第19話:天才魔導士ニコラの屈辱と心服
「――ちょっと待ったぁぁぁぁぁッ!! ぼくの結界術式をめちゃくちゃにいじくり回したのは、一体どこのどいつだぁぁぁッ!?」
甲高く、しかし怒気で引き裂かれそうな少年の叫び声が、神聖な静寂に包まれていた中庭の空気をビリビリと震わせた。
満開の「白銀の古代樹」から舞い散る光の花びらを乱暴に蹴散らし、敷石の小道を猛然たる勢いで突進してきた人影。
それは、大人の背丈の半分ほどしかない小柄な少年であった。
年齢は十四、五歳といったところか。身の丈に合わない豪奢な濃紫の魔導ローブの裾を引きずるように翻し、胸元には帝室特級魔導士の証である三ツ星の金章が誇らしげに輝いている。
月光を溶かしたような紫がかった銀の癖毛を逆立て、大きな碧眼を怒りと屈辱で真っ赤に血走らせていた。手にした身の丈ほどもある巨大な樫の杖の頭部――そこに嵌め込まれた握り拳大のアメジストが、主の激昂に呼応してバチバチと紫電を散らしている。
アルジェント帝国宮廷筆頭魔導士――ニコラ・エデルガルド。
十歳で古代魔導言語を完全解読し、十二歳で戦略級結界術式を独自に開発、十四歳にして帝国のすべての魔導士の頂点に君臨したという、大陸全土にその名を轟かせる稀代の「神童」であった。
天才ゆえに傲岸不遜、プライドは天を突き、自分以外の魔導士をすべて「無能な毛虫」と見下す毒舌家。並の貴族であれば、その鋭い舌鋒で泣かされるのが常であった。
その神童が、いま、怒髪天を衝く勢いで中庭へと乗り込んできたのだ。
「ぼくが! このぼくが半年間も寝食を削って組み上げた、帝都最強の『七重天蓋魔導結界』の計算式が! 突如として完全に書き換えられただと!? 何者かが古代樹の根元から外部アクセスを仕掛けて術式を根こそぎ上書きした形跡がある! どこのどいつだ! ぼくの美しすぎる完全無欠の芸術作品を土足で踏み躙った無礼者はぁぁぁッ!!」
杖を振り回しながら広場の中央へと躍り出たニコラ。
しかし、そこで彼が目にしたのは、彼が想像していた「他国の老獪な潜入魔導士」や「邪悪な呪術結社の幹部」などでは断じてなかった。
「…………は?」
ニコラの甲高い怒声が、ピタリと喉の奥で詰まった。
大きな碧眼が、信じられないものを見たかのように丸くなる。
満開の古代樹の根元。
そこには、銀地金の甲冑を身に纏った帝国屈指の猛将――近衛騎士団長バスティアンが、両膝を花びらと泥の上に突いて平伏していた。
しかも、自らの魂の半身である長剣を両手で捧げ持ち、まるで天上の女神に魂を捧げる巡礼者のような、蕩けた熱烈な眼差しを上げているのだ。
そして――その屈強な騎士団長に見下ろされるのではなく、見上げられている位置に佇んでいたのは。
ペールグリーンの上品なドレスを纏い、白狐の毛皮に小さな顎を埋めた、見たこともないほど可憐で華奢な一人の令嬢であった。
「……な、なんだこの地獄絵図は……?」
ニコラは思わず二歩ほど後退りし、自らのこめかみを押さえた。
女性恐怖症で、帝都のどんな高位貴族の令嬢にも目も合わせず、話しかけられただけで剣の柄に手をかけて逃げ出すあの堅物騎士団長が、見知らぬ若い女の前に跪いて恍惚の表情を浮かべている。
幻覚魔法か? それとも、城全体が精神汚染系の魔獣の毒気にでも侵されたのか?
