第20話:諜報部隊長ロヴェルの密偵報告
ピキリ、ピキリ……と、中庭の敷石を這うようにして、青白い霜の結晶が放射状に広がっていった。
先ほどまで「白銀の古代樹」が放つ春の陽だまりのような暖気に包まれていたはずの空間が、瞬く間に息の白む絶対零度の極寒へと逆戻りしていく。
回廊の影から響いてくる、規則正しい軍靴の足音。
カツン、カツンと大理石を叩くその硬質な響きだけで、中庭にいた屈強な近衛兵たちも、先ほどまでいがみ合っていた騎士団長バスティアンと天才魔導士ニコラも、揃って背筋を凍りつかせて硬直した。
「――私の城で、私の愛しい人を囲んで、一体何をしているのかな? 我が優秀な部下たちよ」
低く、深みのあるバリトンの声。
耳朶をくすぐる音色自体は甘美極まりない美声であるはずなのに、そこに込められた質量は、大陸全土を氷河期に沈めかねないほどの凄まじい威圧感と嫉妬の炎を孕んでいた。
現れたのは、白銀の髪を冷涼になびかせた若き最高権力者――大公クロード・ディス・アルジェントその人であった。
軍議を終えたばかりの深藍色の礼装のまま、長身の身体から一切の手加減なしに「氷の魔将」としての覇気を立ち上らせている。その切れ長の氷青色の双眸は、鋭利な氷柱のように尖り、エリアーナの両脇を固めていた二人の男を射抜いていた。
「ゲッ……閣下……!?」
ニコラが悲鳴のような声を漏らして杖を抱え込み、後ずさる。
「か、閣下! これは決して良からぬ意図などではなく、古代樹様の覚醒に伴い――」
バスティアンが慌てて直立不動の姿勢を取り、弁明を試みる。
だが、クロードは部下たちの言葉など一文字たりとも聞く耳を持たなかった。
彼は大股で二人の間へと割り込むと、凍えるような一瞥でバスティアンとニコラを左右へと物理的に押し退けた。そして――エリアーナの前に立った瞬間、その厳寒の仮面を嘘のようにかなぐり捨てたのだ。
「エリアーナ。寒くはなかったかい? 変な輩に絡まれて、怖い思いはしなかっただろうか」
蕩けるように甘い声。
クロードは彼女の華奢な腰にそっと腕を回すと、引き寄せるようにして自らの逞しい胸元へと抱き留めた。至近距離で見つめ合う瞳には、先ほどの氷の殺気など微塵もなく、ただ愛しい宝物を奪われまいとする大型犬のような切実な独占欲だけが満ちている。
「あ、あの……閣下! お二人とも、ちっとも変な方ではありません! 私がお庭をお掃除して、散らかしてしまったのを優しく教えてくださっただけで……!」
真っ赤になって弁明するエリアーナ。
しかし、クロードはその言葉の端々から「優しく教えてくれた」という部分だけを拾い上げ、背後の部下たちへと再び氷よりも冷たい視線を向けた。
「そうか。……バスティアン、ニコラ。我が妃にこれ以上の負担をかけさせぬよう、貴様らには後ほど個別の『特別訓練』と『魔力演習』を課す。執務室で報告書をまとめて待機していろ」
「そ、そんなぁ……!」
「ぐっ……御意に……」
号泣寸前のショタ魔導士と、悔しそうに拳を握る堅物騎士団長。
クロードは部下たちの抗議を一瞥で黙殺すると、エリアーナの肩を抱いたまま、優雅に身を翻した。
「さあ、部屋へ戻ろう、エリアーナ。冷たい風に当たりすぎて風邪でも引いたら一大事だ。温かい林檎のコンポートを用意させてあるからね」
「ひゃっ……閣下、歩けます、自分で歩けますから……!」
抗議するエリアーナを、クロードはほとんど宙に浮かせるような過保護な抱擁でエスコートし、中庭を後にしていった。
残されたのは、満開の古代樹と、主君のあまりのスパダリぶりに打ちのめされた二人の男たちだけであった。
◇
それから数刻後。
正午を少し回った頃、アルジェント大公城の巨大な白亜の正門を、一騎の黒馬が軽やかな足取りでくぐり抜けた。
馬上の人物は、砂埃を被った旅用の深い緑の外套を羽織り、ゆったりと手綱を操っていた。
外套のフードを跳ね上げると、現れたのは陽光を浴びて艶やかに波打つ蜂蜜色の金髪と、悪戯っぽく細められた琥珀色の双眸。
