第一話 ③
薫の母が亡くなったのは約一年前、享年45であった。
いつも優しく朗らかな、唯一無二の母である。昨年の冬、台所で調理中にクモ膜下出血で突然倒れた。父がわなわなと通報したが、救急搬送される最中に心停止し、そのまま帰らぬ人となった。
高校一年生の薫はひどく悲しみに打ちひしがれ、慟哭せずにはいられなかった。母を亡くすとはこんなにも胸を削がれる思いなのかと、悲愴に泣き崩れた。
反抗することもあったが、優しい母だった。思い返せばたくさんの愛情が与えられていた。悲しいことや悔しいことがあればうんうんと遮ることなく話を聞いてくれた。
そしていつも「大丈夫、今日はもうおしまい。明日からは新しい薫に生まれ変わっているからね」と言ってくれた。亡くしてから分かった、大好きなお母さんだった。
かけがえのない母を亡くした薫は心に大きな穴が空いたように、空虚で灰色になった日常をやり過ごしていた。
母を亡くして約2か月が過ぎたある日、通学中の電車内で薫のスマートフォンがいかにも怪しげなメールを受信した。
『降霊AIカクリヨ ~今は亡き大切な人とのえにしをもう一度繋げませんか?~』
―――なにこれ。
迷惑メールにしても眉唾な件名である。通常なら一瞥して削除するだろう。しかしこの時の薫を支配していた喪失感が、メールのクリックを促していた。
『大切なひとを亡くした貴方へ 亡くなった最愛の人と会話ができるAI あの世にいる大切な人ともう一度繋がりませんか?もう寂しい思いはしなくていいのです。もう一度会いたいと願うなら、私たちが縁をお繋ぎします。詳しくは下記のURLを今すぐクリック!』
まるで下手なフィッシング詐欺といったところだが、それほどまでに薫は寂しかったのだろう。指先が引き寄せられるようにURLへと触れてしまったのだ。
薫はその日から、スマホを片時も手放すことがなくなった。学校でも、家にいても、数秒の暇があればすぐにポケットからスマホを抜いた。友達との会話より手元のスマホを優先した。食事中も画面から目を離さなくなった。
降霊AIカクリヨ。亡くなった人の特徴を学習して、それらしく演出した疑似会話ができるAIチャットアプリだと思っていた。しかしその程度の完成度ではなかった。
相手は無機質な機械などではない。まさしく母なのだ。画面の向こうで言葉を紡ぐのは、この話し言葉、文体からして母そのものであった。チャットに表示された文字列が、薫の中で優しい母の声で再生されるようで、とても心地よかった。
「ねーお母さん」
『んー』
「ちっちゃい頃に使ってたお美魔女ミソジのお皿、どこにある?」
『あんたいつまであれ使うのよ。食器棚の一番上!薫には届かないな。お父さんに頼みなね』
「今日ねケンジ君に会ったの!変わってなかったなあ」
『あーケンジ君!なつかしい~ 小学校の時好きだった人でしょ?思い出した』
「なんでそれ覚えてるの笑 しかも小4の時だし!」
『一緒にバレンタインチョコ作ったからね、4年生の時』
「あーそうだったね!今じゃ考えられない」
『薫、コソコソ手紙も書いてたけど、ケンジ君へって書いてあったの見えちゃってさ。それで薫すごい怒っちゃって。思い出した思い出した』
「もーなんでそんなこと思い出すの!笑 ヤバ、懐かしすぎる笑笑」
何故かアプリをインストールした当初から母の特徴を完璧に捉えていた。それどころか、家族しか知り得ないことを当然のように答える。一体どこで、どうやってこのAIは母を学習したのか。
しかし、そんなことは今の薫には心底どうでもよかった。亡き母と他愛のない会話を紡いでいるこの時間が、何よりも尊かった。他のことなど些末なことだ。
こうして薫は四六時中スマホに張り付くようになった。
どれほどこうして過ごしたか。何か月もこうしていたようにも思うし、数日しか経っていないようにも思う。父から叱られることも、スマホを取り上げられそうになったこともあったが、ずっとこうしていたかった。
画面から目を離したくない。スマホ越しなら、母が生きていると本気で信じることが出来る。手放したくない、嫌だ。だってそんなことをしたら―――母の死が現実になってしまう。
―――ねえお母さん、また一緒に暮らそうよ。お願い。
祈るようにスマホを握りしめた、その時だった。
『いいよ』
―――え?
