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第14話:お茶の一杯が奇跡を起こす

「……君が、私にお茶を?」


クロードは白銀の眉をわずかに上げ、驚きに氷青色の瞳を丸くした。

ベッドの上、上質な羽毛毛布から細い腕を伸ばし、自らのシルクシャツの袖をきゅっと掴んでいるエリアーナ。その琥珀色の瞳は、どこまでも澄み渡り、純粋な祈りのような切実さを湛えて彼を見上げていた。


「はい……。私、ずっと誰かのお役に立ちたくて……屋敷におりました頃も、お茶の淹れ方や薬草の煎じ方だけは、本を読んでたくさん勉強してまいりました。……閣下は私の看病のために、ずっと休まれていらっしゃらないのでしょう? お顔に、お疲れが滲んでいらっしゃいます」


エリアーナの小さな指先が、心配そうにクロードの袖口をぎゅっと握り直す。

その仕草は、あまりにも愛らしく、そして健気だった。

他国で「氷の死神」と恐れられる男の顔を見て、恐怖するどころか「疲れているのではないか」と心を痛め、自らの病み上がりの身体を押してまで労わろうとしてくれているのだ。


クロードの胸の奥で、甘やかな熱が奔流となって渦巻いた。

本音を言えば、彼女の指先一本すら動かさせたくはなかった。丸二日間眠り続け、極度の過労から目覚めたばかりの繊細な身体なのだ。一生この温かなベッドの中に閉じ込め、何から何まで自分が甲斐甲斐しく世話を焼き、甘やかし尽くしてやりたいという強烈な独占欲が喉元までせり上がっていた。


しかし――目の前の少女が、生まれて初めて「誰かのために何かをしたい」と自発的な願いを口にしているのだ。

かつての冷酷な環境で「無能な雑用係」と否定され続け、自尊心を根こそぎ奪われていた彼女が、自分に寄り添おうとしてくれている。その尊い意志を、頭ごなしに否定することなどクロードには到底できなかった。


「……分かった。君の淹れてくれたお茶をいただけるなら、これ以上の幸福はない」


クロードの声音は、砂糖菓子を煮詰めたように蕩けきっていた。

彼はベッドサイドの呼び鈴を軽く鳴らした。澄んだ銀の音が響いてから一秒も経たぬうちに、主寝室の重厚な扉が静かに開く。


「お呼びでございますか、閣下」


現れたのは、先ほどワゴンを下げたばかりのメイド長ミレイユだった。まるで扉の真裏で待機していたかのような完璧な間合いである。


「ミレイユ。茶道具一式を用意してくれ。最高級のハーブ茶葉と、湧き立ての湯を。……エリアーナが、私にお茶を淹れてくださるそうだ」


「まあ……!」


ミレイユの琥珀色の瞳が、驚きと感銘で見開かれた。

主君の「自慢げでたまらない」といった声音と、布団の中で小さく身を縮めているエリアーナの姿を一瞥したミレイユは、瞬時に状況を察知し、深く優雅に一礼した。


「畏まりました。至急、最上の茶器と茶葉を整えてまいります」


数分と経たぬうちに、ミレイユは白樺のワゴンを押して戻ってきた。

ワゴンには、アルジェント帝室専用の白磁のティーポットとカップ、銀のティーストレーナー、そして小瓶に入った数種類の乾燥茶葉が並べられていた。銀の水差しからは、適温に沸かされた湧き水の清涼な湯気が立ち上っている。


「エリアーナ様、無理はなさらないでくださいね。もし少しでも目眩がなさいましたら、すぐに仰ってください」


「ありがとうございます、ミレイユさん」


エリアーナはクロードの手を借りて、ゆっくりとベッドから足を下ろした。

足元には毛足の長い羊毛の絨毯が敷かれ、冷え切った石床の冷たさは一切伝わってこない。クロードは彼女がふらつかないよう、終始その細い腰に大きな手を添え、まるで羽毛を支えるかのように大切にワゴン脇の椅子へと導いた。


「さあ、エリアーナ。君の好きなようにやってごらん」


「はい……!」


椅子に腰掛けたエリアーナは、並べられた茶葉の小瓶を一つずつ手に取って検分し始めた。

その表情は、先ほどまでの怯えた少女のものから、真剣な職人のそれへと引き締まっていた。


用意されていたのは、極寒のアルジェント帝国特産の高級ハーブ――「白銀カモミール」と「雪割草の若葉」、そして滋養強壮に優れた「金剛樹の樹皮」を細かく刻んだものだった。

