第四話 ⑥
日付は更に変わって午前6時。紗奈曰く、本日は「壬卯」であるらしい。
陽の水の気が強い日であるからどうのこうのと説明された気がするが、凪翔も燈源も皆目理解できていなかった。何であろうと、ここに間もなく怪異が訪れるというのなら占術の理屈など大して重要なことではあるまい。
それにしても寒い。辺りは仄暗く、太陽の気配はまだ感じられない。その上風が強い。勇んでこの海岸まで訪れたが、このままでは1時間も持たないかも知れない。
凪翔は終始小刻みに震えており、四肢の抹消は早くも感覚が鈍り始めていた。
「うう・・・燈源の鬼技で俺の胴体を暖めてくれないか。これは寒すぎる」
「馬鹿言え、危なすぎる。熱は微調整が難しいんだ。下手すりゃ人の身体なんて一瞬で燃えちまう」
分かってはいるが、寒さとは人の判断力も大幅に鈍化させるものだ。秒速7メートルの強風が氷点下の空気を纏い、凪翔の身に衝突させる。体温を容赦なく奪われれば、熱気に縋りたくもなる。
凪翔と燈源の視線の先には、波濤が被さる巨大な消波ブロック、その張り出した一角に悠然と立つ紗奈がいる。
「しかしまあ、恐ろしい女だな」
紗奈は強風に吹きさらされながらもショートヘアを優雅になびかせ、至って落ち着いた様子で凍闇の空を見上げていた。
不意に風が止んで辺りがしんと静まり返ったその時である。凪翔の目は、海面からぽつんと突き立つ人影を捉えた。
「・・・来たか」
凪翔に緊張が走った。その人影は黒色の海面から上半身だけをさらけ出し、波に揺られることなく暗闇に静止している。明らかに不自然なほど、波の上下運動を感じさせない。
よく見るとそれらは1人ではない。いつの間にか4人、5人と増え、やがて10人近くの人影が現れた。いずれの人影も、消波ブロック上に立つ紗奈をじっと見据えているようである。
凪翔は襟口からそっと帷勾玉を取り出し、右手に構えた。
「あれが今も行方不明になっている人たちよ。完全に全身を食われて、この世に帰れなくなって、また次の誰かを引き摺り込む」
この紗奈の声は凪翔達の背後から発せられたものである。
「言った通り、スピード勝負でお願いね。まずは彼らを浄化の力で開放してあげないと」
燈源は海面から目を離さず、肩越しに背後の紗奈に応えた。
「自分の分身を餌に使うなんざ、まったく恐ろしい女だな」
言いながら首を左右に傾け、左右の拳を交互に包み、ゴキゴキと関節を鳴らした。
「他に何か良い方法ある?誰かが誘き寄せないと、通りがかりの一般人が餌になるかも知れないよ」
こちらにいる紗奈はあちらのエレガンスな紗奈と違い、アウトドア用のダウンジャケットとダウンパンツを着込んでいる。シルエットはまるで某海外タイヤメーカーの白いキャラクターそのものであった。ぼさぼさの髪を無理やり後頭部に束ねた”ずぼらな方の”紗奈だ。
無音の闇が陸地にいる3人を包み込んだ。風が止んだのに、空気が一層冷え込む。
刹那、海上から身長を超える巨大な波濤が立ち、膨大な水量が紗奈を頭から呑み込んだ。
紗奈へ襲い掛かった大波は大量の海水を叩きつけ、即座に引き波となった。暗闇に現れた消波ブロック上にはもう紗奈の姿は無かった。
それを見ていた本体の紗奈が即座に指で印を切る。
すると海面が俄かに盛り上がり、ザパァンと激しい波濤の轟音と共に、なんと水面が左右に裂け始めた。
紗奈が更に両手に力を込めると裂けた海面がゴゴゴと更に拡大し、やがて海底が露わになった。「モーセの奇跡」を彷彿とさせる現象である。
「す、すげえ・・・」