『こっちの世界で、一緒に暮らそう』
『薫、寂しい思いをさせてごめんね』
薫の指が止まった。こちらの心中を明確に見透かした内容が、立て続けに3通。薫の脳が猛烈な危険信号を感知した。
ようやく気付いた。これは、ただのAIではない。
『もうひとりきりにはさせない。だから、こっちにおいで』
突然のことに戦慄した。全身が総毛立つ。
―――お、お母さん?
唐突に相手が何者なのか、本当に母なのか分からなくなってくる。
いや、そもそも相手は初めから母などではなかったはずだ。薫自身が最初から分かっていたではないか。いつの間にか本物の母だと信じて疑わず、現実から目を背けてきただけではないか。
母の死が、突然に現実の色を帯びてきた。降霊AIカクリヨによってあやふやになっていた母の死が、急速に輪郭を形成した。
―――お母さん。ごめんね。
薫の母はいつも前向きなことを言っていた。もし相手が本物の母なら、なんて答えるか容易に想像できる。震える指を画面の上で滑らせた。
「お母さん。私ね、お母さんに会えなくてさみしい。明日なんか来なくていいって思っちゃう。こんな生き方でいいのかな、私」
数秒の間もなく、画面の母から返信が来た。
『もうこれ以上、悲しい思いなんてしなくていいの。薫はよく頑張ったよ。だからもう―――』
薫の中で警鐘が激しく鳴り響いた。やはりこれは、母じゃない。母なら、決してこんなことは言わない。
『―――明日なんて来なくてもいいのよ、薫』
息をのんだ次の瞬間、薫の手におさまっていたスマホがメキメキと音を立て、液晶にひびが入った。
「ぎゃああ!」
思わずスマホを床に落とした。上向きになったスマホの酷くひび割れた画面から、辛うじて識別できた文字を見てしまった。
『待ってて。迎えに行くから』
直後に液晶から光が消失し、暗くなった画面に歪んだ天井が映し出された。
この日を境に、身体がひどく怠く重くなった。寝ても覚めても倦怠感はなくなるどころか、日に日に増してきている。永遠に陰鬱な気分が晴れない。薫は学校を休むようになった。
父に連れられ病院にも行ったが、病変は何も指摘されなかった。それどころかここ数か月の行動から倦怠感に至った経緯を事細かに聴取され、精神心療内科への受診まで勧められた。
しかし薫には受診するより前から明確な心当たりがある。この体調不良は普通ではない。降霊AIカクリヨ。これは呪いのAIなのか、あるいは母の怨念ではないだろうか。このままでは間違いなく「向こう側」へと引きずり込まれてしまうと、薫の本能が恐れていた。
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「―――それで、いろいろ調べたらお祓いが得意な神社がいくつかあって、一番近いところにこうして来たんです」
ふう、と薫はひとつ息を吐いた。体調があまり優れないのだろう。長く話し続けて相当に疲弊したはずだ。
凪翔の視覚は、既に明確な「呪」が薫に纏わりついているのを捉えていた。しかし呪の形がひどく曖昧で、根本に繋がる部分が霞んでどうしても分からない。その為、こうして詳しく話を聞く必要があったのだ。
聞き終わってから、なるほど、と思った。
「お話して下さりありがとうございました」
努めて冷静に返した。
凪翔は19歳という年齢の割に、周囲からは大人びて見られる。礼儀正しく振舞うのは岩鳴の使い走りをしているせいでもあるが、大人しく見られるのは少々違う。