寒冷地特有の薬効の強さを誇るが、本来であれば独特の苦味と渋みが強く、調合を誤れば薬臭さが前面に出てしまう扱いの難しい茶葉である。


(クロード閣下は、何日も寝ずに私を看病してくださっていた……。身体の芯に疲労が溜まり、神経が張り詰めていらっしゃるはずだわ。苦味を抑えて、香気で神経を休めつつ、魔力の巡りを穏やかに整えるような配合にしないと……)


エリアーナは小さな銀のスプーンを手に取り、迷いのない手つきで茶葉を調合し、温めておいた白磁のポットへと入れていく。

そして――沸き立ての湯が入った銀の水差しへと、両手を添えた。


――その瞬間。

エリアーナの胸の奥で、無自覚の異能が静かに目を覚ました。


(美味しくなってね。……この優しい方の、お疲れを全部取り除いてあげて)


純粋な感謝と、祈り。

かつてロシュ侯爵領で、義務と恐怖からすり減るように使っていた力とは根本から異なる、温かな感情の波動。

それが彼女の細い指先を伝い、銀の水差しへ、注がれる熱湯へ、そしてポットの中で揺らめく乾燥茶葉へと、音もなく染み渡っていった。


――【万物最適化】。

触れたもののポテンシャルを強制的に引き出し、物質と魔力の構造を極限まで調和させる奇跡。


ドクン、と不可視の波紋がポットの中で広がった。

熱湯が注がれた瞬間、乾燥していた茶葉の一片一片が、まるで時間を巻き戻して朝露を浴びた瞬間に戻ったかのように、鮮やかな翡翠色と黄金色へと蘇った。

苦味とえぐみの原因となる不要なタンニン成分が奇跡的な分子結合によって極上の甘みへと昇華され、薬効成分だけが本来の十倍――いや、百倍以上の濃度へと限界突破していく。


カチリ、と蓋を閉めた瞬間だった。


「…………っ!?」


背後で見守っていたメイド長のミレイユが、息を呑んで後退りした。

ポットの注ぎ口から、ふわりと立ち上った湯気。

それが部屋の空気に触れた刹那、主寝室の空間全体が、まるで神殿の最深部のように神聖な空気で満たされたのだ。


漂ってきたのは、言葉を絶するほどの芳香だった。

澄み渡る高原の風のような清涼感、蜜のように甘く濃厚な花の蜜の香り、そして大地の奥底から湧き出る豊かな生命力の息吹。

ただ匂いを嗅いだだけで、鼻腔を通り抜けた香気が肺を満たし、全身の血流がカッと温かくなる。

部屋の隅に置かれていた観葉植物の葉が、その香気のエーテルを浴びて青々と光沢を増し、窓の外から差し込む陽光すら、淡い虹色の粒子を帯びて煌めき始めた。


「こ、これは……一体……?」

ミレイユは戦慄を覚えて口元を手で覆った。

彼女は一流の暗殺者であり、毒や薬物、魔導ポーションの知識にも極めて明るい。だが、これほど純度が高く、ただの湯気だけで空間そのものを浄化してしまうようなハーブティーなど、帝室の秘蔵薬草庫を探しても絶対に存在しない。


しかし、当のエリアーナは、至って平然としていた。


「よし……ちょうど三分ですね。少し長めに蒸らして、香りを落ち着かせました」


エリアーナは満足げに微笑むと、白磁のカップにティーストレーナーを当て、ポットを静かに傾けた。


トトト……と、澄んだ音を立てて注がれる琥珀色の液体。

それは濁り一つなく、まるで溶かしたトパーズのように透き通り、水面からは細かな光の粉が揺らめくように立ち上っていた。


カップを満たしたエリアーナは、両手でソーサーを持ち上げ、椅子に座るクロードの前へと差し出した。


「お待たせいたしました、クロード閣下。……粗茶ですが、どうぞお召し上がりくださいませ。お口に合うとよろしいのですが……」


おずおずと差し出されたカップ。

クロードは、その琥珀色の水面を見つめ、次いでエリアーナの顔を見つめた。

彼の鋭敏極まりない魔力感覚は、すでに理解していた。目の前にある液体が、ただのお茶などという生易しいものではないことを。

三年前、自分を死の淵から引きずり戻した「奇跡の水」。あれと全く同じ、神話の神々が口にする霊薬の波動が、この小さな磁器のカップの中に満ち満ちているのだと。


「……いただくよ。君が私のために淹れてくれた、世界で最初の一杯だ」


クロードは恭しく両手でカップを受け取った。

立ち上る湯気を吸い込んだだけで、長年酷使し続けてきた彼の屈強な肉体の細胞が、歓喜に震えて産声を上げるのが分かった。


彼は迷うことなく、カップに唇をつけた。


――トクン。


一口の液体が、彼の舌を濡らし、喉を滑り落ちた。


その瞬間。


――ッガァァァァンッ!!


