第17話:枯れ木に花を、城下に奇跡を
それは、世界の法則を根底から書き換えてしまうような、静謐にして圧倒的な「鼓動」から始まった。
――トクン……ッ。
凍てついた黒々とした樹皮に添えられた、エリアーナの両手。
長年、冷たい石壁の中で酷使され、他者の理不尽に耐え抜いてきた彼女の小さな掌から、雪解け水のように澄み渡った真珠色の魔力が、何の抵抗もなく古代樹の深部へと滑り込んでいった。
エリアーナの放った力は、他者を屈服させる破壊の力ではない。
対象が本来持っていたはずの生命力、構造、魔力の循環――そのすべてを最も完全で調和のとれた状態へと引き戻し、限界を超えて解き放つ奇跡の異能、【万物最適化】。
(寒かったでしょう……。もう無理に冷たい空気を抱え込まなくていいのよ。あなたの本来の力を、思い出して……)
彼女の慈愛に満ちた祈りが、幹の奥底にある「大地の核」へと届いた、まさにその刹那。
ピキッ――ピキピキピキッ!
硬質な、澄み渡る共鳴音が、中庭の静寂を鋭く引き裂いた。
エリアーナの足元、幹の根元に走っていた無数の黒い亀裂の奥から、まばゆい白銀の燐光が吹き上がったのだ。
寒冷地の冷気と魔力の枯渇によって壊死し、炭のように変色していた樹皮が、まるで脱皮するかのように剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、滑らかで真珠のような光沢を湛えた、白銀の神々しい樹皮であった。
ドクンッ!! ドクンッ!!
巨大な古代樹の全身を、地鳴りのような力強い脈動が駆け抜ける。
三百年もの間、アルジェントの大地を見守り続け、そして力尽きかけていた巨木が、歓喜の産声を上げて目を覚ましたのだ。
根の奥深くまで浸透したエリアーナの魔力は、凍てついていた大地の地脈を瞬時に解凍した。
滞り、腐敗しかけていた魔力の奔流が、彼女の【最適化】によって不純物を極限まで削ぎ落とされ、清廉な霊脈へと再構築される。大地の奥底から汲み上げられた無尽蔵のエネルギーが、幹を伝い、天へと向かって怒涛の勢いで駆け上がっていった。
そして――劇的な変貌が、天蓋を埋め尽くす枝葉へと訪れる。
ザザザザザッ……!
風もないのに、枯れ果てていた無数の大枝が激しく波打った。
骨のように痩せ細り、寒空を虚しく引っ掻いていた茶褐色の枝先から、信じられない速度で瑞々しい翡翠色の新芽が噴き出す。
新芽は瞬く間に青々とした若葉へと育ち、枝という枝を埋め尽くし、冷涼な中庭を鮮やかな生命の緑で塗り替えていく。
だが、奇跡はそれだけに留まらなかった。
ポンッ、ポポンッ――!
まるでシャンパンの栓を抜くかのような、心地よい軽やかな音が、頭上の至る所から響き渡った。
若葉の隙間から、無数に顔を覗かせたのは、真珠のような白い蕾たち。
それが、エリアーナが「元気になってね」と微笑みかけた直後――一斉に、文字通り一秒の狂いもなく、一斉に花弁を開いたのだ。
――バサァッ!!