「おい、堅物筋肉ダルマ!」
ニコラは杖の先をバスティアンの鼻先へと突きつけ、苛立たしげに怒鳴り散らした。
「貴様、白昼堂々となにを腑抜けた面をして這いつくばっているんだ! この城の結界が完全に狂わされたんだぞ! そんなことより、ここに術式の発生源があるはずだ! 犯人はどこへ逃げた!?」
喚き散らす少年に対し、バスティアンは忌々しそうに眉根を寄せた。
先ほどまでの熱烈な忠誠の表情はどこへやら、邪魔者を睨みつける冷徹な軍人の顔へと一瞬で戻り、ゆっくりと立ち上がる。
「……口を慎め、ニコラ。我が前で杖を振り回すな」
バスティアンの低く重い声が、威圧感となって少年にのしかかる。
「結界が狂ったのではない。古代樹様が本来の力を取り戻され、大公城全域に完全なる絶対浄化結界が展開されたのだ。貴様が組んでいた歪な人工結界など足元にも及ばぬ、正真正銘の神域だ」
「な、なんだとぉぉぉッ!?」
ニコラの顔が真っ赤に沸騰した。
何より誇りとしていた自らの術式を「歪な人工結界」と切り捨てられたのだ。プライドの塊である少年にとって、これ以上の侮辱はなかった。
「歪だと!? このぼくの至高の計算式が歪なわけがあるか! 誰だ! ぼくの術式に勝手に手を加えた無能な輩は! 出てこい、魔導決闘で塵も残さず灰にしてやる!」
「控えろ! 貴様の無礼な喚き声をこれ以上、エリアーナ様の御耳に入れることは許さん! 即座に杖を収め、非礼を詫びて跪け!」
「誰が跪くか、この脳筋野郎! 大体、そのエリアーナとかいう女は誰だ! まさか、その小娘がぼくの術式をいじったとでも言いたいのか!?」
怒り狂う十五歳の天才魔導士と、神剣を腰に佩き直して一歩も引かない二十三歳の騎士団長。
一触即発の火花が散り、中庭の空気が一気に殺気立った、その時――。
「あ、あの……」
鈴を転がすような、清らかな声が二人の間に割り込んだ。
ビクッ、とニコラが肩を跳ねさせて視線を向けると、ペールグリーンのドレスを着た少女――エリアーナが、おずおずと一歩前へ進み出ていた。
彼女はバスティアンの大きな背中の後ろから少しだけ身を乗り出し、申し訳なさそうに眉を下げて、両手を胸の前で小さく握りしめていた。
「ごめんなさい、坊や……。もしかして、あなたがこのお城の結界をお一人で管理されていた魔導士様なのですか……?」
「ぼ、坊や……!?」
ニコラは絶句した。
帝国の宮廷魔導士団の頂点に立ち、大臣たちですら「ニコラ閣下」と傅くこの自分を、あろうことか「坊や」呼ばわりしたのだ。
「だ、誰が坊やだ! ぼくはアルジェント帝国宮廷筆頭魔導士、ニコラ・エデルガルドだ! 気安く子供扱いするな! それよりお前、まさか本当にぼくの結界をいじった張本人なのか!?」
「え、ええと……いじった、というつもりはなかったのですけれど……」
エリアーナは困ったように視線を彷徨わせた。
「この木の下の土をお掃除していたら、この木があまりにも寒そうに震えていて……少しだけ根元を整えて、元気を分けて差し上げたのです。そうしたら、木が目を覚まして、結界が新しく張り直されたみたいで……。あなたの作られた術式を壊してしまったのだとしたら、本当にごめんなさい」
深々と頭を下げるエリアーナ。
悪びれる様子など微塵もない。ただ、相手の仕事を邪魔してしまったのではないかと、本気で心を痛めて謝罪しているのだ。
だが、そのあまりにも純粋な態度は、ニコラの肥大化したプライドをさらに激しく逆撫でした。