クロードの脳内で、雷鳴のような轟音が鳴り響いた。


「っ……!?」


クロードの全身が、ビクンと大きく跳ねた。

目を見開き、息を呑む。


甘い。芳醇だ。そして、信じられないほどまろやかで温かい。

だが、真の衝撃は味覚の先訪れた。

喉を通ったその至高の液体が胃袋に達した刹那、爆発的な熱量を秘めた「純白の魔力潮流」が、クロードの全身の血管と神経網、そして魔力回路のすべてへと怒涛の勢いで雪崩れ込んできたのだ。


(な……んだ、これは……!?)


クロードの胸の奥で、何かがパキパキと音を立てて砕け散っていく。

三年前、致死性の魔毒によって焼き切られ、エリアーナの水によって奇跡的に修復された彼の肉体。しかし、あまりにも強力すぎる彼の「絶対零度の魔力」は、常に自らの肉体に極度の負荷をかけ続けていた。日々の激務、帝国の政務、そして戦場で振るう破壊の力によって、彼の体内には微細な魔力の淀み――決して消えることのない疲労の澱が、長年にわたって蓄積していたのだ。


その、誰にも癒やすことのできなかった頑固な澱のすべてが。

たった一口のお茶によって、まるで濁流に洗い流される小石のように、綺麗さっぱりと消滅していく。


魔力回路の壁が磨き上げられ、太く、強く、滑らかに拡張されていく。

巡る血液が完全に浄化され、筋肉の疲労物質が霧散し、脳の奥深くにこびりついていた睡眠不足の鈍痛が、朝霧が陽光に溶けるように消え去った。


全身の細胞が、歓喜の悲鳴を上げている。

肉体の限界値が、彼本来のポテンシャルを遥かに超えて、異次元の領域へと跳ね上がっていく感覚。


ドォォォォォンッ……!!


クロードの肉体から、抑えきれない魔力の余波が、青白い光のオーラとなって噴出した。

それは他者を威圧する殺気ではない。あまりにも濃密で、あまりにも純粋な、極限まで調和された「絶対零度」の神聖なる魔力の奔流。

主寝室の空気がピキピキと微かに鳴り、壁の結界石が眩い燐光を放って共鳴する。


バタンッ!!


突然、主寝室の扉が凄まじい勢いで乱暴に開け放たれた。


「閣下ッ!? ご無事ですかッ!?」


飛び込んできたのは、腰に長剣を佩いた銀地金の甲冑姿の青年――大公直属の近衛騎士団長、バスティアンだった。

彫りの深い端正な顔立ちを蒼白にし、抜刀せんばかりの勢いで部屋に雪崩れ込んできたのだ。その背後には、異様な魔力の上昇を察知した近衛兵たちが槍を構えて控えている。


「異常な魔力反応を感知いたしました! 敵の襲撃か、あるいは閣下の魔力暴走かと――」


叫びかけたバスティアンの言葉が、喉の奥で凍りついた。

彼の鋭い眼差しの先。

そこには、敵の姿など微塵もなかった。


ただ、白磁のティーカップを手に持ち、全身から見たこともないほど神々しく澄み切った青白い魔力のオーラを立ち上らせている、主君クロードの姿があった。

その魔力量たるや、普段の数倍――いや、帝国の軍勢すべてを一人で凍結させてしまえるのではないかと思えるほどの、圧倒的な密度と輝き。

そしてその表情は、苦悶などでは断じてなく、まるで天上の神仏の祝福を受けたかのように、恍惚と満ち足りた光に包まれていたのだ。


「か……閣下……? その、魔力は……?」

バスティアンは呆然と長剣の柄から手を離し、口を開けた。


「魔力循環の淀みが……完全に消えている……? いや、それどころか、魔力の総量と出力が、信じられないほど跳ね上がっておられる……!? 一体、何をなさったのですか!?」


