第16話:暇を持て余した元社畜の「お掃除」
豪奢を極めた衣装合わせの狂騒から一夜が明け、アルジェント大公城には抜けるような青空が広がっていた。
東翼の広大な客室――昨日、クロードが帝都中の工房から買い占めた数百着のドレスや靴、宝飾品を収めるためだけに急遽改装された「衣装専用室」の隣にある私室で、エリアーナ・ヴァン・ベルクは所在なげに佇んでいた。
身に纏っているのは、昨日仕立てられたばかりのデイ・ドレスの一着。柔らかな朝霧を思わせるペールグリーンの上質なウール地に、襟元と手首には肌を優しく包む白狐の細やかな毛皮があしらわれている。軽やかでありながら完璧な防寒性を誇り、エリアーナが身じろぎをするたびに、絹の擦れ合う心地よい衣擦れの音が部屋に響いた。
窓辺の豪奢なベルベット張りの長椅子には、最高級の綿毛布と柔らかなクッションが山のように積まれている。
サイドテーブルには、帝室御用達の菓子職人が今朝焼き上げたばかりの香ばしいサブレや、色とりどりのドライフルーツ、そして銀のポットに入った淹れたての甘い果実茶が、湯気を絶やすことなく置かれていた。
そして――部屋を出る直前のクロードが残した言葉が、今も耳の奥に甘く残っている。
『緊急の軍議が一つだけ入ってしまった。……二刻ほど席を外すが、君は何も考えず、ただこの部屋で好きなだけ眠り、本を読み、菓子を食べていておくれ。一歩も動く必要はない。君が穏やかに息をして、そこにいてくれるだけで、私にとっては十分なのだから』
眉を下げ、名残惜しそうに何度も彼女の指先に口づけを落としてから執務室へと向かったクロード。
その言葉は、過保護の極みであり、世のいかなる女性にとっても夢のような「至上の甘やかし」であるはずだった。
だが。
一人残されたエリアーナの胸の内に広がっていたのは、至福の安らぎなどでは断じてなかった。
「……お、落ち着かない……っ」
エリアーナは長椅子に座ったり、立ち上がったりを繰り返し、落ち着きなく部屋の中をウロウロと歩き回っていた。
両手を手持ち無沙汰に握りしめたり開いたりしては、意味もなく部屋の調度品を眺める。
無理もなかった。
彼女の魂には、およそ五年間――ヴァン・ベルク伯爵家での虐げられた幼少期から、ロシュ侯爵領での過酷極まりない婚約者生活に至るまで、徹底的に「過労と搾取の生活リズム」が骨の髄まで染み付いていたのだ。
ロシュ侯爵領にいた頃の彼女の朝といえば、夜明け前、まだ星が瞬く暗闇の中で飛び起きることから始まった。
暖炉に火を入れる暇もなく、冷え切った指先で昨晩の書類の続きをめくり、代官たちの横領や誤魔化しを暴くための帳簿と睨み合い、朝食の準備を急かし、庭園の植物に魔力を注ぎ、午前中には領地全土の結界石へ自らの生命力を削って供給する。
昼食など口にする暇もなく、午後は農民たちの陳情書の処理と交易ギルドとの予算折衝。夜はユリウスの理不尽な怒声とティファーヌの我が儘の後始末に追われ、寝床に入れるのは深夜二時や三時を回ってから――。
そんな、一分一秒を命がけで駆け抜けるような「超弩級の社畜生活」を何年も続けてきた人間が、である。
「何もせず、ただ座って、お菓子を食べて寝ていろ」などと命じられて、大人しくじっとしていられるはずがなかった。
(な、何かしていないと……身体がソワソワして、罪悪感で押し潰されそうになるわ……!)