通った鼻梁、女好きの道楽貴族を思わせる薄い唇には、常に人を食ったような飄々とした笑みが張り付いている。二十代半ばの、誰もが見惚れるような極上の美青年。
アルジェント帝国諜報部隊長――ロヴェル・サン・ジュスト(二十六歳)。
他国の宮廷、裏社会、闇市場、果ては隣国の王宮中枢に至るまで、蜘蛛の巣のように張り巡らされた帝国の情報網を束ねる最高責任者である。
他国の令嬢を口説き落とすような甘いマスクの裏に、大陸有数の明晰な頭脳と冷徹な計算高さを隠し持った、クロードの最も頼れる腹心の一人であった。
「ふあぁ……っと。ようやく帝都に戻ってこれたよ。他国の馬車に揺られるのは、腰に悪くて敵わないねぇ」
大仰にあくびを噛み殺しながら、ロヴェルは軽やかに鞍から飛び降りた。
手綱を迎えに出た従僕に預け、埃を払う。
数ヶ月に及ぶ王国方面への長期潜入任務を終え、ようやく手に入れた極秘情報を携えての帰還であった。
だが――城内へと足を踏み入れた瞬間、ロヴェルの鋭い観察眼が、ただならぬ違和感を捉えた。
「……ん? なんだい、この空気は……?」
城門の警備兵たちの様子が、明らかにおかしかった。
普段であれば、軍規に厳しいクロードの元で張り詰めた鉄の表情を崩さない近衛兵たちが、なぜか揃って頬を緩め、夢見るような眼差しで空を見上げているのだ。
「おいおい、貴様ら。何か良いことでもあったのかい? 給料でも倍になったような腑抜けた面をしてるじゃないか」
ロヴェルが軽口を叩くと、門番の騎士がハッと我に返り、次いで熱烈な勢いで語りかけてきた。
「あ、ロヴェル部隊長! お戻りでしたか! いえ、それどころではありませんよ! 奇跡が起きたのです! あのお方が……エリアーナ様が、城の古代樹様を一瞬で満開に咲かせられたのですよ!」
「……は? エリアーナ様?」
聞き慣れない名前に、ロヴェルは眉をひそめた。
「誰だい、その女性は。新しく雇われた高位の樹木魔導士かい?」
「違います! 閣下が自ら国境でお迎えになられた、至高の女神様ですよ! あの方が歩かれた中庭の敷石からは神聖な香りが漂い、あの方の微笑みひとつで城下の作物が一斉に実ったのです! ああ、エリアーナ様……なんと尊く、慈愛に満ちたお方なのだろう……!」
「…………」
騎士が胸の前で手を組み、陶酔しきった表情で祈りを捧げ始める。
ロヴェルは引き攣った笑みを浮かべ、無言で後退りした。
(なんだ……? 集団催眠の類か? あの堅物な近衛兵が、見知らぬ女の名前を呼んで恍惚としてるなんて、気味が悪すぎるだろ……)
訝しみながら城内の大廊下を進むロヴェルだったが、歩みを進めるごとに、その異様な熱気は城全体を支配していることが明らかになっていった。
通りすがる侍女たちは、
「エリアーナ様がお召しになったペールグリーンのドレス、本当に妖精のようでお美しかったわね……」
「ええ、あのお優しい瞳に見つめられたら、私、一生お仕えしてもいいと思ってしまったわ!」
と頬を染めて囁き合っている。
さらに、中庭へ通じる回廊の角を曲がったところで、ロヴェルは信じがたい光景を目撃した。
「……おいおい、あれはバスティアンとニコラじゃないか?」
柱の影から覗き見ると、帝国軍部の双璧たる堅物騎士団長と天才魔導士が、額を突き合わせて何やら言い争っていた。
だが、その内容が常軌を逸していた。
「ニコラ、貴様、エリアーナ様を『お姉さま』などと気安く呼ぶのは即刻やめろ! 閣下がお許しになるはずがないだろう!」
「うるさいやい、筋肉ダルマ! お姉さまはぼくの頭を撫でてくれたんだ! お前みたいなただの剣士より、ぼくの方がお姉さまの役に立てるんだからね! 次にお茶を淹れていただく権利はぼくにある!」
「なっ……! 茶だと!? 貴様、エリアーナ様の手ずから淹れられた神茶をまた飲むつもりか! 抜け駆けは許さんぞ!」
「………………」
ロヴェルの顎が、外れんばかりに落ちた。
あの、女の影を見るだけで剣の柄を握って逃げ出していた女性恐怖症のバスティアンが、女のために必死の形相で張り合っている?