「は……はあぁぁぁッ!? 元気を分けたぁ!? 土を掃除したぁ!?」
ニコラは地団駄を踏み、紫のローブをバサバサと波打たせた。
「嘘をつくな! そんな非論理的なオカルトで、ぼくの『七重天蓋魔導結界』が書き換わるはずがないだろう! ぼくの術式は、三千二百もの魔力方程式を幾重にも交差させ、帝都の地脈の揺らぎを完璧に補正した、大陸最強の防護陣なんだぞ!? お前みたいな、魔導杖すら持っていない、他国の貧相な小娘の手に負えるような代物じゃないんだ!」
「ニコラ! 貴様、エリアーナ様を愚弄するかッ!」
バスティアンの手が、腰の神剣の柄にかかる。
だが、エリアーナはそっとバスティアンの甲冑の腕に手を添えて制止した。
「待ってください、バスティアン様。……ニコラ様のお怒りは、ごもっともですわ。丹精込めて作り上げたものを、突然他人に変えられてしまったら、誰だって悲しくて腹が立ちますもの」
「エリアーナ様……しかし、この無礼な小僧は……」
バスティアンは悔しそうに歯噛みしたが、エリアーナの柔らかな手で触れられた腕の熱さに、顔を赤らめてそれ以上は強く出られなくなってしまった。
エリアーナはニコラの方へと、優しく歩み寄った。
ニコラは威嚇するように杖を構え直したが、近づいてくる彼女から漂う、雪解け水のように澄み切った魔力の芳香と、一切の敵意を含まない穏やかな眼差しに、気圧されるように喉を鳴らした。
「……な、なんだよ。言い訳でもする気か? 言っておくけど、ぼくの理論に綻びなんて一つもなかったんだからな!」
ニコラは悔し紛れに、左手を虚空へと翳した。
「証明してやる! ぼくの術式がどれほど完璧だったか、その目に焼き付けて反省しろ!」
カチリ、と指を鳴らす。
次の瞬間、中庭の空中に、目も眩むような巨大な魔導陣が立体的に展開された。
青白く発光する無数の数式、幾何学模様、そして何層にも重なり合う複雑怪奇な魔力ラインの設計図。羊皮紙にして数百枚分にも及ぶ膨大なデータが、三次元の立体映像となって宙に浮かび上がったのだ。
「見ろ! これがぼくの組んだ『大公城防護結界・基礎展開図』だ!」
ニコラは胸を張り、勝ち誇ったように叫んだ。
「帝都の地脈から魔力を吸い上げ、城壁の七箇所の結界石へと均等に配分する、完璧な循環構造だ! どこにもミスなんてない! これ以上の効率を叩き出せる術式など、大陸中のどの魔導アカデミーを探したっていやしないんだ!」
宙に浮かぶ光の数式群は、確かに常人の理解を遥かに超えていた。
並の魔導士であれば、見ただけで目眩を起こして卒倒するような超高難度の理論体系。十五歳の少年が一人でこれを組み上げたという事実だけでも、彼が本物の天才であることは疑いようがなかった。
しかし――。
「…………あら?」
その光の展開図を見上げたエリアーナの琥珀色の瞳が、ふと微かに細められた。
彼女は小首を傾げ、宙に浮かぶ複雑な数式の連なりを、まるで本棚の乱雑な背表紙を眺めるかのような、平然とした眼差しで見つめ始めたのだ。
「な、なんだよ……。ちんぷんかんぷんだろ? 無理して眺めたって、お前みたいな素人には――」
「あの、ニコラ様」
エリアーナは静かに、しかし迷いのない足取りで、光り輝く魔導陣の真下へと歩み寄った。
「ここ……第三層の、熱量変換と地脈吸収の交差点なんですけれど」
「……は?」
エリアーナが、すっと白く滑らかな人差し指を持ち上げた。
彼女が指し示したのは、三千を超える数式の海の中、全体のわずか数パーセントに過ぎない、極めて微細な魔力ラインの交錯点だった。