視界のすべてが、純白と白銀の光で染め上げられた。
数百、数千、数万――いや、数え切れないほどの大輪の白銀の花が、天を覆い尽くす枝の端から端まで、一瞬にして満開に咲き誇ったのだ。
花弁の一枚一枚が、細かなダイヤモンドの粉を散りばめたかのように月光と陽光を乱反射させ、きらきらと淡い燐光を放っている。
吹き抜けた一筋の風が、満開の花々を揺らした。
ふわりと舞い散る、白銀の花びらの雨。
その花びらが空気を撫でた瞬間、中庭中に広がったのは、言葉を絶するほど清廉で、甘やかで、魂の奥底まで洗い清められるような至高の芳香であった。
「……まあ」
古代樹の幹からそっと手を離し、エリアーナはぽかんと口を開けて見上げた。
ペールグリーンの特注ドレスの肩に、ふわりと一枚の白銀の花びらが落ちてくる。
「綺麗……。こんなに立派なお花を咲かせる木だったのね。よかったわ、元気になってくれて」
枯死寸前だった樹齢三百年の御神木を一瞬で蘇生させ、満開に開花させた張本人は、まるで近所の野花に水をあげて咲かせたかのような呑気さで、満足げに微笑んでいた。
彼女にとって、これは「幹の周りの土をほぐして、少し元気を分けただけのお手入れ」に過ぎなかったからだ。
しかし――世界は、彼女のそんな「ささやかなお掃除」を、ただの園芸作業としては終わらせてくれなかった。
キィィィィィン――!!
澄み渡る鐘の音に似た共鳴が、大公城の上空に響き渡った。
満開となった古代樹の樹冠から、天を衝くような一本の光の柱が立ち昇ったのだ。
その光柱は上空数百メートルの高空で傘のように大きく広がり、半球状の巨大な光膜となって、広大なアルジェント大公城の全域を――そして、城を取り囲む幾重もの城壁のすべてを、すっぽりと包み込んだ。
古代樹の完全覚醒に伴う、「絶対浄化結界」の展開。
かつて帝国の初代大公が城を築いた際、この古代樹を中核として設計されたという伝説の大防護結界。長年、樹の衰弱とともに機能停止に陥り、城の魔導士たちが何十基もの人工結界石で必死に代用していたものが、エリアーナの手によって本来の性能を――いや、本来の設計値すら遥かに凌駕する「完全最適化状態」で再起動したのだ。
結界が城を包み込んだ瞬間、城内の空気から、あらゆる澱みと邪気が一掃された。
寒冷地特有の骨を軋ませるような痛烈な冷気が和らぎ、まるで春の高原のように穏やかで、澄み切った大気が城の隅々にまで行き渡る。
城壁に刻まれた防護ルーンが一斉に神々しい青白色に発光し、外部からのいかなる悪意も、侵入も、呪詛も許さぬ「鉄壁の神域」が完成した。
そして――その奇跡の波紋は、城壁の中だけに留まらなかった。
古代樹の根を通じて最適化された豊かな地脈は、大地の下を網の目のように駆け巡り、城壁の外――広大な帝都、そして城下に広がる広大な農地へと、怒涛の勢いで雪崩れ込んでいったのだ。
◇
同じ頃、城下の農地地帯。
「……はあ。今年も駄目か……」
初老の農夫が、痩せ細った土壌の上に座り込み、深くため息をついていた。
手にした鍬の先にあるのは、寒冷な気候と土壌の劣化によって、実をつける前に黄色く立ち枯れかけていた麦の穂だった。
アルジェント帝国は、軍事力こそ大陸屈指を誇るものの、気候の厳しさゆえに常に食糧問題に悩まされてきた。特にここ数年は地脈の乱れが深刻で、城下の穀倉地帯ですら収穫量は年々減少し、領民たちは冬を越すための食糧確保に頭を抱えていたのだ。
「このままじゃ、今年の冬は干し肉を削って凌ぐしかねえな……。神様、どうか慈悲を……」
農夫が絶望に暮れて天を仰ぎ、祈りを捧げた、まさにその時だった。
――ズズズズ……ン。
足元から、微かな、しかし温かな大地の脈動が伝わってきた。
「な、なんだ……? 地震か!?」
農夫が慌てて立ち上がった瞬間、信じがたい光景が彼の目の前で繰り広げられた。