あの、皇帝陛下すら見下して誰にも頭を下げなかった傲慢不遜なニコラが、目を輝かせて「お姉さま」と連呼している?
(おいおいおい……冗談だろ……? 何が起きてるんだ、この城は……! たった数ヶ月留守にしていた間に、一体どんな怪物が城を乗っ取ったっていうんだ……!?)
ロヴェルの背筋に、冷たい汗が流れた。
諜報のプロとしての本能が、激しく警鐘を鳴らす。
人心掌握の術式か? それとも、精神を狂わせる魅了の固有魔術の使い手か?
もし閣下までその女に惑わされているのだとしたら、帝国の中枢はすでに崩壊の危機に瀕しているのではないか――。
疑念と警戒心を胸いっぱいに膨らませ、ロヴェルは踵を返すと、大公執務室へと足早に向かった。
◇
重厚な彫刻が施された大公執務室の扉を、ロヴェルは三回ノックした。
「閣下、ロヴェルです。王国方面の潜入任務より帰還いたしました」
「入れ」
中から返ってきたのは、聞き慣れた主君の低く冷徹な声音。
ロヴェルは息を潜め、扉を押し開けて足を踏み入れた。
執務室の中には、柔らかな陽光が差し込み、心地よい暖炉の火が揺らめいていた。
だが、ロヴェルの視線は、部屋の中央に座る人物の姿を捉えた瞬間、再び激しく揺れ動いた。
巨大な黒檀の執務机の前に座っていたクロード。
その隣――本来であれば何人たりとも座ることを許されない、大公のすぐ真横に設えられた柔らかなベルベットの椅子に、一人の少女がちょこんと腰掛けていたのだ。
ペールグリーンの上品なドレスを纏い、豊かな栗色の髪を揺らす小柄な令嬢。
彼女は手にした白磁のカップを両手で大切そうに包み込み、机の上に広げられた領地報告書の数字を、真剣な眼差しで眺めていた。
そして――何より異常だったのは、その少女を見つめるクロードの顔だった。
「どうだい、エリアーナ。退屈なら、無理に私の執務に付き合う必要はないんだよ。……それとも、喉が渇いたかい? 何か甘いものでも持ってこさせようか」
あの「氷の死神」が。
他国の使節を凍りつかせ、戦場を地獄に変えてきたあの男が。
まるで生まれたての子猫でも愛でるかのように、目尻を下げ、蕩けきった笑顔で少女の髪をそっと撫でているのだ。
(う、嘘だろ……閣下まで、完全に骨抜きにされてる……!?)
ロヴェルは喉仏をごくりと上下させ、必死に平静を装いながら机の前へと進み出た。
「……失礼いたします、閣下。ご無事で何よりです」
恭しく一礼するロヴェル。
その声に、クロードはふっと表情を引き締め、いつもの冷徹な大公の顔へと戻った。
「ご苦労だったな、ロヴェル。無事の帰還を歓迎する。……紹介しよう。こちらはエリアーナ嬢だ。我が大公城の至宝であり、私の愛しい妃となるお方だ」
「妃……!?」
ロヴェルは内心の動揺を辛うじて仮面の笑顔の下に隠した。
妃だと? 他国の、どこの馬の骨とも知れぬ令嬢を、この男が正式な伴侶として迎えるつもりなのか?
「はじめまして、ロヴェル様。エリアーナ・ヴァン・ベルクと申します。長旅の任務、本当にお疲れ様でございました」
立ち上がり、完璧な宮廷式の一礼を返すエリアーナ。
その声音は、鈴を転がすように清らかで、透き通っていた。
琥珀色の瞳には、魅了の魔力など微塵も感じられない。ただ、泥にまみれて帰還した部下を純粋に労わる、どこまでも温かな光だけが宿っている。
(……魅了の術式じゃない……? 魔力の波長は完全に純粋で、邪気配が一切ない……。本当に、ただの令嬢なのか……?)