空白の時間が、恐ろしい。
何もしないで呼吸をしている自分に対し、脳の奥底に巣食ったかつての呪縛が『お前のような無能が、ただ飯を食らって怠けていていいのか』と囁きかけてくるような強迫観念。
エリアーナは意を決し、部屋の扉を少しだけ開けた。
廊下には、メイド長のミレイユが背筋をピンと伸ばして控えていた。
「あら、エリアーナ様。いかがなさいましたか? お茶のお代わりでしょうか。それとも、室温が合わないなどでございましょうか?」
「あ、あの、ミレイユさん……!」
エリアーナはすがるような眼差しで、両手を胸の前で合わせた。
「私に、何かお言いつけくださいませんか!? 例えば、城の廊下の雑巾がけとか、シーツの洗濯とか……! あ、それか、領地の税収の計算書や、交易の納品書の束はありませんか!? 数字の照合なら、三桁でも四桁でも一晩で片付けてみせますので……!」
必死の形相で「仕事をくれ」と懇願する令嬢。
その異様極まりない光景を前に、ミレイユは琥珀色の瞳をこれ以上ないほど見開き、次いで、胸を痛めたように眉尻を下げた。
「……エリアーナ様」
ミレイユは静かに、しかし断固とした口調で首を横に振った。
「貴女様に雑巾がけなどさせようものなら、私は閣下の氷の剣によって瞬時に氷像へと変えられ、帝都の広場に晒されてしまいます。また、帳簿の照合などは専属の文官たちの仕事でございます。お客様であり、何より閣下の大切なお方である貴女様にそのような泥臭い実務を押し付けるなど、大公家の名折れでございますわ」
「で、でも……私、ただ座ってお菓子を食べているだけなんて、落ち着かなくて……! 役立たずの穀潰しになってしまうような気がして、怖くてたまらないのです……!」
半泣きになりながら訴えかけるエリアーナ。
長年刷り込まれた「役に立たなければ捨てられる」という恐怖の残滓が、彼女の小さな身体を震わせていた。
ミレイユはその健気で痛ましい姿に、改めてかつての婚約者と王国の者たちへの激しい殺意を胸の奥で煮滾らせながらも、優しく微笑みかけた。
「穀潰しなどと、滅相もございません。貴女様がこの城にいらしてくださるだけで、閣下の瞳に光が戻り、城中の空気がどれほど明るくなったか……。ですが、お部屋に閉じこもっているのが退屈でお辛いのでしたら、少し外の空気を吸いに、お散歩などなさってはいかがでしょうか?」
「お散歩……?」
「ええ。大公城の中庭は、城壁に囲まれており警備も万全でございます。他国の刺客や不審者が入り込む余地はございません。護衛をおつけいたしますので、少し歩かれて気分転換をなさるのがよろしいかと」
「あ、あの……!」
エリアーナは慌てて手を振った。
「お散歩なら、ぜひ行ってみたいです! でも、護衛の方は大丈夫です……! 大勢の方に見張られていると、かえって緊張してしまいますし……少しだけ、一人で静かに風に当たりたいのです」
「……一人で、でございますか?」
ミレイユは少し思案するように目を細めた。
本来であれば、大公の命により一秒たりとも視界から外してはならない至宝である。しかし、怯えた小鳥のような彼女に無理やり屈強な護衛をつければ、かえって心に負担をかけてしまうかもしれない。中庭は城の最深部に位置し、周囲には結界も張り巡らされている。
「分かりました。では、中庭の入り口まで私がご案内いたします。もし何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ。決して城壁の外へは出られないよう、お約束いただけますね?」
「はい! ありがとうございます、ミレイユさん!」
ようやく部屋から出られる解放感に、エリアーナの顔にパッと華やかな笑みが咲いた。
その無垢な笑顔の眩しさに、ミレイユは胸を撃ち抜かれ、思わず「尊い……」と呟きそうになるのを辛うじて堪えたのだった。
◇
ミレイユに案内されて辿り着いた大公城の中庭は、息を呑むほど広大であり、そして同時に、北国特有の峻烈な厳しさを物語る空間だった。