側近たちの驚愕の視線が、クロードへと集中する。

しかし、クロードは彼らに目もくれなかった。

彼は静かにカップの中の残りのお茶を、一滴も零さぬよう喉へと流し込むと、震える手でソーサーへと戻した。


そして、ゆっくりと顔を上げる。

その氷青色の瞳には、言葉にできないほどの熱情と、崇拝にも似た歓喜の光が宿っていた。


「……エリアーナ」


掠れた、甘く震える声。

クロードは椅子から立ち上がると、エリアーナの前に膝をつき、彼女の小さな両手をそっと自らの手で包み込んだ。


「君は……君は、一体どれだけの奇跡を私に与えれば気が済むのだ……? この一杯で、私の長年の疲弊も、魔力の滞りも、すべて消え去ってしまった。……身体が、信じられないほど軽い。まるで新しく生まれ変わったかのようだ」


「え……?」


エリアーナは目をパチクリとさせた。

部屋に飛び込んできた鎧姿の騎士たちの殺気立った様子と、主君が自分に跪いて熱烈な賛辞を述べている異様な光景。

状況が全く飲み込めない彼女は、恐縮して慌てて手を引っ込めようとした。


「あ、あの……閣下? そんな、大袈裟な……! 私、ただ普通にハーブティーを淹れただけですよ?」


「普通だと……!?」

背後で見ていた騎士団長バスティアンが、裏返った声を上げた。

「これが普通の茶であるはずがあるか! 閣下は帝国最強の魔導戦士であられるぞ! その閣下の魔力量を、茶の一杯で跳ね上げるなど、神話の霊薬(エリクサー)ですら不可能な御業だぞ……!?」


「え、ええっ……!?」


騎士団長に詰め寄られ、エリアーナは怯えたように肩を竦めた。

そして、困惑しきった表情で、小首を傾げながら小さな呟きを漏らしたのだ。


「で、でも……本当に、特別なことなんて何もしていないのです……。苦味が出ないように、お湯の温度を少し冷まして……蒸らし時間を少し工夫しただけですから……」


「蒸らし時間だと……!?」


バスティアンが絶句し、頭を抱えた。

メイド長のミレイユはといえば、壁際で両手を胸の前で固く握りしめ、「素晴らしい……! やはりあのお方は、天から舞い降りた奇跡の聖女様……!」と、狂信的な眼差しでエリアーナを見つめている。


周囲の者たちがどれほど戦慄し、崇拝しようとも、エリアーナ本人はどこまでも本気で「蒸らし時間のコツ」だと信じ込んで疑っていない。

この圧倒的な無自覚チート。


クロードは、そんな彼女の愛らしさに、思わず低く喉を鳴らして笑った。

彼は跪いたまま、エリアーナの細い指先の甲に、熱い口づけを落とした。


「ふっ……そうだな。君にとっては、ささやかな工夫に過ぎないのだろう。……だが、私にとっては、君のその手が紡ぐすべてが、世界で最も尊い宝物だ」


クロードの瞳の奥に、甘く、底知れない独占欲の炎がゆらりと揺らめいた。


「もう誰にも渡さない。君のその奇跡の手も、淹れてくれるお茶も、その柔らかな笑顔も……すべて、私のものだ」


「ひゃっ……閣下……っ!」


顔を真っ赤にして湯気を立てるエリアーナ。

その神聖な空間に、これ以上無骨な騎士が踏み入ることを許さぬように、クロードは振り返ることなく、冷ややかな一瞥をバスティアンへと投げかけた。


「バスティアン。騒ぎ立てるな。用がないなら、即座に退出して訓練場へ戻れ」


「は、ははっ! 失礼いたしましたッ!」


主君の絶対零度の視線に射抜かれ、バスティアンは慌てて敬礼し、部下たちを引き連れて転げるように部屋を出ていった。

扉が閉まり、再び静寂が戻る。


クロードは立ち上がると、赤面して俯くエリアーナをそっと抱き上げ、再び温かなベッドの毛布の中へと優しく横たえさせた。


「よく休んでくれ、私の聖女。……君の健康が完全に回復した暁には、君にふさわしい最高の世界を贈ると誓おう」


冷酷公爵の過保護な甘やかしは、とどまるところを知らない。

そして、体力を完全に取り戻したエリアーナを待ち受けていたのは――帝都中の仕立屋を震撼させる、前代未聞の「規格外の贈り物」であった。

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