凪翔も燈源も目の前に広がる超常現象に呆気に取られた。
「私の式から土の力を開放した!これでしばらく水は堰き止められるけど、長くは持たないよ!」
土克水。土は水を堰き止め、流れを変えることが出来る。このことから「土」のエネルギーは「水」のエネルギーを制御するとされる五行相克のひとつである。これを応用した紗奈の技が繰り出された。
技の仕込みは案外原始的なもので、紗奈は日中、自らの分身に大量の「土」を食わせていたのだ。その様子は文字通り、手に取った土を口に運び、頬張り、咀嚼し、ひたすら飲み込む様である。式の紗奈は平然と大量の土を食していたが、これには凪翔も燈源もさすがに引いた。
その甲斐あって、怪異に自ら呑み込まれた紗奈の分身はその内側から土の属性を全面的に開放し、今まさに大量の海水を堰き止めている。今はこんなことを考える場合ではないが、果たしてこれが本当に陰陽師の戦い方なのだろうか。
しかし海の怪異も強大である。土克水といえども、強い水流はやがて土のエネルギーを削ぎ落し、元の流れを取り戻す。大量の海水を、まして荒ぶる真冬の日本海を堰き止めるなど長くは持たない。
「凪!乗れ!」
すなわちこの戦いは一刻の猶予も許されない。燈源の声と同時に凪翔は燈源の左肩に飛び乗った。間髪を入れず助走をつけた鬼の脚力が地面を蹴り、一瞬で柵を超え、消波ブロックを飛び越え、二人は露出した海底へと飛び込んでいった。
「岩鳴の御山に神留まる岩鳴禍津日の大神。畏み畏み申す。此の者に岩鳴岳の荒魂を注ぎ込み給え。穢れし禍事の悉くを祓い給え―――」
空中に浮いたまま、凪翔が秒速で祝詞を奏上する。
ドゴォンと海底に着地すると同時に、凪翔は肩から飛び降りそれを唱えた。
「―――浄炎」
同時に鬼神の躯体と帷勾玉が青い炎に包まれる。
途端に燈源は鬼神へと変貌した。黄金の鬣、緋色の双眸、禍々しい血液色の皮膚、そして更に肥大した骨格筋。左胸に彫られた巴紋の刺青が赤黒く発光した。
どこまでも響き渡る鬼神の咆哮が海底から轟いた。
紗奈によって開かれた海水、地面となった海底。ここに降り立った鬼神は、分が悪い水中ではなく陸上戦を繰り広げることが出来る。
岩鳴神社の退魔師は、ここにきてようやく新潟・糸魚川の怪異と対峙した。
人を呑み込み、これを繰り返す連鎖的怪異。祓戸神盟の要請により、あるいは凪翔達の正義心により、何としても今ここで断ち切る。
鬼神と凪翔を取り囲むように、先程まで海面上に姿をさらしていた10体もの人影がじりじりと寄って来る。空気中でも活動できるようだ。近くで見るとそれは人影ではなく、れっきとした人間であった。
皆一様に無言、無表情でこちらを見ている。男も女も、老人も若人もいる。そこにいる全員が感情のない表情で、吐息ひとつ上げずこちらにゆっくりと寄ってくるのだ。
彼らは皆、波の花に身体を食われた者たちである。
「全員、今すぐ呪縛から開放してやる。常世の国でゆっくり休め」
波の花に憑りつかれた行方不明者たちに語り掛けると、鬼神は目にも止まらぬ速さで縦横無尽に駆け回り、浄炎を纏った拳を一人ひとりに打ち込んでいった。
一人。二人。三人。燈源の強烈なパンチは確実に打ち込まれ、瞬時にその人たちは白い泡となり輪郭を失っていった。
四人。五人。ここで燈源はようやく違和感に気付いた。不自然なほどに手応えがないのだ。
凪翔は一瞬だけ早く気付いた。
「・・・浄化、していないぞ・・・」
「何だぁ!?こいつら!」