ロヴェルの知的好奇心と疑念が、激しく火花を散らす。
だが、今は軍務の報告が先決だった。
「過分なお言葉、恐縮でございます、エリアーナ様。……さて、閣下。お耳に入れたい急ぎの報告がございます。王国方面、特にロシュ侯爵領の動向についてです」
「ロシュ侯爵領」という単語が出た瞬間、クロードの氷青色の瞳に、スッと鋭い冷気が宿った。
エリアーナもまた、わずかに肩を揺らし、カップを机の上に置いた。
「申せ。愚か者どもは、どうしている?」
クロードが冷ややかに促す。
「はい。……エリアーナ様が王都を出奔されてから数日。ロシュ侯爵家では、次期当主のユリウスと、妹のティファーヌ嬢による婚約の祝宴が派手に開かれたようですが……その実情は、すでに目も当てられない惨状になりつつあります」
ロヴェルは懐から、一通の報告書を取り出して机の上に広げた。
「領地経営の帳簿は完全にストップ。ユリウスは実務能力が皆無で、山積みの書類を前に喚き散らしているとのこと。さらに、ティファーヌ嬢の豪遊による負債が王都の商人たちから一斉に請求され始めているようです。……極めつけは、領地境界の結界石です。エリアーナ様の術式が解除された影響で、結界の強度が日々低下し、すでに街道周辺で低級魔獣の目撃情報が相次いでおります」
「ふっ……当然の結末だな」
クロードは嘲笑を漏らした。
「我が妃の恩恵に縋り付いて栄華を誇っていただけの寄生虫どもだ。支えを失えば、砂上の楼閣の如く崩壊するに決まっている」
「ええ、まったくです。王国の治安維持部隊も警戒を強めておりますが、領民たちの不満はすでに限界寸前。暴動の火種が燻っている状態です」
ロヴェルの報告を聞きながら、エリアーナは静かに目を伏せていた。
自業自得とはいえ、かつて自分が命を削って守っていた土地が崩壊に向かっている事実に、複雑な感情が胸を掠める。
クロードはそんな彼女の小さな手を、机の下でそっと包み込み、温かな熱を与えて励ました。
「……さて、閣下。もう一つ、極めて厄介な『獲物』を持ち帰ってまいりました」
ロヴェルの唇に、諜報部隊長としての冷徹な笑みが浮かんだ。
彼は上着の隠しポケットから、厳重に封蝋が施された一枚の羊皮紙を取り出した。
「王国の対帝国強硬派貴族たちが、裏でやり取りしていた極秘連絡文書です。我が帝国の防衛網の隙間を突くための軍事機密が記されていると見られますが……」
ロヴェルは机の上に羊皮紙を広げてみせた。
そこに記されていたのは、文字の体をなしていない、奇怪極まりない文字列だった。
『XQZ KLM POW ABC RTY UIO……』
意味を成さないアルファベットの羅列。
不規則に散りばめられた記号と、意味不明な数字の断片。
「王国屈指の暗号作成官が手がけた、最新式の『多重換字式・魔導立体暗号』です。文字の置換法則が三次元的にシフトする構造になっており、我が諜報部の解読班が総掛かりで丸二日間挑みましたが、いまだ一文字たりとも解読の糸口が掴めておりません。……解読には、最低でもあと半月はかかる見込みです」
ロヴェルは悔しげに肩をすくめてみせた。
大陸最高峰の頭脳を持つロヴェルですら、一筋縄ではいかないと匙を投げかけた超難問。
この暗号を解かなければ、敵の真の狙いを暴くことはできない。
クロードも眉をひそめ、書類に目を落とす。
「……確かに、複雑怪奇だな。魔力波の干渉パターンを逆算しなければ、平文には戻せんか」
重苦しい沈黙が、執務室を支配した。
――その時だった。
「……あの」
控えめな、澄んだ声が静寂を破った。
椅子から身を乗り出し、机の上の羊皮紙を何気なく覗き込んでいたエリアーナが、不思議そうに小首を傾げていたのだ。
「……ん? どうしたんだい、エリアーナ」
クロードが優しく問いかける。
エリアーナは琥珀色の瞳をパチクリと瞬かせると、白く滑らかな指先を伸ばし、羊皮紙の上に並ぶ意味不明な文字列をツツッと指差した。
「これ……暗号、なのですか……?」
「ええ、そうですよ、エリアーナ様」
ロヴェルが苦笑しながら答えた。
「王国の誇る最高峰の暗号官が、他国の目をごまかすために知恵を絞りに絞って作った、悪魔のパズルです。素人の方が眺めても、頭が痛くなるだけですよ」
「そうでしょうか……?」
エリアーナは困ったように眉を下げた。
彼女の視界には、その文字列が「悪魔のパズル」などには見えていなかった。
彼女の天性の異能――【万物最適化】の直感。
乱雑な数字の羅列から規則性を見出し、最も美しい調和の形へと整える、長年の帳簿整理で培われた絶対的な「整頓眼」。
それが、この歪な文字列の奥底に隠された「意図的なズレ」を、一瞬で見抜いてしまっていたのだ。
「でも……これ、とても几帳面な方が書かれたのですね。規則性がとても綺麗に揃っていますもの。……ほら」
エリアーナは机の上の羽ペンをそっと手に取ると、インク壺に浸した。
そして、羊皮紙の余白に、さらさらと迷いのない手つきで文字を書き連ね始めたのだ。
「先頭の文字から、常に『3文字飛ばし』で拾っていって……余った記号を、末尾の数字のカウントに合わせて逆順に並べ替えると……ほら、とっても読みやすくなりますよ?」
「……は?」
ロヴェルの口から、間抜けな声が漏れた。
3文字飛ばし?