「ここの魔術式、三次元の螺旋構造で組まれていらっしゃいますよね? とても緻密で素晴らしい計算だと思うのですけれど……ここ、少しだけ魔力の流れが『詰まり気味』になっていませんか?」
「つ……詰まり気味……!?」
ニコラの声が裏返った。
「何を馬鹿なことを言っているんだ! そこは、地脈の急激な魔力サージを緩和するために、あえて抵抗値を高く設定して魔力を減速させているんだ! 減速させなければ、城壁の結界石が過負荷で焼き切れてしまうからだぞ! 減速こそが安全マージンの要なんだ!」
「ええ、その意図はとてもよく分かりますわ」
エリアーナは微笑んだ。まるで、幼い生徒の拙い答案を優しく受け止める教師のように。
「結界石を守るための、優しいご配慮なのですね。……でも、減速させるためにここで魔力を無理に堰き止めてしまっているせいで、行き場を失った余剰魔力が、熱となって古代樹の根元へ逆流してしまっていたようなのです。だから、土がカチカチに凍りついて、同時に幹の内側が焼け焦げるような負荷がかかっていたのですね」
「な……っ!?」
ニコラの呼吸が止まった。
古代樹がなぜ、あれほど急速に枯死していったのか。
帝国の樹木医たちも、魔導士たちも、「寒冷地特有の病気だ」「樹齢の限界だ」としか結論づけられなかったあの原因が――自分の組んだ術式の、安全マージンによる熱の逆流のせいだったというのか……!?
「でも、大丈夫ですよ」
エリアーナはふわりと笑うと、宙に浮かぶ光の術式へと、自らの指先をそっと伸ばした。
「堰き止めて冷やすのではなく、余った魔力を別の経路へ逃がしてあげればいいのです。……ほら、ここの係数を少しだけ整理して、循環のバイパスを一本、外側の浄化ラインへと通してあげれば……」
エリアーナの指先が、空中の光の数式をツツッと撫でた。
――その瞬間。
指先から零れ落ちた淡い燐光が、空中の術式へと染み渡った。
カサリ、と。
まるで、絡まり合っていた毛糸の結び目が、一本の糸を引いただけでスルスルと解けていくような、信じられない現象が起きた。
ピキィィィン……!
エリアーナが触れた交差点の数式が、まるで生き物のように自ら形を変え、無駄な計算式が次々と削ぎ落とされていく。
複雑怪奇で重苦しかった青白い魔力ラインが、淀みのない黄金の光の帯へと変貌し、摩擦抵抗ゼロの完璧な流線型を描いて再接続されたのだ。
それは、ニコラが三年間、いくら机に向かって計算しても辿り着けなかった――「完全無欠の最適解」。
余分な熱の逆流は完全に消失し、魔力の出力は従前の十倍以上に跳ね上がりながら、結界石への負荷はゼロになるという、魔導の法則を嘲笑うかのような神話の術式配列。
「ほら、できました」
エリアーナは満足そうに振り返り、パチパチと小さく手を叩いた。
「これで、魔力が無理なくサラサラと流れるようになりましたよ。帳簿の数字の無駄を省くのと、全く同じコツですね」
「…………」
ニコラの手から、ガシャンと重い音を立てて樫の杖が滑り落ちた。
石畳の上を転がる杖。
だが、少年はそれを拾おうともしなかった。
彼は宙に浮かぶ、黄金に輝く「完璧すぎる術式」を見上げ、次いで、悪びれもせずに微笑んでいるエリアーナの顔を、小刻みに震えながら見つめていた。
「う……そ……だろ……」
ニコラの唇から、掠れた声が零れ落ちた。
帳簿の数字の無駄を省くのと同じコツ?
この女は、一体何を言っているんだ?
