思念記録 十一 その2
ノイは、物音を立てないように気をつけながら辺りを見回す。
村を出た少し先に、人の丈の倍はありそうな、二足歩行の魔獣が見えた。
まだ気づかれていなさそうだ。向こうを向いている。
ノイは、短剣を抜き、息を殺しながら魔獣に近づく。
あと数歩で届くというところで、一気に土を蹴り、魔獣の脚に短剣を思い切り突き刺した。
ウガァァァァと、不意を突かれた魔獣が叫び声を上げる。
これ一発で倒せるとは思えない。短剣を抜き、また距離を取る。
魔獣が振り向き、こちらを向いた。気づかれた。
魔獣は足を引きずりながら、近くの石を拾い、ノイに向かって投げつけてきた。
ノイが必死に横に転がって避けると、ノイがいた場所をものすごい勢いで石が通り過ぎた。
あの石に当たったら、それだけで無事では済まない。
離れるだけではだめだ。物陰に隠れないと。
ノイは、魔獣から目を離さないようにしながら、さっきの家の後ろに回った。
魔獣は真っ直ぐに家に向かってくると、拳を振り下ろし、家を殴りつけた。
バリバリ! と木が裂ける音と同時に、家の屋根が崩れ落ちる。
それと同時に、ノイは家の陰から、さらに隣の家の陰に移る。
それでも、魔獣は同じ家を殴り続けていた。
ノイは、魔獣が家を殴っているのを確認しながら、少しずつ魔獣の後ろに回る。
魔獣は今度は家の中に手を突っ込み、何かをつかんで持ち上げ、握りつぶした。
魔獣の手から、木の破片がこぼれ落ちる。
ノイが中にいると思っているのか、家を殴ったり、手を突っ込んだりを繰り返し、家を破壊し続けている。
魔獣が轟音を立てて家を殴っているので、ノイの足音はそれに隠れている。
ノイは完全に魔獣の後ろに回り込むと、今度は音を気にせずに全力で駆け込み、さっきとは逆の脚に短剣を突き刺す。
前かがみになっていたところでまた不意を突かれた魔獣は、そのまま前に倒れ込んだ。
家は一瞬、魔獣の体を支えたが、重みに耐えられなくなって柱が折れ、轟音を立てて完全に崩れ落ちる。
ノイは、短剣を抜き、倒れた魔獣の背に乗り、頭に短剣を突き刺した。
血が噴き出し、魔獣が叫びながら後ろのノイを払いのけようとするが、背中まで手が届いていない。
もう一度、短剣を抜いて頭に突き刺した。
魔獣はしばらく痙攣するような動きを見せた後、動かなくなった。
「はぁ、はぁ……やった」
ノイは、静かに魔獣から降りた。
へたり込んで休みたかったが、今の音で他の魔獣が来たらまずい。
その場を離れ、途中にあった井戸の水で返り血を軽く洗い流し、村を出た。
街道を歩くと、川が見えた。
川には、街道につながる橋が架かっているが、途中で崩れ落ちている。
川には近づきすぎず、街道を逸れて川を下る方向に歩き始めた。
当然街道よりは少し歩きにくいが、草がある程度で、そこまで歩きにくくはない。
陽が完全に昇り、上からノイの頭をギラギラと照らし始めたころ、また街道が見えてきた。
街道の向かいには森が広がっているのが見える。この街道が街から真っ直ぐ進んだ道のようだ。
橋を渡り、二手に分かれた街道を左に進み、さらに街道を歩いた。
空が赤く染まったころに、壁に囲まれた街が見えてきた。
「誰か!」
街の門の前まで行くと、門の上から大きな声で声をかけられた。
「シャンベル領から来た者です!」
こちらも大きな声で、フィア様から教わった通りに答える。
すると、門が開き、鎧に身を包んだ騎士様が一人出てきた。
「準備は整ったのか?」
何のことか分からない。
「えっと、この紙を渡すように頼まれました」
ノイには読めない文字が書かれた紙と、シャンベル家の紋章が描かれた紙を手渡した。
騎士様はしばらく紙を見た後、
「ついてこい。ただ、武器は預からせてもらう」
と言った。
ノイはそれに従って、短剣を手渡した。
さらに、念のためと言われ、手を後ろに回した状態で他に武器がないか確かめられた。
その後、騎士様に続いて街の中に入った。
初めて見る他の街は、シャンベルの街とは全然違う街だった。
城壁の中に畑があり、中心部にある家も、ノイの家よりずっと大きいものが多かった。
ノイは、そのうちの一つの家に案内された。
もう遅いし、シャンベル様に返事をするための紙を持って行ってもらいたいから、ここで明日まで休んでいろと言われた。
ノイの家よりもずっと広かったが、他に人はいないらしい。
さっきの騎士様とは違う人が入ってきて、食事を運んでくれた。
いつもより量も多く、味も濃い食事だった。
でも、腹は膨れたが、あまり美味しいとは感じなかった。
寝床も、いつもとは違い、台の上に柔らかく、分厚い布が敷かれていた。
ノイはそこに横になった。
柔らかく、気持ちがいいが、いつもの賑やかさはなく、静かな夜だった。
旅に出て、大きな魔獣を倒し、見知らぬ街で眠りにつく。
