思念記録 七十二 その2
ガレンは、森の中に入った。
森の木々は高く、陽の光を遮ってしまい、まだ昼間なのに薄暗い。
そして、少し先もすぐに木々に遮られ、何も見えない。
ガレンは、木に登って周囲を探ることにした。
農作業をするには小柄で、馬鹿にされてばかりだった体も、木登りをするには都合がいい。
子供の頃から、木登りだけは得意だった。
幸い、目の前の木は枝が多く、登りやすかった。
森の中だからか、下の方の枝には葉も少なく、そのおかげでさらに登りやすい。
木を登っていくと、さっきまでは見えなかった森の景色が見えてきた。
ガレンが進もうとしていた先には、人の二倍はありそうな巨体を持つ、二足歩行の魔獣が何体も歩いていた。
改めて耳を澄ますと、風に葉が揺れる音だと思っていたものに、魔獣の足音も混ざって聞こえた。
あのまま進んでいたら、危なかった。
だが、魔獣は前を見て歩いているようで、上に注意を向けることはあまりない。
この分なら、うまく木を伝っていけば、魔獣に見つからずに進めるかもしれない。
陽が隠れるほど木々は密集し、隣り合った木の枝が何重にも重なっている。これなら、木から木へ伝っていくこともできそうだ。
腰かけられそうな太い枝に腰を下ろすと、再び絵を取り出した。
くそっ!ここから近い水辺は、あの魔獣の群れの奥か。
わざわざ危険な方に行く必要はない。安全に石さえ持ち帰ればいいだけなんだ。
ガレンが絵の中から他の水辺を探すと、少し離れたところにも、湧水の出る場所がいくつかあるらしい。
しかし、黒いバツがついているところも多く、残っているのは一か所だけだ。
よし、このまま木を伝って、そこまで行ってみよう。
まだ森に入ったばかりで方向がわかるうちに、特に大きな木の位置をできるだけ覚え、今登っている木には短剣で傷をつけた。
こうして目印をつけながらゆっくり動けば、迷わずに進めるだろう。
どうせ魔獣どもは、ガレンには気づかない。
木を伝って動くのは、疲れるし時間もかかる。
少し進んでは休む。それを繰り返しながら、ゆっくりと進んだ。
何度も、あの巨体の魔獣がガレンの下を通っていった。
下を歩いていたら、間違いなくもうやられて、ガレンも赤いバツ印になっていただろう。
地上を歩かなくて正解だった。
きっとバツになった連中は、何も考えずにのこのこと地上を歩いていたんだ。
自分の命がかかっているのに、そんなことだから殺されるんだ。
木に印をつけ、隣の木へ移る。それを繰り返していると、目的の水辺にたどり着いた。
木々のない空間があり、そこに小さな池のように湧水が溜まっている。
それだけなら問題ないが、その周りを、さっきの魔獣が三体もうろついている。
ここからなら、魔獣に気づかれる心配はなさそうだ。
だが、ここからでは、池に目的の石があるのかどうかがわからない。
魔獣がいなくなるのを待ってから、下に降りて確認するべきか?
それとも、ここから見えないのは、そもそも石がないからか?
下に降りたら、間違いなく見つかる。
そこから急いで木に登っても、間に合う保証はない。
透き通った水色の石だというんだ。
もしあるなら、もっと簡単に見つかりそうにも思える。
わざわざここで危険を冒して探しに行く必要はない。
他の場所を見に行けば、木の上からでも簡単に見つかるかもしれない。
そう思い、息をひそめて魔獣の様子を窺う。
魔獣は、何をするでもなく佇んでいるようで、まったく水辺から動く気配がない。
このままじゃ埒が明かない。
そう思い、この水辺を後にした。
残っている水辺は、森へ入った直後、魔獣の群れがいたため避けた場所だけだ。
だが、ガレンはここに来るまでに、魔獣を何体もやり過ごしてきた。
魔獣がいても、木の上なら気づかれない。
そう考え、再び木を伝いながら引き返した。
魔獣の群れの上を、慎重に、音を立てないように木を伝っていく。
当然、多少の音は出てしまうが、もともと森の中は完全な無音ではない。
風で木の葉が揺れる音、魔獣の足音や声。
水が湧き、流れる音。
音に気を配ると、意外と多くの音が聞こえる。
その音に紛れる程度ならば、多少音を立てても問題はない。
ガレンの下には、魔獣が五体もいる。
多すぎる。こんな小さな森なのに、魔獣どもはどうしてこんなに多いんだ。
毒づきながらも、なんとか気づかれずに上を通り過ぎた。
