第15話:城のドレス部屋をまるごと買い占める男
奇跡のハーブティーを口にしてから、さらに丸一日。
たっぷりの睡眠と、宮廷料理長が腕によりをかけた滋養食、そして何よりもクロードによる砂糖漬けのような過保護な看病のおかげで、エリアーナの身体は驚くべき回復を遂げていた。
朝の光が差し込む主寝室の鏡の前で、エリアーナは自らの両手をまじまじと見つめていた。
長年の過酷な労働で荒れ果て、アカギレやペンだこが痛々しかった指先は、吸い付くように滑らかで、うっすらと桜色の健康的な光沢を帯びている。
青白くやつれていた頬には林檎のような血色が差し、目の下の濃い隈は跡形もなく消え去っていた。手入れもされずにパサついていた栗色の髪は、梳かすたびに手触りの良い極上の絹のようにしっとりと波打ち、窓辺の陽光を浴びて黄金の粒子を散らしている。
――これが、本当に自分なのだろうか。
「……信じられない。私、こんな顔をしていたかしら……」
ぽつりと零れ落ちた呟きは、偽らざる本音だった。
ロシュ侯爵邸にいた頃は、鏡を見る暇すら惜しんで書類をめくり、たまに映る自分の姿といえば、幽霊のように生気を失った土気色の顔ばかりだったのだ。
本来の生命力と、彼女自身の規格外の魔力が肉体に満ち満ちたことで、彼女が生まれ持っていた本来の美貌が、まるで冬の氷の下から芽吹く花のように一気に開花しつつあった。
だが、そんな劇的な変貌を遂げた肉体に対して、身に纏っているものはあまりにも不釣り合いだった。
国境を越えてきた時に着ていた、あの灰色の木綿ドレス。
ミレイユが気を利かせて丁寧に洗濯し、泥汚れこそ落としてくれていたものの、袖口のすり切れや、幾重にも繕った継ぎ接ぎの跡はどうしようもなく残っている。
大公城の豪奢な大理石の部屋の中で、その服だけが異様なほどみすぼらしく浮き立っていた。
「いつまでも、こんな破れかけの服を着ているわけにはいかないわよね……。でも、私の持っているお金で、帝都の服が買えるかしら……」
腰の小さな革袋を確かめる。
入っているのは、屋敷から持ち出してきたわずかな銀貨と銅貨だけだ。物価の高い帝都で、果たして新しいドレスを一着でも仕立てられるのかどうか。
そんな不安を抱えていた時、部屋の扉がノックされ、ミレイユが姿を現した。
「おはようございます、エリアーナ様。……まあ、今朝も一段と肌の艶がよろしいですね。息を呑むほどお美しいですわ」
「お、おはようございます、ミレイユさん。そんな、からかわないでください……」
照れて俯くエリアーナに、ミレイユは意味深な笑みを浮かべた。
「ふふ、本心でございますよ。……さて、エリアーナ様。閣下がお呼びでございます。お身体の調子もよろしいようですので、東翼の大サロンへご案内いたします」
「東翼の大サロン……? あのお部屋は、公式の賓客をお迎えする場所だと伺いましたが……?」
「ええ、その通りでございます。どうぞ、こちらへ」
ミレイユに促されるまま、エリアーナは廊下へと足を踏み出した。
案内された東翼の大サロンは、大公城の中でも一二を争う広さを誇る、目も眩むような大広間だった。
高いアーチ天井には豪奢なフレスコ画が描かれ、巨大なクリスタル・シャンデリアが眩い光を床一面に落としている。
しかし、その壮麗なサロンの中に足を踏み入れた瞬間、エリアーナはあまりの光景に息を呑み、その場に縫い止められた。
「…………え?」
サロンの中に、人が溢れていた。
仕立ての良い上着を着た男女、首から巻尺を提げた職人、宝石の小箱を抱えた商人、刺繍のサンプルを掲げた針子たち――優に五十人を超える人々が、部屋の壁際に沿って整然と居並んでいたのだ。
そして、部屋の中央を埋め尽くしていたのは、天を突くほど巨大な車輪付きの衣装ラックの列だった。
十台、二十台、三十台――。
そこに掛けられているのは、眩いばかりの色とりどりのドレスだった。
極上のシルク、最高級のベルベット、朝露のようなレース、星空を縫い留めたような魔導刺繍。数え切れないほどの華麗な衣装が、まるで虹の海のようにサロンを埋め尽くしている。
その光景の中心――豪奢な革張りのソファに優雅に腰掛け、長い足を組んでいたのが、白銀の髪を持つ大公クロードであった。