カチカチに凍りつき、栄養を失って白っぽく干からびていた土壌が、まるで黒蜜を溶かしたかのように、みるみるうちに深く、湿り気のある肥沃な「極上の黒土」へと変色していったのだ。
土の隙間から、甘い大地の香気と、春の陽気のような温かな湯気が立ち上る。
それだけではない。
病気にかかり、黄色く縮こまっていた麦の穂が、目に見える速度で青々とした瑞々しさを取り戻し、ぐんぐんと背丈を伸ばし始めた。
茎は太く逞しく育ち、節々から豊かな葉を広げると、あっという間に黄金色に熟れ切った、指の太さほどもある巨大な麦の粒をたわわに実らせたのだ。
「な……な、なんだこれはぁぁぁぁっ!?」
農夫の鍬が、手から滑り落ちた。
見渡す限りの畑という畑で、同じ現象が起きていた。
枯れかけていた野菜畑では、瑞々しいキャベツや人参が大地の底から押し上げられるように実り、果樹園の木々は重みで枝がしなるほど豊かな果実を結んでいる。
「お、おい! 見ろ! 城の方を!」
街道を行く商人たちの叫び声に、農民たちが一斉に顔を上げた。
帝都の中心、天を衝くようにそびえ立つアルジェント大公城。
その巨大な白亜の城の頭上に、見たこともないほど巨大な「白銀の花の巨木」が満開に咲き誇り、城全体を神々しい虹色の光の天蓋が包み込んでいるのが、遠く離れた農地からでもはっきりと見えた。
「あ、あれは……城の守り神、古代樹様じゃないか!?」
「何十年も枯れ木だったあの御神木が、花を咲かせている……!?」
「奇跡だ……! 神様が、大公城に舞い降りたんだ!!」
農民たちが、商人たちが、帝都の民たちが、一斉に大地に跪き、大公城に向かって涙を流しながら祈りを捧げ始めた。
飢餓の恐怖から解放された歓喜の叫び声が、城下の全域から地鳴りのように湧き起こっていた。
◇
だが――その奇跡の震源地である大公城の内部は、歓喜どころか、完全なる「非常警戒態勢」に叩き落とされていた。
「敵襲かッ!? 全兵、武器を取れェッ!!」
城の第一訓練場に、怒号が響き渡った。
訓練を行っていた近衛騎士団の騎士たちが、一斉に腰の長剣を抜き放ち、甲冑を激しく鳴らして整列する。
城壁の結界石が一斉に臨界突破の警報魔力を放ち、城内の魔導感知器がすべて振り切れるという、建国以来前代未聞の異常事態。
もしや他国の大規模な軍勢が戦略級の呪詛を撃ち込んできたのか、あるいは伝説の厄災の魔獣が城内に転移してきたのか――。
その混乱の先頭に立っていたのが、近衛騎士団長バスティアンであった。
「落ち着け! 陣形を崩すな! 第一小隊は正門の守りを固めろ! 第二小隊は閣下の執務室を警護せよ!」
彫りの深い端正な顔立ちを険しく引き締め、銀地金の甲冑に身を包んだバスティアンが、抜刀した長剣を掲げて的確な指示を飛ばす。
女性に対しては極度の人見知りと恐怖症を発揮する堅物騎士だが、ひとたび軍務となれば、大陸屈指の若き天才剣士としての冷徹な統率力を遺憾なく発揮する男だ。
「団長! 魔力の発生源が判明しました!」
魔導通信兵が、蒼白な顔で駆け込んできた。
「城の中央……中庭の丘です! あそこから、戦略級魔導兵器を百門同時に斉射したかのような、桁外れの神聖魔力が噴出しております!」
「中庭だと……!? あそこは城の最深部ぞ! 転移門でも開かれたというのか!?」
バスティアンの背筋に冷たい汗が流れた。
中庭のすぐ近くには、閣下の主寝室や私室が並ぶ東翼がある。もしあそこに敵の精鋭が送り込まれたのだとしたら――。
「第三小隊、私に続け! 中庭の不審者を包囲、抵抗する者は即座に斬り捨てろ!」
「「「はっ!!」」」
バスティアンは数名の精鋭騎士を引き連れ、疾風の如き速度で城内の廊下を駆け抜けた。
床を蹴るたびに甲冑が激しい金属音を立てる。
どのような凶悪な魔獣であろうと、どのような他国の手練れの暗殺者であろうと、主君の城を脅かす者は我が剣の錆にしてくれる――鋼の如き決意を胸に、バスティアンは中庭へと通じる巨大なアーチ門の扉を、力任せに蹴り開けた。
――ダンッ!!