自分が、帝国最強の神童と持て囃されたこの自分が、何百日も徹夜し、血の滲むような思いで組み上げた最高傑作の欠陥を。
通りすがりの令嬢が、指先ひとつで、わずか数秒で――まるで子供の宿題に赤ペンを入れるかのように、あっさりと添削してしまったのだ。
理解してしまった。
魔導の深淵を誰よりも理解しているニコラだからこそ、目の前で起きたことの「絶望的な格差」が、痛いほど理解できてしまったのだ。
自分の才能など、この少女の足元にも及ばない。
自分が築き上げたプライドの城など、彼女が軽く息を吹きかけただけで吹き飛ぶ砂上の楼閣に過ぎなかったのだと。
「あ……あぁ……」
ニコラの大きな碧眼に、みるみるうちに大粒の涙が盛り上がってきた。
唇が引き攣り、喉がヒクヒクと痙攣する。
「ぼ、ぼくの……ぼくが半年間……一生懸命……かんがえたのに……っ! あんなに……あんなに頑張って、計算したのにぃぃぃっ……!!」
プライドの完全崩壊。
これまで誰にも負けたことのなかった神童の心が、粉々に砕け散った瞬間だった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッ!! ぼくのバカぁぁぁッ!! うぇぇぇぇんッ!!」
ニコラはその場にへたり込み、両手で顔を覆って、まるで幼子のように大号泣し始めた。
宮廷筆頭魔導士の威厳など、欠片も残っていなかった。ただの、十五歳の傷ついた子供の姿だった。
「えっ……!? に、ニコラ様!?」
突然の大号泣に、エリアーナは激しく動揺した。
「ど、どうしましょう、バスティアン様! 私、何か酷いことを言ってしまいましたでしょうか……!? お掃除のつもりだったのに、泣かせてしまうなんて……!」
「い、いえ、エリアーナ様……貴女様は何も悪くありませぬ……」
バスティアンは呆然としながらも、泣き崩れる少年を見下ろして頭を抱えていた。
あの傲慢不遜で、皇帝陛下にすらタメ口を利く生意気な天才児が、これほど無様に泣きじゃくる姿など、帝国史上誰も見たことがなかったからだ。
しかし、エリアーナは放っておくことなどできなかった。
彼女はドレスの汚れも気にせず、泣きじゃくるニコラの前にパタパタと駆け寄り、その場に膝をついた。
「ニコラ様、泣かないで……」
エリアーナは懐から、上質なリネンのハンカチを取り出すと、ニコラの涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、壊れやすい硝子細工を拭うように優しく拭ってあげた。
そして、躊躇うことなく、その小さな震える肩を抱き寄せ、自らの胸元へと優しく包み込んだのだ。
「ひぐっ……うぇっ……?」
ニコラの泣き声が、不意に止まった。
視界が、ペールグリーンの柔らかな布地と、甘く温かな香りで満たされる。
頭の上に、そっと置かれた温かな掌。
エリアーナは、子供をあやす母親のように、優しく、リズミカルにニコラの癖毛を撫で始めた。
「凄いわ、ニコラ様。本当に凄いわよ」
耳元に落ちてくる、どこまでも甘く、透き通った声音。
「こんなに難しくて、こんなに広大な術式を、たった十五歳で、一人で組み上げるなんて……。私、見ただけで胸が熱くなりました。あなたがどれほどこの国を想い、どれほど一生懸命努力されてきたのかが、痛いほど伝わってきましたもの」
「え……?」
ニコラは涙に濡れた目を瞠った。
「あなたは本当に、世界一の天才魔導士様ですわ。……私が少しだけお手伝いできたのは、あなたの組んだ基礎が、あまりにも完璧だったからです。あなたが土台を作ってくださらなければ、私には何もできませんでした。だから……そんなに自分を責めないでくださいね?」
絶対の、全肯定。
