思念記録 十一
ノイは、この街が嫌いだった。正確には、この街での日常が嫌いだった。
毎日毎日、畑に出て作業をし、弟や妹、年の近い友達と悪ふざけをして笑い、時々喧嘩して泣き、仲直りしてまた笑う。
母さんに小言を言われ、たまに父さんに怒鳴りつけられる。
父さんと母さんと、ルッツとミナと一緒に、母さんの作ったご飯を食べる。
一瞬一瞬は楽しいと思える時もあったけれど、それだけだった。
この先、この毎日を繰り返していても、同じことの繰り返しだ。
父さんと母さんを見ていたら、それが分かる。
ずっとこの街で、畑を耕し、家族や友達とくだらないことを話して笑い合う。
それだけの人生だ。
騎士様のように、外に出て、他の街へ冒険に行ったりすることはない。
ノイと年の近い騎士様のフィア様とフィル様が、家の前を通って外に出かけていくのを何度も見かけた。
ノイの所々破けた服とは違うきれいな服を着て、ピカピカな剣を下げて、いつも堂々と出かけていく。
昔、父さんと母さんに話した時は、馬鹿なことを言うな、騎士様とは違うんだ。普通の日々が一番幸せなんだ、と叱られた。
父さんも母さんも何も分かっていない。
ずっとずっと、そんな日常だった。
最近は、腹は前よりも空くようになったのに、耕す畑は狭くなり、毎日の母さんのご飯の量が減り、味も薄くなった。
でも、変わったのはそれくらいだ。弟や妹とふざけて、父さんと母さんに時々叱られる。他は何も変わらない日常だった。
そんな時、魔獣退治の話を聞いた。
騎士様じゃなくても、志願して選ばれれば誰でも魔獣退治の旅に出かけられるらしい。
冒険に出かけられて、しかも、成功すれば貴族の一員になれる。
ノイにとって、これほど待ち望んでいた話はなかった。
父さんと母さんに黙って志願した。
魔獣退治の募集は、何度か打ち切られては、再開されるのを繰り返していた。
ノイは再開されるたびに志願したが、選ばれたという報告はなかなか来なかった。
しかしある日、ついに選ばれたと連絡が来た。
こうなったら、もう父さんと母さんに黙っているわけにはいかない。
ノイが魔獣退治に志願して、選ばれたと話をしたら、予想通りこっぴどく怒られた。
貴族になんてなる必要はない。どれだけ危ないか分かっているのか。普通の日常が幸せなんだ。
どれもこれも、予想通り。同じことを繰り返して生きてきた二人の言うことは、いつも同じだ。
ノイは、いくら騎士や冒険への憧れを口にしても、同じことを言われるだけなのは分かっていた。
そして、父さんと母さんが一番喜びそうなことも分かっていた。
だから、それを口にした。
「父さんと母さんと、ルッツとミナに腹いっぱい飯を食わせてやりたいんだ」
そう言ったら、二人とも喜んで送り出してくれると思っていた。
でも、言った瞬間、母さんが泣き崩れた。
泣きながらノイのことを抱きしめ、ごめんね、ごめんねと何度も繰り返した。
母さんに抱かれたのなんて何年ぶりだろう。大きく感じていた母さんが、こんなに小さかったことに初めて気づいた。
その後ろで、父さんも黙って泣いていた。怖くて、強かった父さんが泣いたのなんて、これまで一度も見たことがなかった。
それ以上、二人はノイのことを止めなかった。
シャンベル様の館では、フィア様が旅の説明をしてくれた。
遠くから眺めるだけだったフィア様が、目の前にいた。
輝くような紅葉色の髪、髪に近い色が少し混ざった、宝石のような瞳。
真剣で、どんな魔獣も射すくめてしまいそうな眼差し。
難しいことをスラスラと話す言葉遣い。
動きやすそうだが、汚れ一つないきれいな服。
ノイがずっと眺めて憧れていた、騎士様そのものだった。
話が難しくて分からなかった時も、フィア様に見惚れてちゃんと聞いていなかった時も、ノイが聞き返す度に何度も丁寧に説明してくれた。
魔獣退治のためには薬が必要で、薬を手に入れるためには交易が必要で、交易のためには安全に隣街へ行く道を見つける必要がある。
隣街への道は、シャンベルの街を出て真っ直ぐ進む道が近いが、そこは危険で通れない。
街を出てすぐ曲がり、村を通って川に差し掛かっても、そこの橋は渡れない。
川に着いた後、川に近づきすぎないように川沿いに下り、下った先で川を渡る。
複雑だったが、何とかノイは頭に入れ、旅に出た。
街を出ると、これまで感じたことのない、ワクワクする気持ちが胸を満たしていた。
これがノイがずっとやりたかった冒険だ。
狩場で魔獣を狩ると、その気持ちはさらに高まった。
いつもの日常とは全然違う、今まで経験したことのない、刺激にあふれる旅。
魔獣を狩るたびに、力と自信と充実感がみなぎってくるようだった。
ノイは、何日か狩りを続けて準備を整えた後、隣街へ向けた旅を始めた。
早朝のまだ薄暗い時間に出たが、父さんも母さんもルッツもミナも起きてきて、皆で見送ってくれた。
街を出て、ここ数日通った狩場の方に向かわずに、道を曲がる。
陽が昇ってきて、早朝特有の澄んだ空気を感じなくなったころ、村が見えた。
村に入ると、しんとしていて、何の音も聞こえない。
人の気配も全くしない。
ここの人たちは街に避難したと聞いていたから、誰もいないのは知っていたけれど、家が並んでいるのに人がいないのは、実際に見ると不思議な感覚だった。
村で休んでもいいけど、家を外から壊すような魔獣もいるから、何もいないかよく確認してから休みなさい。
ノイは、フィア様に言われた言葉を思い出し、よく周囲を確認し、何もいないことを確かめた後、村の端にあった家に入った。
魔獣から急いで逃げたわりには、妙に整えられた家だった。
机と、四人分の椅子があった。二つは高く、子供用の椅子のようだ。
ノイは大人用の椅子に座ると、椅子も机も少しがたついていた。
この村の家具職人は、不器用な人しかいなかったのかな。
そんなことを思いながら、干し肉をかじりながら机を眺めていると、いつも母さんが作ってくれるご飯を思い出した。
この机でも、ノイの日常と同じように食事をしていたのだろう。
この村でも、ノイの街と同じように、畑を耕し、ふざけて叱られる、繰り返される日常があったのだろう。
人っ子一人いない村で、静かな机で、干し肉をかじりながらそう考えたとき、ふと思った。
退屈で、何の刺激もない、繰り返される街の日常は、本当にずっと続くのだろうか。
あの日常は、当たり前に続くようなものでも、何もしなくても続くようなものでもなかったのではないだろうか。
その瞬間、胸いっぱいだったはずのワクワクが急に消えて、不安とさみしさがこみ上げてきた。
あんなに退屈で、嫌いだった日常が、不思議と恋しくなってきた。
ズン、と遠くから足音が聞こえた。
ノイは、ふと我に返り、急いで家を出た。




