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岩鳴岳の鬼神  作者: 山田猿彦
第二話 神の勅命 
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第二話 ④

 時刻は夕刻を過ぎている。大学の講義後でそれなりの疲労感はあったが、岩鳴の勅命である以上、早期に妖魔の元へ赴くしかない。凪翔としても人に害をなす怪異を見過ごすことはしたくなかった。燈源とて同じである。


 今から件のマンションへと向かう。都心部まで着く頃には夜中になっているだろう。

 凪翔は燈源と共に、神社を後にした。


・

・

・


 エーデルマンションの最寄り「東長崎駅」に到着する頃には、空はすっかり常闇に覆われていた。閑静な住宅街で、既に仕事帰りのサラリーマンも疎らになっていた。


 グーグルマップを頼りに住宅街を進むと、そこに比較的新しい分譲マンション「エーデルマンション」が現れた。全体的に黒を基調とした落ち着きのあるデザインで、怪異がのさばるような不吉な気配は感じられない。意を決して重厚なガラス戸を引くと、ガタンと施錠された音が鳴った。


 迂闊だった。オートロックの対策を考えていなかった。他の住人が通るのを待つかとも考えたが、時刻は間もなく0時を超えようとしている。頻繁な人の出入りは期待できない。こんな時間、あまり長時間この場にいては、誰かに不審がられて最悪通報されてしまう。


「今時の家はみんな鍵かけんのな。俺が生まれた時代じゃあ家なんて戸板一枚だけだったがなあ」


 さてどうしたものかと凪翔が考えあぐねていると、燈源が屈んで背中を向けて来た。


「乗れよ。7階だろ?こんな時間だし誰にも見られねえだろうよ」


「うーん、確かに止むを得ないな。頼む」


 こうなっては致し方ない。背負ってもらう他ないだろう。周囲に他人の目がないことをしっかり確認して、燈源の背中に乗った。


「見られるのが嫌なんだろ?なら一瞬で登ってやるから、歯ぁ喰いしばりな」


 そう言ってから1秒の間もなく、燈源が脅威の跳躍力を見せた。


「あがっ!」


 瞬間、凪翔の頸部に強烈な重圧が圧し掛かった。一瞬で頭が後方に反り返り、視界が比喩ではなく本当に真っ白になったのだ。白銀となった焦点の中心に、何かがパチパチ弾け飛んだように見える。これは人体の構造所、致命傷になりかねない瞬発運動である。


 コンマ数秒後には七階の外廊下に到着していた。


「あ、あが、あががが」


「あ、やべ。すまねえ凪」


 しかし凪翔は気を失っていた。帷勾玉が無くては呼吸不随になっていたかも知れない。


・

・

・


 マンションの自室で、富浦早紀は小刻みに震えてうずくまっていた。恐怖で視界の先がぼんやりと滲んでくる。あまりの恐ろしさに嗚咽を繰り返し、目元は腫れ上がっていた。もうどれくらいこうしているだろう。


 ここは自宅のはずなのに異様に暗い。そして明らかに空気が冷たい。


 助けを呼ぶこともできない。スマホは何故か圏外になっていた。何より、今キッチンにいる「そいつ」を下手に刺激したくない。そいつを怒らせたら、自分の生命が危ぶまれると早紀の本能が認識していた。


「早紀ちゃん、お腹空いたでしょ」


 キッチンにいるそいつが不気味な声で話しかけてきた。丸々と脂肪が詰まった顔面、首の皮膚もぶよぶよに垂れ下がり首筋が波打っている。黄ばんだ白いTシャツは大きく張り出た腹部に引っ張られ、ぴちぴちにはち切れそうになっている。シャツの裾から覗く腹の皮膚は汚らしく黒ずんでいた。ぶくぶくと太った体躯とは裏腹に四肢はやたら細く、その全身は顔面も含めヒキガエルを思わせた。


 気色の悪い、高いか低いかよく分からぬ声。粘り気のある気味の悪い喋り方。ヒキガエルが大皿に何かを乗せ、早紀の元へ歩み寄ってきた。不気味な黒点の双眸がじっと早紀を見つめる。