「動くなッ! 大公直属近衛騎士団である! 武器を捨てて――」
怒号を轟かせながら中庭へと突入したバスティアン。
だが、その鋭い叫びは、途中で無残にも掻き消えた。
「…………え?」
バスティアンの足が、ピタリと止まった。
背後に続いていた精鋭騎士たちも、ドミノ倒しのように足を止め、抜いたはずの剣を構えたまま、揃って石のように硬直した。
彼らの視界に飛び込んできたのは、血生臭い戦場などでは断じてなかった。
頭上を埋め尽くす、圧倒的な白銀の満開の花々。
雪のように舞い散る光の花びらと、鼻腔をくすぐる、神仏の園のような甘く清廉な芳香。
そして――何十年もの間、枯れ果てて死を待つだけだったはずの「白銀の古代樹」が、まるで神話の幻影のように神々しく輝き、天に向かって誇らしげに枝を広げている光景。
「な……んだ、これは……? 古代樹様が……開花して……?」
バスティアンの長剣の切っ先が、呆然と下を向いた。
夢でも見ているのかと思った。幻覚魔法にでもかかったのかと、自らの目を疑った。
しかし、彼の視線をさらに奪い、その呼吸を完全に停止させたのは――その満開の巨樹の根元に佇んでいた、「一人の少女」の姿であった。
「…………っ」
息を呑む音が、騎士たちの喉から同時に漏れた。
そこにいたのは、ペールグリーンの上品なドレスを纏った、華奢な少女だった。
白狐の毛皮に縁取られた柔らかな首筋、陽光を浴びて黄金の粒子を散らす豊かな栗色の髪。
そして、舞い散る白銀の花びらを手で受け止めようと、無邪気に小さな両手を差し出し、小首を傾げて満開の枝を見上げている横顔。
その姿は、あまりにも美しく、あまりにも神聖だった。
降り注ぐ光の粒子を浴びて微笑むその佇まいは、まるで森の奥深くから迷い込んできた花の妖精のようでもあり、あるいは荒れ果てた北国を憐れんで天から舞い降りた、豊穣の女神そのものに見えた。
「……あ」
甲冑の擦れ合う音に気づいたのか、少女――エリアーナが、ふわりと振り返った。
琥珀色の大きな瞳が、抜刀して立ち尽くす屈強な騎士たちの姿を捉える。
そして彼女は、自分が何か悪いことでもしてしまったのかと不安そうに眉を下げると、ドレスの裾を少しだけ持ち上げ、申し訳なさそうにおずおずと口を開いたのだ。
「あ、あの……ごめんなさい。小枝のお掃除をしていたら……なんだか、急にたくさん咲いてしまって……。散らかしてしまって、怒られますでしょうか……?」
「………………は?」
バスティアンの思考が、完全に停止した。
小枝のお掃除?
散らかしてしまった?
帝国の国宝たる古代樹を蘇生させ、城下全土を揺るがす絶対浄化結界を展開させた張本人が、花びらを散らしたことに対して「お掃除の邪魔をして怒られるか」と心配しているのだ。
この世の常識を遥かに超越した無自覚の聖女と、堅物騎士団長の運命的な邂逅。
バスティアンの鍛え上げられた心臓が、これまで戦場では一度たりとも鳴ったことのないような、激しくおかしなリズムで跳ね上がり始めていた――。




