第二話 ⑤
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702号室は一見、他のどの部屋とも変わった様子はなく、異様な空気感も雰囲気も感じられなかった。そこに怪異があるなら、異質な空気の重みがあるものだ。燈源は訝しげに言った。
「本当にここで合ってるのか?」
「ここだ。確かに視えた」
しかし怪異の本体は確かにこの部屋にいると凪翔には分かっていた。
702号室の玄関は未施錠であった。中に入りスイッチを入れると廊下からダイニングまでが照らし出された。仕切りの室内扉は開け放たれており、部屋の中は全てが整頓されていた。
部屋の中はどこもゴミや埃がひとつも落ちていない。テレビが一台と、その前に長方形のローテーブル、床に置かれた白地の座椅子も、すべてが整然と置いてあった。ダイニング内にあるキッチンはシンクに水垢のひとつもなく、鏡面のように綺麗だった。
掃除が行き届いたきれいな部屋、というよりはむしろ使用感が感じられない。生活感がないというか、人がいた痕跡がない。家具だけが規則的に置かれた、体温のない無機質な一室という印象である。
やはり、あの踏切の怪異と同じだ。現実世界と酷似したまやかしを映し出し、本体はその中に作り出した結界の中にある。怪異はここにいるが、この空間にはいない。
この場合、怪異の結界に入り込む手段はひとつである。そこに「日の光」を差し込むのだ。
怪異が作り出す空間は、日の当たらない闇の性質を持っている。妖が闊歩するのは真夜中であるように、夜は魔の刻である。その夜と同質の空間を作り出すのが、怪異の結界なのだ。
結界が常に「夜」そのものなのだから、日の光を当てることで強制的に夜の空間に部分的な「昼間」を作り出すのである。
「―――燈源、ここだ。開けるぞ」
「うい。まあ何だか女も化け物もよく分からねえが、さっさと片付けちまおうか」
そう言って面倒臭そうに振舞うが、燈源も早く怪異をねじ伏せてやりたいと勇んでいることだろう。
凪翔は首に提げた黒曜石、帷勾玉を襟元から引っ張り出し、左手に乗せて唱えた。
「―――白火」
岩鳴の依代から、幾億年と岩鳴岳に沁み込んだ太陽光を部分的に開放する。放たれる白い炎光は、火山が長い間吸い込んだ太陽の光そのものである。
それを唱えると目の前の空間に白い火が灯され、そこから紙が燃え広がるように異空間が露出した。結界の入口が開かれたのだ。帷勾玉を中心に異空間への穴が燃えるように広がり、その先は同じ部屋だが不自然に暗くなっている。
見ると、その中でピンク色のショートボブを乱した女がぶよぶよとした体躯の何かに押し倒されているではないか。怪異だ。
「野郎!」
先に動いたのは燈源だった。
筋骨隆々の巨体を翻し、真っ先にさきたんの上で腹ばいになっている巨漢の脾腹を鋭く蹴り上げた。
「ぐえっ!」
丸々と太った怪異は苦悶の声を上げ、軽々と蹴り飛ばされた先の壁に打ち付けられた。
横たわる怪異に冷たく視線を下ろし、燈源が鬼の凄みを効かせた。
「お前、今何をしようとしていた。言ってみろ、この野郎」
燈源の睨みに怪異はわなわなと恐怖し、目を見開いて小刻みに震えていた。
凪翔とて、今まさに怒りに満ちている。人を理不尽に監禁し、己の欲望のままに蹂躙せんとする身勝手な怪異。決して許せるものではない。
「お、お前らになにがわかる!ぼくは早紀ちゃんのために、早紀ちゃんを幸せにするために生まれてきたんだ!早紀ちゃんを幸せにできるのは、ぼくだけなんだ!これはぼくと早紀の運命だ!じゃ、邪魔するな!」
「ほおう、なるほどな。さっぱり分からん」
巨漢が必死に絞り出した狂言は、怒りに満ちた鬼の前で儚く散って消えるばかりだ。
「さきたん・・・さん、そこを離れて、私の後ろにいて下さい」
「あ、は、はい・・・!」
凪翔は不自然に敬称を付けつつ、さきたんを背後に誘導した。茫然としていた早紀ははっと我に返り、助けに来たのであろう青年の背後に身を隠した。
巨漢は変わらず狂言を叫び続けていたが、最早燈源の耳にも凪翔の耳にも入ってこなかった。
「行くぞ、凪!私欲にまみれた独占欲の塊、骨の髄まで焼き尽くしてくれる」
「マンションは壊すなよ。―――岩鳴の御山に神留まる岩鳴禍津日の大神。畏み畏み申す。此の者に岩鳴岳の荒魂を注ぎ込み給え。穢れし禍事の悉くを祓い給え―――」
唐突に呪文のようなものを唱え始めた青年の背中を、早紀はじっと見つめていた。
「―――浄炎」
浄炎の奏上により、燈源は青い炎を身に纏い、鬼神へと変貌した。黄金の鬣と血液色の肌、真っ赤な双眸、そして更に肥大した骨格筋。地響きまでも轟く咆哮と共に、その左胸に彫られた巴紋が融点に達した鉄のように赤黒く光り、脈打つように蠢いた。
巨漢は恐怖で顔面が蒼白になっていた。しかし恐怖しながらも、臨戦態勢に入っているようだった。
どうやら巨漢もパワー派のようだ。リビングに置いてあったローテーブルを片手で持ち上げ、それを勢いよく燈源の頭蓋に振り下ろした。
テーブルは一瞬にして木っ端微塵に砕けた。その衝撃は間違いなく、燈源の脳天に向かって確実に打ち込まれたはずだった。
「へっ」
「・・・ッ!?」
しかし鬼神には痛みにすらならぬ程度のものである。
巨漢は焦燥に満ちた顔で、更にテレビ、ソファー、目につく物すべてを打撃に使い、振り回し、投げつけ対抗したが、鬼神の前で意味成す攻撃など何も無かった。
悠々と間を詰めた鬼神は右手で巨漢の顔面を鷲掴みにし、軽々と持ち上げた。
「鬼のままなぶり続けてやってもいいが、それだとお前は永遠に消滅できない。神の力で、お前を一瞬で消し去ってやる。感謝しろ」
「ひ、ひいい、やめろ、放せ・・・!」
燈源の大きな掌から覗く巨漢の顔が、みるみると恐怖に満ちているのが分かった。
燈源は右手の握力に更なる力を込め、巨漢の頭蓋骨に四方から途轍もない圧力をかけた。
巨漢が苦しみ悶え絶叫した。
次の瞬間、燈源の右手が目にも止まらぬ速さで円を描くようにフルスイングした。同時に巨漢の全身が鞭のようにぐるりとしなり、強烈な勢いで地面に叩きつけられた。何かが破裂するような衝撃音が響き渡る。鬼神の剛腕はあの巨体を、振り下ろすように軽々と叩きつけたのだ。
「がはっ」
巨漢は背中から叩きつけられ、四肢ががくがくと痙攣していた。
もう一発。
燈源は何も言わず、目が見開かれた顔面をもう一度鷲掴みにした。そしてまた鞭を振り下ろすように、再度巨漢の体躯を叩きつけた。
破壊的な衝撃音が、立て続けにもう一発響き渡る。
二度目に地面に転がった時には、巨漢は既に微動だにしなくなっていた。