「ほおら、たくさん食べてね。嬉しい?」


「うっ・・・」


 大皿の上を見て戦慄が走った。そこには無数の虫の死骸が山盛りになっていた。


 火を通したのか焦げた臭いが鼻をつく。大小様々なバッタ、ムカデ、ハチ、更にはゴキブリらしきものまで視認できた。


 早紀が言葉を失っていると、ヒキガエルが唐突に怒声を上げた。


「食べろよ!」


「ひいっ・・・!」


「あっ、ごめんね。怖がらせるつもりはなかったんだ。早紀ちゃんのために作ったんだ。いつもよく頑張ってるからさ、心配で。ねえ・・・早紀」


 怒号を上げ、直後に先程までの柔和な態度に戻ったかと思えば、不意に名前を呼び捨てにされる。一段と怖気が走った。


「何とか言えよ、早紀!」


 そう思っているとまたも怒鳴りだす。早紀の身体がびくっと縮こまった。不気味で柔和な態度と突発的な怒号を繰り返す、狂気に満ちた巨漢である。


 恐怖と気持ち悪さが一体となったこの男はライブ配信中に玄関から入り込み、早紀を監禁した。部屋中が唐突に暗闇に包み込まれ、閉塞的な重圧のある冷たい空気へと変わった。早紀は本能的に異世界に閉じ込められたと直感した。男の見た目のおぞましさからしてただの人間ではないことは分かる。それ故に恐ろしく、抵抗が出来ない。


 最初は玄関や窓から逃げ出そうと試みたが、いずれの出口も地中深くに埋められたかのように完全に固定され、びくとも動かなかった。大声で助けを求め何度玄関扉を叩いても、どういうわけか一切音が響かず、まるでコンクリートを拳で叩いたような弱々しい音が虚しく流れるだけであった。


 大して広くない一室である。玄関から逃げようと抗えばすぐに追い付かれ、背後から抱合され、捕まった。じたばたと激しく抵抗するもこの巨漢は物ともせず、容易にリビングへと引き戻された。抱き着かれた時の皮膚の感触、生ぬるく湿った体温とへばり付くような気持ちの悪い柔らかさが早紀を総毛立たせた。


 そして、丸々とした大きな顔面を早紀の至近距離に近付け「逃げるなら、一緒に死ぬよ?」と言い放った。生臭い口臭が早紀の鼻腔に直接入り込む。


 抵抗すれば殺されると悟った早紀は、今もこうして恐怖にうずくまる他なかったのだ。既に涙は枯れ果てていた。


「―――ああ、そっか。早紀ちゃんダイエット中かな?ははっ!ぼくのために体重なんて気にしているのかい?」


 言っている意味がまるで分からない。完全に狂っている。

 男は早紀の全身を舐め回すように見つめると、更なる狂気の発言を続けた。


「大丈夫、早紀ちゃんはとっても綺麗だよ。それにね、早紀はずっとぼくが愛し続けるんだ。どうなっても、なにがあってもね。だから安心して・・・ずっと一緒だよ」


 次の瞬間、男は手に持った大皿を放り投げ、早紀を勢いよく押し倒した。早紀の胴体に脂の乗った男の腹が重なる。リビングに焦げ付いた虫の死骸が散らかった。


「いやあああ!」


 本能から絶叫した。四肢をばたつかせ抵抗するも、男の圧倒的な腕力が早紀の両腕を押し付け、完全に固定されてしまった。


 ひい、ひい、と恐怖に満ちた早紀の短い呼吸音が暗い一室に虚しく散る。


「これからはぼくが早紀を愛し続ける。ぼくが、ぼくだけが、早紀の理解者なんだ」


 男のぬめぬめとした巨大な顔面が、ゆっくりと早紀の口元に近付いた。


「これから早紀は―――」


 早紀の眼前で男は唇をにんまりと歪ませ気色の悪い笑みをこぼした。露出した歯列は不揃いな土色、歯茎は完全に黒ずんでいる。


 男の生臭い呼気が早紀の顔面を包み込んだ。


「―――永遠にぼくのものだ」


 汚い唇が早紀の口元に重なろうとした。


「い、い、いや、やだ――」


 早紀が完全に絶望へ陥ったその瞬間。


 鋭い閃光が差し込み、白い光が辺りを照らした。


「・・・!?」


 白い光はキッチンの方向から差してくるようだ。


 眩しさに目を細め、その光の中に一人の若い男が立っていると視認できた直後、早紀の上に覆い被さった重量級の巨漢が「ぐえっ」と短い絶叫を上げ、まるで風に吹かれた枯葉のように翻り早紀の上体から消え去った。


 何が起きたか分かないまま自由になった身体を起こすと、男は壁に打ち付けられたようでそこに横たわっていた。その顔はわなわなと「何もない」空間に対して目を見開き、恐怖に震えていた。


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