否定されるどころか、その努力と才能のすべてを、魂の底から讃え、抱きしめてくれたのだ。
これまで、ニコラの周囲にいた大人たちは、彼の「結果」しか見ていなかった。
天才だからできて当たり前。失敗すれば失望され、成功すれば都合よく利用される。
誰も、彼がどれほど孤独に机に向かい、どれほど重いプレッシャーに小さな肩を震わせていたのかなど、見ようともしなかった。
それなのに、目の前の少女は。
自分の傲慢な怒りを許し、傷ついた心を包み込み、「頑張ったのね」と抱きしめてくれたのだ。
ドクン、と。
ニコラの胸の中で、何かが決定的な音を立てて組み変わった。
温かい。
甘い。
こんなに優しく抱きしめられたことなど、生まれて一度もなかった。
「あ……ぅ……」
ニコラの顔が、涙の跡を残したまま、耳の先まで真っ赤に染め上がっていった。
心臓が破裂しそうに激しく高鳴る。
彼は鼻を小さくすすると、エリアーナのドレスの裾を、小さな両手でぎゅっと握りしめた。
そして、上目遣いに彼女を見上げ、掠れた甘えた声を絞り出したのだ。
「……ほ、ほんとうに……? ぼくのこと……すごいって、思ってくれる……?」
「ええ、もちろんよ」
エリアーナは満面の笑みで頷き、もう一度その頭を優しく撫でた。
「世界で一番、かっこいい魔導士様だわ」
「う……ぅぅ……ッ!」
ニコラは再び涙を溢れさせたが、それはもはや屈辱の涙ではなかった。
彼はエリアーナの胸元に自らの顔を力いっぱい埋め、完全に理性をかなぐり捨てて抱きついた。
「お、お姉さまぁぁぁぁぁッ!!」
「えっ……お、お姉さま!?」
エリアーナが目を丸くする。
「お姉さま! ぼく、お姉さまの言うことなら何でも聞く! お姉さまのためなら、帝都中の結界だって、世界中の魔導書だって、全部書き換えてみせるよ! だから……だから、ぼくを捨てないで! ずっと頭を撫でてぇぇぇッ!!」
傲慢な天才ショタ魔導士、完全無欠の心服。
エリアーナの無自覚な母性とチートによって、帝国最高峰の頭脳が、一瞬にして忠実で甘えん坊な「義弟」へとジョブチェンジした瞬間であった。
だが――その麗しい(?)光景を、黙って見過ごせない男が約一名。
「――おい、貴様ッ!!」
轟音のような怒声とともに、銀地金の甲冑を着たバスティアンが割り込んできた。
彼は鬼のような形相でニコラの首根っこを掴むと、子猫のように乱暴に引き剥がしたのだ。
「な、何するんだよ、筋肉ダルマ! 邪魔するな!」
「貴様こそ、エリアーナ様の尊き御胸に気安く顔を埋めるなど、万死に値する不敬だぞ! 離れろ、この悪童が!」
「うるさい! お前なんかより、ぼくの方がお姉さまの役に立てるもんね! お姉さま、ぼくの魔法の方がすごいでしょ!?」
「なっ……! 愚弄するか! 我が神剣こそが、エリアーナ様をあらゆる脅威からお守りする絶対の盾だ!」
中庭で勃発する、屈強な騎士団長と天才魔導士の醜い(?)エリアーナ争奪戦。
エリアーナは二人の間でオロオロと手を振りながら、「あ、あの……お二人とも、仲良くしてくださいませ……!」と困惑するばかりだった。
しかし――。
そんな騒がしい中庭の空気が、ふっと一瞬にして、絶対零度の冷気へと凍りついた。
ピキリ、と。
敷石の隙間に、青白い霜が一瞬で走る。
回廊の影から、静かに響いてくる軍靴の足音。
そして――何人をも寄せ付けぬ冷酷な覇気と共に、低く、甘く、そして底知れない怒りを秘めたバリトンの声が落ちてきた。
「――私の城で、私の愛しい人を囲んで、何をしているのかな? 我が優秀な部下たちよ」
白銀の髪を冷たく揺らし、氷青色の瞳に凄まじい嫉妬の炎を宿らせた大公クロードが、いま、静かにその姿を現したのだった――。