逆順に並べ替え?
何を寝言を言っているんだ。そんな初歩的な法則で解けるような安物の暗号であるはずが――。
そう嘲笑おうとしたロヴェルの視線が、エリアーナが羽ペンで書き殴った余白の文字へと吸い寄せられた、その瞬間。
「…………っ!?」
ロヴェルの息が、完全に止まった。
全身の血液が、一瞬にして逆流するかのような凄まじい衝撃。
余白に浮かび上がっていたのは――完璧な文法で整えられた、王国の公用文そのものだった。
『――来月十五日、アルジェント帝国国境・第三関門の警備交代の隙を突き、密輸ルートを通じて物資を搬入せよ。手引きは――』
「な…………っ!?」
ロヴェルの琥珀色の瞳が、限界まで見開かれた。
羊皮紙を取り上げ、自らの暗号解読用の座標板と照らし合わせる。
一致している。
暗号文のすべての文字が、彼女の言った「3文字飛ばしと逆順の規則」によって、一文字の狂いもなく完璧な意味の通る文章へと解凍されていたのだ。
我が諜報部が総掛かりで挑み、二日二晩かけても一行すら解けなかった最新式暗号を。
通りすがりの令嬢が。
お茶を飲んでいた少女が。
机の上を覗き込んでから、わずか十秒足らずで――「読みやすいですね」と微笑みながら、あっさりと解読してしまった。
「う……そ、だろ……」
ロヴェルの手から、羊皮紙がパサリと机の上に落ちた。
震える指先。
鳥肌が、全身の皮膚を粟立たせていく。
人心掌握の術式? 魅了の魔術?
とんでもない。
目の前にいるのは、そんな陳腐な小細工を使う魔女などではなかった。
この少女は――常人の理解を遥かに超越した、神話級の「知性と直感の怪物」だったのだ。
「……ほら、やっぱり。とても綺麗に整いましたね」
エリアーナは満足そうに羽ペンを置くと、ふわりと胸を撫で下ろした。
「昔、ロシュ侯爵領の代官たちが、裏帳簿に数字を暗号化して隠していたことがあったんです。その時の手口と、驚くほどそっくりでしたので……少し目を凝らしたら、すぐに並び方が見えてまいりましたわ」
微笑むエリアーナ。
その圧倒的な無自覚チート。
「…………っ」
ロヴェルの喉が、激しく鳴った。
彼の琥珀色の瞳の奥底で、これまで誰に対しても抱いたことのないような――狂おしいほどの「知的好奇心」と、男としての強烈な「独占欲」の炎が、ボッと音を立てて爆発的に燃え上がった。
(なんだ……この女は……!? こんな……こんな最高に魅力的な獲物が、この世に存在していたっていうのか……!?)
飄々とした女たらしの仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。
知性を愛し、謎を愛する諜報部隊長ロヴェルの魂が、エリアーナという底知れぬ奇跡の前に、完全に撃ち抜かれた瞬間であった。
しかし――。
ロヴェルの瞳に灯った危険な熱情を、見逃すクロードではなかった。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
執務室の気温が、再び氷点下へと急降下した。
クロードが立ち上がり、エリアーナを背後に隠すようにして立ちはだかる。
その氷青色の瞳から放たれる殺気配は、先ほどの比ではなかった。
「……ロヴェル。貴様、我が妃にそのような不躾な視線を向けて、ただで済むと思っているのか?」
絶対零度の威嚇。
だが、ロヴェルは怯むどころか、その薄い唇を妖しく吊り上げ、挑戦的な笑みを浮かべてみせたのだ。
「おやおや、閣下。……こんな極上の至宝を、独り占めしようだなんて……少し欲が深すぎるんじゃありませんかね?」
火花を散らす、主君と腹心の男たち。
エリアーナを巡る愛と忠誠の包囲網が、さらに熱く、激しく加速しようとしていた――。




