべてを使って、嫌というほど証明し続けてみせる」
彼の大きな手が、エリアーナの背中を、子供をあやすように優しく、ゆっくりと撫で下ろす。
「捨てられることなど、天地が裂けても有り得ない。……手放すものか。奪われるものか。たとえ神が天から降りてきて君を連れ去ろうとしたとしても、私は神ごと世界を凍結させて君を守り抜く。……君の居場所は、ここだ。私の腕の中だけだ、エリアーナ」
「…………っ!」
胸の奥で、何かが完全に砕け散った。
二十年間、彼女の心を縛り付けていた冷たい鎖。
「お前はいらない」「お前は無能だ」「お前は愛されない」という、呪いのようにこびりついていた無数の言葉たち。
そのすべてが。
クロードの、あまりにも無条件で、あまりにも圧倒的な「魂の全肯定」によって――跡形もなく、粉々に粉砕され、温かな光の粒子となって消え去っていったのだ。
(ああ……)
エリアーナの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
だが、それはもう、恐怖の涙ではなかった。
凍てついていた魂の芯が完全に解凍され、春の雪解け水のように溢れ出す――真の救済の涙。
「う……あ……っ」
エリアーナはクロードの深藍色の胸元に自らの顔を埋め、彼のシャツを小さな両手でぎゅっと握りしめた。
甘えていいのだ。
ここにいていいのだ。
この人は、自分を絶対に捨てない。世界中の誰が自分を否定しようとも、この男だけは、命を賭けて自分を愛し抜いてくれる。
「クロード様……っ、クロード様……!」
生まれて初めて、立場や恐縮をかなぐり捨てて、彼の名を呼んだ。
その呼び声を聞いた瞬間、クロードの身体が歓喜に震えた。
彼は愛おしげに喉を鳴らすと、彼女の豊かな栗色の髪に深く顔を埋め、その柔らかな後頭部を抱きしめた。
「ああ、エリアーナ。私の愛しい人。……泣き疲れるまで、ここで泣くといい。君の過去の傷のすべてを、私が愛で溶かし尽くしてあげよう」
サロンの中に流れる、濃密で甘やかな時間。
窓から差し込む陽光が二人を優しく包み込み、失われていた少女の自尊心は、最高のスパダリの腕の中で、完全に再生の産声を上げていた。
――しかし。
大公城がこのような至福の多幸感に包まれていた、まさにその時。
バサリ、と。
サロンの開け放たれたテラスから、黒い影が滑り込んできた。
任務で帝都を離れたはずの諜報部隊長、ロヴェルであった。
彼の蜂蜜色の髪には砂埃がつき、その整った美貌には、先ほどまでの飄々とした軽薄さは微塵も残っていなかった。
手にした一通の緊急報告書を握りしめ、かつてないほど険しい表情で、主君を見据えている。
「――閣下。急報です」
ロヴェルの低く緊迫した声が、サロンの空気を引き裂いた。
「ロシュ侯爵領で……エリアーナ様が抜けられたあの領地で、壊滅的な異変が始まったようです」
その報告を聞いた瞬間。
クロードはエリアーナの涙を優しく拭いながら、ゆっくりと顔を上げた。
その唇に浮かんだのは――愚か者どもの破滅を宣告する、冷徹無比なる「氷の魔将」の笑みであった。