彼は上質な深藍色の執務服を纏い、片手に持った書類から視線を上げると、エリアーナの姿を認めた瞬間に、その氷青色の瞳を蕩けるように細めた。
「おはよう、エリアーナ。気分はどうだ? 足元はふらつかないかい?」
立ち上がり、大股で歩み寄ってくるクロード。
その無駄のない洗練された佇まいと、隠しきれない甘やかな眼差しに、居並ぶ商人たちが息を呑むのが分かった。
他国で「氷の死神」と恐れられる男が、一人の少女を前にして見せる、あまりにも無防備な笑顔。
「あ、あの……閣下。おはようございます……。ですが、この方々は、一体……?」
エリアーナはおずおずと問いかけた。
クロードは何の気負いもなく、さも当然のことのように腕を広げてみせた。
「帝都で最高峰と謳われる仕立屋、宝飾商、靴職人、帽子職人たちだ。全員、城へ呼び出しておいた。……君が着ているその服は、旅の垢がついているし、何より生地が硬くて君の柔らかな肌を傷つけてしまうからね。君にふさわしい衣装を仕立てさせようと思ってね」
「て、帝都最高峰の仕立屋たちを……全員……!?」
エリアーナの口から、掠れた声が零れ落ちた。
見れば、列の先頭に立っている初老の女性は、王国の貴族たちの間でも名を知られていた、帝都屈指の最高級洋服店『サロン・ド・ヴァランタン』のマダムその人ではないか。予約だけで三年待ちと言われる伝説のデザイナーだ。
その隣には、帝室御用達の宝石商や、国宝級の革靴職人たちの姿もある。
そんな雲の上の職人たちが、朝一番から城に呼び出され、緊張の面持ちで待機しているのだ。
「か、閣下! 滅相もございません! 私、新しい服は欲しいと思っておりましたが、街の古着屋さんか、普通の仕立屋さんで十分です! こんな高名な方々にお仕立ていただくような身分ではございません……!」
エリアーナは慌てて両手を振り、恐縮して身を引こうとした。
ロシュ侯爵領にいた頃は、新しいドレスなど一枚も与えられず、妹ティファーヌの使い古しや、古着の補修で済ませていたのだ。こんな大層な贅沢など、身の丈に合わなすぎて恐ろしさすら覚える。
その様子を見て、先頭に立っていたマダム・ヴァランタンがおずおずと口を開いた。
「あ、あの……閣下、そして令嬢様。もしよろしければ、まずは現在ご用意しております当店自慢の新作コレクションの中から、お好みの色やデザインを数着お選びいただけますでしょうか? 令嬢様の高貴な髪色と瞳の色に合わせ、いくつか候補を絞ってまいりましたので……」
マダムは震える手で、数着の華麗なドレスを示した。
淡い若草色のデイドレス、夜空のような深い群青のイブニングドレス、そして純白のレースを惜しみなくあしらった豪奢なサロン着。どれか一着だけでも、小さな村の半年分の税収が吹き飛ぶような超一級品だ。
「え、選ぶなんて……そんな、恐れ多くて……」
困惑して立ち尽くすエリアーナ。
そんな彼女の華奢な肩を、クロードの大きな手が優しく包み込んだ。
クロードはサロンに並べられた数百着のドレスの山を一瞥すると、冷徹なまでの落ち着いた声で、平然と言い放ったのだ。
「――選ぶ必要はない」
「……え?」
マダムが目を丸くした。
「閣下……? 『選ぶ必要はない』とは、お気に召すものがなかったということでございましょうか……? 至急、別の工房から品を取り寄せさせますが――」
「違う」
クロードはマダムの言葉を遮り、氷青色の瞳を細めて冷ややかに告げた。
「ここに並んでいるドレス、靴、ショール、手袋――端から端まで、すべて買い取る」
「………………は?」
サロンの空気が、完全に凍結した。
マダムだけでなく、居並ぶ数十人の職人や商人たち全員が、耳を疑って口をあんぐりと開けている。
「す、すべて……でございますか……? ここにあるのは、帝都中の工房の今季の最高傑作、優に三百着を超えておりますが……!?」
「それがどうした?」
クロードは何の動揺も見せず、吐き捨てるように言った。
「すべて買い取ると言ったのだ。代金は国庫ではなく、私の個人資産から即金で支払う。白紙の小切手を切るから、好きな額を書き込むがいい。……それから、宝石商」
ビクッ、と列の奥にいた豪商が飛び上がった。
「は、はいッ! 閣下!」
「彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んだ至高の琥珀色だ。そして髪は、温かな光を宿した極上の栗色。……それにふさわしい最高品質のトパーズ、イエローダイヤモンド、そして星彩石の首飾りと耳飾りを、あるだけすべて納品しろ。安物は一つとして混ぜるな。彼女の肌に触れていいのは、神話級の至宝だけだ」
「は、ははーーーっ!! 仰せの通りに!!」
宝石商が床に額を擦り付けんばかりに平伏した。
サロンのあちこちで、職人たちが歓喜と衝撃のあまり卒倒しかけている。一国の国家予算に匹敵するような超巨額の取引が、わずか三十秒の会話で成立してしまったのだ。
「か……閣下ーーーーッ!?」
絶叫したのは、他ならぬエリアーナだった。
彼女はクロードの腕を掴み、顔を真っ青にして必死に訴えかけた。
「三百着って、どういうことですか!? 私、身体は一つしかありませんよ!? 一生かかっても着切れません! それに、白紙の小切手だなんて……そんな途方もない大金を、私のような者のために使うなんて、絶対に間違っています……!!」
取り乱すエリアーナ。
だが、クロードは彼女の抗議をまるで春風のささやきのように受け流すと、愛おしそうにその額に自らの額をコツンと当ててきた。
至近距離で囁かれる、低く甘い声。
「間違ってなどいない。一日に三回着替えたとしても、百日分にしかならないだろう? 君には、朝の光に映えるドレスも、昼の散歩のためのドレスも、夜の語らいのためのドレスも、すべて必要なのだ。……君の身を美しく彩るためなら、帝国の全財産を注ぎ込んだって足りないくらいだ」
「ひゃうっ……!?」
本気だった。
一点の迷いもない、狂気じみたまでの財力とスパダリ力。
エリアーナの顔から、再びプシューと煙が吹き出しそうになる。
「さあ、まずは仕立ての確認だ。ミレイユ、彼女を頼む」
「かしこまりました、閣下」
ミレイユが誇らしげに微笑み、エリアーナの背中にそっと手を添えた。
「さあ、エリアーナ様。こちらの試着室へ」と、サロンの奥に設えられた豪奢な天幕へと導かれていく。
逃げ場を失ったエリアーナは、もはやまな板の上の鯉のように、職人たちの手へと委ねられるしかなかった。
試着室の中では、嵐のような作業が繰り広げられた。
マダム・ヴァランタンをはじめとする熟練の針子たちが、息を呑みながらエリアーナの身体の寸法を測り、ドレスを当てていく。
「まあ……なんて素晴らしいプロポーションなのかしら……!」
マダムが感嘆の声を上げた。
「少し痩せていらっしゃいますが、骨格のラインが信じられないほど美しいわ。首筋の白さ、デコルテの滑らかさ、そしてこの腰のくびれ……! どんなドレスを着せても、服の方が引き立てられてしまうわ!」
「えっ……そ、そんなことありません、私なんて地味で……」
「何を仰いますの、エリアーナ様!」
ミレイユがすかさず口を挟む。
「貴女様の美しさは、無知な豚どもが煤で覆い隠していただけです。今こそ、その真の輝きを世界に見せつける時でございますわ!」
何着ものドレスが試され、最終的に選ばれたのは――マダム・ヴァランタンが「私の最高傑作」と涙ぐんで差し出した一着だった。
それは、夜明けの空を思わせる、淡いペールブルーのグラデーションを描くシルクドレスだった。
幾重にも重ねられた薄絹のドレープは、歩くたびに朝露のように揺らめき、胸元と裾には、エリアーナの瞳の色と同じ琥珀色の微小な魔石が、星座の形を描くように繊細に散りばめられている。
締め付けすぎず、それでいて彼女の細くしなやかなウエストと、優美な首筋のラインを完璧に際立たせる至高の意匠。
髪は、帝都屈指の結髪師の手によって、柔らかな栗色のウェーブを活かしたハーフアップに整えられた。サイドには、小粒のトパーズと真珠をあしらった白銀の髪留めが輝いている。
「……仕上がりましたわ、エリアーナ様。どうぞ、鏡をご覧くださいませ」
マダムの声に促され、エリアーナは恐る恐る、正面の巨大な姿見へと視線を向けた。
「…………っ!」
息が、止まった。
そこに映っていたのは――見知らぬ、天上の妖精のような美女だった。
淡い青のドレスに包まれた身体は、まるで光を纏っているかのように神聖で、清廉な気品に満ちあふれていた。
