落ち着かない
席についた僕は鹿狗が言った『幻の絵』が気がかりで仕方がなかった。しかもこの学校にあると言っていた。
幻の絵と言えば、行方不明になっていた名画や、なんらかの理由によって有名になった作品。わかりやすく言えばゴッホの『ひまわり』や、レオナルド・ダ・ヴィンチの『サルバトール・ムンディ』が思い浮かぶ。
そういった価値のある物がこの学校にあるのだろうか…。いや、それはおかしな話だ。あの先生が知っている時点でいつ売られてもおかしくない状態。つまりもしここ、学校にいる人間全員が幻の絵を認識しているとすればわざと学校に置いているということだ。
一体何のために?……聞きに行くか?いや、入学初日から幻の絵について話に行くなど馬鹿げている。優先するべきことが他にあるはずだ。しかも、単なる学生の作り話の可能性も否めない。
頭の中で思案しているうちに、いつのまにか一限の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「では、私は一度職員室へ行かないといけないので、チャイムが鳴る前には座っていてくださいね」
そう鹿狗は言い放って教室を後にする。
高校に入って初めての自由時間だ。と言っても十分ほどしかないが……。担任が教室を出た途端、静かだった教室が波紋を広げるように騒がしくなり始める。
——名前なんて言うの?
——俺もそのゲームやってるよ!
——部活とか決めてるのー?
全周囲から途絶えなく聞こえる人の声。さっきの静寂が嘘みたいだ。僕は特に話しかけられることも話すこともなく、四方八方から聞こえてくる声を、ただひたすらシャワーを浴びるような感覚で聞き流していた。
人間は不思議だ。
つい先程まで初対面だった得体の知れない生き物と本能的に仲良くなろうとするんだから。
無意識に右手の甲の皮をつねる。きっとこんな捻くれた思考をするせいで友達ができないんだろうと思うと同時に、今ここで内省している僕が一番得体の知れない生き物になっていることに気付く。
僕の思考を遮るようにチャイムが鳴った。二限目始まりのチャイム、と同時に鹿狗が戻ってきた。
「はい、では次は体育館へ移動になるから、廊下に出席番号順に並んでねー」
職員室から急いで戻ってきたのだろうか、鹿狗は少し息を切らしている。ぞろぞろと皆が廊下に出る、後を追うように廊下へ向かった。僕たちは蟻の行列を成すように体育館へ向かって歩く、見渡せばそこは未開の地だ。
教室の反対側には大きな窓が連続して並び、眩しいくらいに光を取り込んでいる。まるで僕らを歓迎しているかのように、きっと数週間後には多くの人――いや、同級生で溢れかえるのだろう。
なんてことを考えているといつのまにか体育館の入り口の前に着いていた。クラスごとに二列になって扉を目前にして縦に並ぶ。時折独特な床のワックスの香りが僅かに鼻を掠める。
前方を見てみたくなったので、少し体を列から左側に外し覗いてみると、各クラスの担任がバタバタと動いてるのが見えた。配置の最終確認でもしているのだろうか。
さらにその奥、やけに大きい扉の先で保護者の声と共に、わずかに生徒達の声が聞こえる。
すると後方から群れを成した足音が近づいてきてバタリと止んだ。どうやら一年生が全員集まったらしい、慌ただしく動き回っていた担任たちはいつのまにか各クラスの先頭へ立っている。正面を向いた鹿狗が、列を眺めるようこちら側に体を向き直す。
「みなさん、笑顔で」
何かと思えば人差し指で口角を上げるようなジェスチャーをし、ニコッと笑って見せる。鹿狗はそこらの俳優にも匹敵するほどの輝かしい笑顔を放った。
他クラスの女子の何人かが鹿狗に注目したが、そんなことにも目はくれずに鹿狗は正面を向き直していた。
きっとここのクラスの女子も釘付けだっただろう――