城壁に囲まれた広場には、手入れの行き届いた敷石の小道が幾重にも巡らされている。
だが、王国の庭園のように色鮮やかな薔薇や甘い果樹が咲き乱れているわけではなかった。寒冷なアルジェント帝国の気候は厳しく、初秋のこの時期ですら、吹き抜ける風には肌を切り裂くような鋭利な冷気が混ざり合っている。
植えられている草木はどれも寒さに耐える針葉樹や低木ばかりで、全体的に白銀と深い緑、そして灰色の岩石が織りなす、静謐で禁欲的な庭園だった。
「……すうっ、はあ……」
冷涼な空気を胸いっぱいに吸い込み、エリアーナは小さく息を吐いた。
不思議なことに、凍えるような北国の風を浴びても、彼女の身体はちっとも寒さを感じていなかった。
ペールグリーンの特注ドレスの防寒性能もさることながら、彼女自身の肉体に満ち満ちた膨大な魔力が、無意識のうちに体温を最適な状態に保ち、冷気を心地よい爽快感へと変換していたのだ。
「いい空気……。頭がスッキリするわ」
一人きりになったエリアーナは、敷石の小道を軽やかな足取りで歩き始めた。
久しぶりに、誰の視線も気にせず、書類の締め切りにも追われない自由な時間。
だが、歩調を緩め、周囲の木々を観察し始めた途端――彼女の中に眠る「元社畜の裏方気質」が、ムクムクと頭をもたげてきた。
(……あら? 敷石の端に、枯葉や折れた小枝がずいぶん溜まっているわね)
小道の脇を見る。
吹き溜まりになった石畳の隅に、強風で吹き飛ばされてきた枯れ枝や、霜で傷んだ下草が散乱していた。
大公城の庭師たちも一流揃いのはずだが、広大な城内すべての枯れ葉を一日にして回収し切るのは不可能なのだろう。
(少しだけなら……片付けても、怒られないかしら?)
エリアーナの指先が疼いた。
掃除がしたい。整理整頓がしたい。乱雑なものを、あるべき美しい調和の状態へと戻したい。
それは彼女にとって、苦役などではなく、もはや心地よい発散行為――長年の習慣が生み出した本能のようなものだった。
彼女はドレスの袖を少し捲り上げると、足元に落ちていた枯れ枝を拾い集め始めた。
カサカサと音を立てて小枝をまとめ、敷石の隙間に詰まった泥を払い、小道を歩きやすく整えていく。
彼女が何気なく触れた枯れ葉の山は、触れた瞬間に【万物最適化】の微細な波動を受け、余分な湿気が飛び、驚くほど軽やかで崩れにくい「完璧な腐葉土の元」へと質を変えていくのだが、本人はただ「綺麗にまとまったわ」と満足そうに笑うだけだ。
そうして夢中になって小道を綺麗にしながら進んでいくうちに、エリアーナは中庭の最深部――城壁を背にした小高い丘の上へと辿り着いていた。
そして。
そこにそびえ立っていた「存在」を目にした瞬間、彼女の手から小枝がぽろりと滑り落ちた。
「…………あっ」
息を呑むような感嘆と、胸を締め付けられるような痛ましさが、同時にエリアーナの胸を貫いた。
丘の中央に根を張っていたのは、見上げるほど巨大な一本の巨樹だった。
幹の太さは大人が十人がかりで抱え込んでも足りないほど雄大で、天を突くように広げられた枝ぶりは、中庭の空を半分覆い尽くさんばかりの偉容を誇っている。
アルジェント大公城の守り神として、建国以来三百年にわたりこの地に君臨し続けてきたという伝説の御神木――「白銀の古代樹」。
だが、その威容とは裏腹に。
古代樹の現在の姿は、あまりにも痛々しく、死の影に覆われていた。
かつては白銀の輝きを放ち、雪のように純白の花を満開に咲かせていたという枝には、緑の葉が一枚も残っていなかった。
すべての枝が茶褐色に干からび、骨のように痩せ細って寒空を虚しく引っ掻いている。
巨大な幹には、寒冷地特有の極限の冷気と、土壌の魔力枯渇によって生じた深い亀裂が無数に走り、樹皮のあちこちが黒く壊死していた。
幹の根元からは、樹液の代わりに、澱んだ灰色の冷気がプスプスと漏れ出している。
(この木……苦しんでいる……)
エリアーナは、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