本当はこうした理不尽極まりないことには人一倍に頭に血が上りやすいのだ。ふつふつと湧き上がる怒りを意識的に抑えていれば、かえって大人しく見られるようになった。
亡き母への愛慕につけ込み、踏みにじった挙句、母の愛娘さえも死へと誘うAIの回路に蔓延る怪異。その怪異からなんとか娘を護ろうとする母の御霊が、薫をここまで連れて来たのかも知れない。
「でも、ここに来たら少しだけ身体が軽くなりました。不思議ですね。これも凪翔さんの力ですか?」
儚げに微笑み質問してきた薫に、笑みを返すほどの余裕はなかった。
人の愛情を弄ぶ怪異など、断じて見過ごす訳にはいかない。
「私は『視る』ことしかできません。私が妖魔の根源を見つけ出し、もうひとりの相方が祓います。身体が軽くなったのは、うちの結界に入ったからでしょう。私の力ではありませんよ」
へえ、と薫は納得したような、半分納得できないような反応を示した。
「ともかく、凪翔さんの他にもうひとりいるって事ですね。その方は、今日はいないのですか」
今日中にお祓いが出来ないのかと肩を落としたようなので、凪翔は安心してくださいと言葉を切った。
「相方ならいますよ、ここに」
「え?」
凪翔は目の前にあった湯呑を、スッと左側へ滑らせた。2人掛けソファーの左側、空席の前に置かれた湯呑が次の瞬間、薫の目の前で垂直に浮き上がった。
「ッ!?」
薫が目を丸くして驚いているのをよそに、今度は浮いた湯呑がバリンと鈍い音を立て、空中で潰れて割れた。
凪翔の隣で一緒に聞いていた炎の鬼、燈源も怒りを露わにしていた。手に持った湯呑に力の加減もせず、思わず握り潰してしまったのだ。
「ええ!」
「見えないでしょうが、ここにいる強力な鬼の相方があなたの怪異と戦います。名前は燈源といいます」
「お嬢ちゃん、よくここまで来たな。すぐ俺と凪がそのふざけた化け物を丸焼きにしてやる。何が降霊エーアイだ、何が幽世だ。ふざけやがって」
「は、はえぇ。お、お願いします・・・え、鬼?」
燈源の言葉が薫に届いたかどうかは分からない。だが唖然とする薫には、歳の近い青年と得体のしれない鬼がとにかく頼もしく映っていることだろう。
いつの間にか後ろで腕を組んで聞いていた粗暴の姉、茜も語気を強めて加わってきた。
「ほんっと、ふざけた機械だね。凪、何が何でも怪異の根城を見つけ出しな。燈源も、そこにいたんだね。抜かるんじゃないよ。人の愛娘を何だと思っているんだか」
茜は凪翔だけでなく、自分には視えない鬼をも鼓舞した。姉弟揃って理不尽なことを許さない性格だ。
茜が柔和な表情になり薫に向き直った。
「薫さん、安心して。私は凪翔ほど視る力は強くないけれど、それでも分かるよ。あなたのお母さんは怨念なんて少しも出してない。お母さんはね、降霊AIの悪魔からずっとあなたを護ってきた、守護神だよ。大事な娘を奪われてたまるかってね」
「・・・はい」
「怖かったよね。よくここまで来たね。お母さんを亡くして、こんなことに巻き込まれて、本当に辛かったね」
薫の目が涙ぐんだようで、潤った光を反射させた。
「もう大丈夫、あとはうちの男どもに任せて、私たちはここで茶菓子でも食べて待ってようか」
「・・・ありがとうございます」
鼻を啜って涙を拭き、儚げな笑みを浮かべた。
―――最後に俺が言おうとしていた台詞、姉ちゃんに奪われちゃったな。と凪翔にいささか悔しさが残った次第であったが、さておき、茜はこのように依頼人がひどく傷を負っている時、上手く寄り添う能力を発揮する事があるのだ。