魔獣を通り過ぎ、意識が前へ向いたからか、急に前方から水の流れる音が聞こえてきた。
前を見ると、少し離れたところに木がなく、ぽっかりと穴が開いたような空間があり、その方向から水の音がする。
暗くてよく見えないが、その空間の奥は少し高くなっているようで、地面が盛り上がったような影が見えた。
その水辺に近づくと、別の世界に迷い込んだようだった。
木々の間に空いた空間へ光が差し、地面に当たった光が、青く辺りに反射している。
周りの木々にもその光が当たり、幹まで青く、きらきらと輝いているように見えた。
光を反射しているのは、水面だけに見えた。
だが、よく見ると、水の底にある青い地面そのものも、光を返している。
その青い地面をさらによく見ると、透き通った綺麗な宝石のような青い石が、そこら中に転がっていた。
青く透き通った石。ガレンが求めていた触媒の材料だ。
あれを一つ持ち帰れば、ガレンは晴れて貴族だ。
幻想的な美しい光景も、すべてガレンの貴族への道を祝福しているかのようだった。
これまで、こんな綺麗な景色は見たことがない。
ガレンが見たことのある地面は、これから耕さなくてはならない忌々しい緑色の地面か、なんとか耕し終わった後の茶色の地面。
あとは、街に敷き詰められた石の地面。それくらいだった。
それが今は、辺り一面、透き通るような青い地面だ。そこから石を一つ持ち帰れば、今まで足を踏み入れたことのない貴族の世界へ入れる。
ガレンの気分は高まり、今すぐにでも駆け下りたくなった。
だが、最後の一歩で足を踏み外すわけにはいかない。
魔獣がいないか、開けた空間の周りをよく眺めた。
そして、気づいてしまった。
水辺の向こうで、盛り上がって見えていた地面。
地面だと思っていたものは、明らかに周囲とは違っていた。
青い光を反射しているから違って見えるのだと思っていたが、そうではない。
あの色は、魔獣の毛の色だ。あれは、魔獣だ。
よく見れば、地面と間違えるなんてあり得なかった。
ただ、ガレンの頭の中の常識が、それを魔獣だと認識することを拒んでいただけだ。
あまりにも大きすぎる。
あの二足歩行の魔獣が巨大化したようなものが横たわっているのを、盛り上がった地面だと思っていたのだ。
うようよいた二足歩行の魔獣でも、人の倍はありそうだった。
巨大な魔獣は、その倍どころではない。小さい方の魔獣の五倍はありそうだった。
もしあれが起き上がり、ガレンの方へ向かってきたら、絶対に助からない。
大きさを見ただけで、すぐにわかってしまった。
だが、ガレンの目の前には、貴族への道となる青い石が広がっている。
別に、魔獣と戦おうっていうわけじゃないんだ。
ただ、降りてあの石を拾い、すぐに引き返すだけ。それだけでいい。
魔獣は向こうを向いているし、横になっている。
気づかれずに石を一つ取るくらい、できるのではないか。
ガレンは、ゆっくりと木を降り、地面に足をつけた。
ずっと木の上を伝っていたせいか、かえって地面に降りると、体がふわふわするような変な感覚がした。
そのまま木からゆっくりと離れ、水辺へ向かっていく。
青く輝く光の中に入った。あと少し。水辺まで、あと数歩だ。まだ魔獣は向こうを向いたままだ。
ついに、足先が水に触れた。
そのまま手を伸ばし、冷たく澄んだ水の中から、青い石を一つ取り出した。
やった!やったぞ!これで俺も、貴族だ!
はやる心を抑え、なんとか石を腰に下げた袋へしまう。
そして、すぐに引き返そうとしたとき、何かの気配を感じ、ふと前を見た。
さっきまで向こうを向いていたはずの魔獣が、ガレンを見ていた。
その巨大な目と、目が合った。
その瞬間、音なんて何も気にしていられなくなった。
今すぐここから逃げないと!
全速力で、来た道を引き返す。
後ろから、巨体を引きずるようなズルズルという音と、ウォォォ!という低く響く唸り声が聞こえてきた。
森の中に入れば、あの図体の大きさだ。木に阻まれて、もう追ってこられないはずだ!
全力で走り、森の中に入る。
しかし、巨大な魔獣の声に呼応するように、さっき上を通ってやり過ごした魔獣たちが、前から迫ってきていた。
くそ!あのデカい魔獣が、こいつらのボスなのか!
小さい方といっても、人の倍はある。木の間に入ったところで、逃げ切れるとは思えない。
ガレンの逃げ場は、上にしかなかった。