彼女には、言葉を話さない植物の悲鳴が、肌を通じて痛いほど伝わってきたのだ。
この古代樹は、ただの木ではない。
かつては大公城全域に強力な加護の結界を張り巡らせ、城下の農地を豊かに潤す「大地の心臓」として機能していた霊木だった。
しかし、アルジェント帝国の過酷すぎる冬の寒さと、長年にわたる地脈の澱みによって、自らの魔力を循環させることができなくなり、内側から完全に凍りつき、枯死しようとしていたのだ。
城の魔導士たちや樹木医たちが総出で治療を試みたものの、誰一人としてこの古代樹の失われた循環を蘇らせることはできず、「この冬を越すことは不可能だろう」と匙を投げられていた瀕死の残骸。
だが、そんな事情を知らないエリアーナにとっては――ただ目の前に、寒さに震え、助けを求めている痛ましい命があるという、それだけの事実だった。
「……寒かったのね」
エリアーナはゆっくりと歩み寄り、古代樹の根元へと歩みを進めた。
足元には、氷のように冷え固まった土壌と、枯死した根の残骸が散乱している。冷気が足首を這い上がり、普通の人間であれば近づくだけで凍傷にかかりそうな絶対零度の澱み。
だが、エリアーナは眉一つひそめなかった。
彼女はペールグリーンの上等なドレスの裾が土で汚れることすら厭わず、冷え切った大地の前に膝をついた。
「根っこが、凍りついた土で息が詰まりそうになっているわ……。まずは、ここを少しだけ片付けてあげないと」
彼女は小さな両手で、幹の根元を締め付けていた凍った土の塊をほぐし、絡みついていた枯れ枝やゴミを丁寧に掻き出していった。
長年の過労生活で培われた、無駄のない、しかしどこまでも丁寧な手つき。
かつてロシュ侯爵領の荒れ果てた庭園で、一人きりで土を耕し、花々を救おうとしていた時とまったく同じ、純粋な慈愛の奉仕。
やがて、幹の根元が綺麗に整い、固まっていた土がふわりと空気を含んで柔らかくなった。
エリアーナは立ち上がると、黒くひび割れた古代樹の巨大な幹へと、真っ直ぐに向き直った。
見上げるほど巨大な、死に瀕した巨樹。
荒々しい樹皮からは、今にも命の火が消え入りそうな、弱々しい鼓動が微かに伝わってくる。
「……よし」
エリアーナは小さく息を吸い込むと、手袋を外した。
白く、滑らかな素手を、冷たく凍りついた黒い樹皮の上へと――躊躇うことなく、そっと重ね合わせた。
――ヒヤリ。
氷の刃を押し当てられたような極限の冷気が、彼女の掌を貫いた。
だが、エリアーナは手を引かなかった。
むしろ、凍える巨木を慈しむように、もう片方の手もそっと添え、両手でその冷たい幹を優しく包み込んだ。
彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて自分自身が、あの冷え切った執務室で孤独に震えていた記憶だった。
誰からも顧みられず、冷たい石壁の中で、一人で耐え忍んでいたあの日々。
もしあの時、誰かが自分に温かな手を差し伸べてくれたなら、どれほど救われただろうか。
今の自分には、クロードがいる。
世界で一番優しく、自分を抱きしめて温めてくれた、愛しい人がいる。
だからこそ――この孤独に凍える巨木を、放っておくことなど絶対にできなかった。
エリアーナは、春の陽だまりのような、どこまでも無垢で美しい微笑みを浮かべた。
そして、幹の奥深くに眠る、弱々しい命の核へ向けて――優しく、愛おしそうに囁きかけたのだ。
「――寒かったですね。……もう大丈夫ですよ。元気になってね」
カサリ。
エリアーナの掌から、淡い、真珠色の光の粒子が零れ落ちた。
それは、本人が意図して放った攻撃魔法でも、仰々しい儀式魔法でもない。
ただ、対象の持つ潜在能力を極限まで引き出し、最も完璧な調和の状態へと導く――規格外の固有異能、【万物最適化】の完全なる発動。
ドクンッ!!
エリアーナの両手を通して、純白の魔力の奔流が、一瞬にして古代樹の深部へと雪崩れ込んでいった――!