透き通るような白磁の肌に、ドレスのペールブルーがこの上なく映え、艶やかな栗色の髪が背中に美しい陰影を落としている。
そして何より、胸元の琥珀色の魔石と共鳴するように輝く、彼女自身の大きな瞳。
かつて「地味で冴えない」と嘲笑われ、自らを呪っていた少女の面影など、どこにもなかった。
そこに立っていたのは、誰もが一目で息を呑み、跪かずにはいられないであろう、真の「高貴なる淑女」の姿であった。
「これが……私……?」
震える指先で、自らの頬に触れる。
夢ではない。温かな体温があり、脈打つ心臓がある。
自分は、こんなにも美しくなれる存在だったのか。
胸の奥底で、かつて母が遺してくれた「あなたは幸せになりなさい」という言葉が、静かに木霊した。
シャラアン……と。
試着室の天幕が、ミレイユの手によって左右へと開け放たれた。
「――閣下。お待たせいたしました」
サロンの空気が、一瞬にして静止した。
控えていた数十人の職人たちが、一斉に息を呑み、目を見開いたまま石のように硬直した。
そして――ソファから立ち上がり、天幕の方を振り返ったクロード。
「…………っ」
彼の氷青色の瞳が、かつてないほど大きく見開かれた。
呼吸が止まり、唇がわずかに震える。
戦場で数万の敵軍に囲まれても眉一つ動かさなかった男が、ただ一人の少女の姿を目にしただけで、完全に言葉を失い、魂を奪われたかのように立ち尽くしていた。
エリアーナはおずおずと、ドレスの裾に手を添えて一歩前へと進み出た。
恥ずかしそうに頬を淡い桜色に染め、俯き加減に視線を上げる。
「あ、あの……閣下……。いかがでしょうか……? その……似合って、おりますでしょうか……?」
消え入りそうな、不安げな声。
その声を聞いた瞬間、クロードの胸の奥で、何かが激しく音を立てて爆発した。
――ザッ、ザッ。
クロードは大股で歩み寄った。
その足取りは、先ほどまでの優雅さとは打って変わり、獲物を前にした獣のように激しく、切迫していた。
エリアーナのわずか一歩手前まで詰め寄ると、彼は迷うことなく、自らの逞しい両腕を伸ばした。
「あっ……!」
ふわりと、引き寄せられる身体。
クロードはサロン中の職人たちの視線など一切意に介さず、エリアーナの華奢な身体を自らの胸元へと抱きしめ、その豊かな栗色の髪に深く顔を埋めた。
「似合っているどころの騒ぎではない……」
耳元に落ちてくる声は、掠れ、熱く、狂おしいほどに震えていた。
「美しい……。世界中のいかなる言葉を尽くしても、今の君の美しさを言い表すことなどできない。……私の魂のすべてが、君のその姿に跪いているよ、エリアーナ」
「か、閣下……皆様が見ていらっしゃいます……!」
真っ赤になって身を捩るエリアーナ。
だが、クロードの腕の力は緩まなかった。
それどころか、彼は彼女の腰をしっかりと抱き寄せたまま、周囲の職人たちへ向けて、氷よりも冷徹で、獲物を威嚇するような鋭い一瞥を投げかけたのだ。
ピキリ、と。
サロンの気温が、一瞬にして数度下がったかのような凄まじい威圧感。
職人たちは悲鳴を呑み込み、一斉に視線を床へと伏せて震え上がった。
クロードは再び視線をエリアーナへと戻し、その白磁のように滑らかな頬を、自らの指先で愛おしそうに、そして独占欲を露わにして撫で上げた。
その氷青色の瞳の奥底で、暗く、熱い炎がギラギラと渦巻いている。
「……失敗したな」
ぽつりと、クロードの唇から低く危険な呟きが漏れた。
「え……? し、失敗、ですか……?」
不安そうに見上げるエリアーナに対し、クロードは彼女の耳元へと唇を寄せ、周囲には聞こえない微かな声で、甘く、恐ろしいほどの独占欲を囁きかけたのだ。
「ああ、大失敗だ。……君がこれほどまでに美しくなってしまうなど、計算外だった。この姿を、他の男たちに見られると思うだけで……腹の底が煮え返りそうだ。……誰にも見せたくないな。君をこのまま、私の城の奥深くに閉じ込めてしまいたい」
「ひゃっ……!?」
耳朶を打つ熱い吐息と、本気配の籠もった独占欲の言葉に、エリアーナの心臓が激しく跳ね上がった。
冷酷公爵の異常なまでの執着と甘やかし。
だが、完璧に着飾られ、自尊心を取り戻しつつあるエリアーナの無意識の「有能さ」は、この後、さらに城中の人々を巻き込む予想外の事態を引き起こすことになるのであった――。