あんなに憧れていた旅のはずなのに、頭にはいつもの日常が浮かんでいた。
初めて街の外で過ごす夜が明けた。
朝になると、また食事が出され、満腹になるまで食べた。
その後、昨日の騎士様が来て、見たことのない紋章が描かれた紙を差し出し、
「これを、シャンベル様に渡すように」
と言った。
ノイはそれを大切にしまい、騎士様に続いて街を出た。
来た時とは逆の道を辿り、シャンベルの街に向かった。
運が良かったのか、帰り道はあの大きな魔獣には出くわさず、狩場で見た魔獣を何度か倒すだけで済んだ。
夕日が姿をくらます直前に、シャンベルの街に着いた。
ノイが門から街に入ろうとすると、ちょうど警備から戻ったところだったのか、フィア様の姿が見えた。
「あっ」
思わず口に出してしまうと、フィア様が振り返った。
失礼なことをしてしまったと謝ろうとすると、ノイの姿を見たフィア様が駆け寄ってきて、ノイの手を取り、
「良かった、無事に戻ってきたのね」
と言いながら、両手でノイの手を包み込み、微笑んだ。
その微笑みには、あの射すくめるような眼差しはなく、柔らかさと、そして何故か少し哀しさを感じた。
その時だけは、フィア様が、妹や近所の友達のような、普通の女の子のように見えた。
ノイが戸惑っていると、フィア様がはっとして手を放す。
そして、いつもの鋭い眼差しを取り戻す。
「ご苦労だったわ。シャンベル様のところに報告に行きましょう」
そう言うと、門の方に向かっていった。
ノイが立ち止まっていると、ほら、と言って促すような仕草をされた。
ついてこいということらしい。
ノイは、慌てて走ってフィア様に追いつき、眺めるだけだったフィア様と、一緒に門に入った。
そして、フィア様の後ろに続いていつもの街を歩いた。
昨日旅に出た時と、何も変わらない街の風景だった。
いつもと違うのは、夕日で輝く紅葉色の髪を揺らしながら歩く、フィア様の姿。
でも自分には、肩を並べて歩くより、いつものように眺めていた方がいいと思った。
仲間たちと、騎士様はかっこいい、僕もいつかなりたいと言い合って、母さんに馬鹿なこと言うんじゃないと叱られる。
その方がずっといい。
外の冒険は、初めて見る物ばかりで、何が起こるのかも分からなくて、確かに刺激的だった。
けれど、冷たく、寂しく、死と隣り合わせの危険な世界だった。
無事帰ってきたノイを見て、フィア様が身分の違いも忘れてしまうほどに。
もう、魔獣退治はやめよう。
そして、あのいつもの日常に戻ろう。
館に着き、シャンベル様の前に通された。
遠くから見たことがあるだけで、こんなに近くで見るのは初めてだ。ましてや話すなんてとんでもない。
何とか隣街で受け取った紙を手渡すと、
「ご苦労だった。ありがとう」
と、恐れ多くも頭を下げてくださった。
何を言えばいいのか分からなかったが、まずは魔獣退治をやめることを伝えないと。
「シャンベル様、申し訳ありません! もう魔獣退治はやめます」
そう言うと、シャンベル様は頷き、
「ああ、怖い思いをさせてしまってすまなかったな」
とお答えになった。
その時のシャンベル様の顔に、かすかにさっきのフィア様と同じ哀しさを感じた。
それを見て、ふと、村で感じた不安がまた頭に浮かんできた。
「あの、シャンベル様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
ノイが言うと、シャンベル様が頷いてノイの言葉を待つ。
「この街は、この街の日常は、このまま続きますよね?」
シャンベル様なら、大丈夫だ、心配するな、と答えてくれるはずだ。
父さんも母さんも、街の大人たちは皆、シャンベル様に従っていれば大丈夫だと言っている。
今までどんな時も救ってくれたのだからと。
でも、シャンベル様の顔を見て、ノイの不安が正しかったことを悟ってしまった。
「旅に出た君に、取り繕っても無駄だな……。ああ、この街は、このままでは持たない。それで、君にもこんな旅をお願いしたんだ。街では言わないでくれ」
そんな。
ノイの頭に、あの村がよぎった。
日常が失われた、誰もいない村。
このままでは、この街もあの村のようになってしまう。
「僕にも、何かできることはありませんか? この街を守るために、何か!」
声を震わせながら、そう言っていた。
シャンベル様は、少し考えて、
「君に行ってもらった街との交易は、この街に必要な物を手に入れるためのものだ。交易商人として、また旅に出てもらえないだろうか。魔獣退治ほどではないが、君も分かった通り、危険な旅だ。もちろん、無理にとは言わない」
とおっしゃった。
ノイは、もう旅はやめて、あの日常に戻りたかった。
でも、あの日常は、当たり前のものではないことを知ってしまった。
今度は日常から離れるためではなく、日常を守るために、旅を続けることにした。