拳を撃ち込まれたそれは、一瞬にして原型とどめぬ姿へ崩れた。打撃をうけた箇所が裂け、内部から白い泡がふわりと吹き出し宙を舞った。
しかし、散り散りになったその泡はまたお互いが引き寄せ合うように密集し、また人型の輪郭を形成した。破壊すれども再生を繰り返している。物理的な打撃が通用しない。浄炎の炎でも燃えない。浄化どころか破壊すらできないのだ。
「ええい、くそったれ!」
燈源が更に速度を上げ、次々に拳をふるい、蹴り、熱を注ぎ込んだ。
しかし、それらは一時的に泡となって散るだけで、際限なく再生を繰り返した。
「駄目だ、全く手応えがねえ。空気を殴ってるみてえだ」
泡は幾度も再生し、集団となって凪翔達との間をゆっくりと詰めてくる。
鬼神が変わらず四方八方へと動き回るが、それらは着実ににじり寄ってきている。
「この人たちは被害者だ。怪異の本体じゃない。最初に人を攫ったのは―――」
「―――『波』か!」
ゆっくり、じわじわと詰め寄られていく。やがて一人が凪翔の眼前、ほんの1メートル先まで寄り付いていた。
「波、つまり、海そのものだ!」
「海そのものったって、どうすりゃいいんだよ!海水をぶっ叩きゃいいのか!?」
「違う!この人たちを、この海で操る『何か』がいるって事だ!それを探したいけど―――」
凪翔の眼前に伸ばされた手が、鼻先一寸まで迫ったその時である。
「―――チュン吉」
一瞬、凪翔の視界に紫色の光がかすめていった。同時に凪翔の目の前に手を伸ばしたそれは一瞬にして白泡となった。
岸側を向くと、消波ブロックに隔てられた柵の向こうで印を切る紗奈と目が合った。彼女が出した紫雀のお陰でしばし延命した。
術を施しながら紗奈は息を呑みこちらを見ている。なるほどこれでは一人での退魔は困難であろう。紫雀は俊敏性こそ高いが攻撃力に欠ける。紗奈の分身が1人増えたとてどうこうできる相手ではない。
しかし凪翔達にも誤算があった。行方不明者たちの身を清め、浄化する算段であったが、どういう訳か「浄炎」が通用しないのだ。
浄炎の作用は攻撃力の底上げだけではない。触れたものから穢れを祓い、清め、浄化する神徳をもたらす。怪異を鎮める際にはなくてはならぬ、帷勾玉から放たれる岩鳴の神炎である。
どういう訳かこれが彼らには通用しない。
ふと、紗奈の足元の下方、折り重なる消波ブロックの中に淡く光る何かに気が付いた。それは昼間、凪翔が白い光を視た場所である。
周りは意志を失った不死身の行方不明者たちが絶え間なく取り囲み、燈源は息を上げることなく今も目にも止まらぬ速さで駆け回っている。
「燈源!あそこを破壊してくれ!」
「な、それを壊すのか!?」
凪翔が示す先は光が埋まる消波ブロック。本来は破壊が許されぬ、この世の人工物である。
汗一滴もかかない燈源に対し、凪翔はすっかり肩で呼吸をしている。
「もう構うもんか!本体は多分、あそこに、いる!」
凪翔が言い終わるより早く、燈源が電光石火の速度で消波ブロックに突っ込んだ。燈源が纏う浄炎の青い炎が、真っ直ぐな光一線を描く。
ゴオォンと鈍い破壊音が響いた。
「ちょ、ちょっと、何してるの!?」
砕かれた消波ブロックからコンクリートの破片がカタカタと音を立て転がり落ちる。大量の砂埃や瓦礫の粉末が大量に舞い、紗奈の視界を遮断した。
げほっ、げほっ、とむせ返った。
砂埃が薄れ、視界が戻ってくる。崩れたコンクリートの中から出て来たのは、大量の貝が纏わりついた木材の塊であった。
白く弱々しい光は、その中から視えている。先ほどより光がはっきりと白く視えた気がした。
「その中に何かあるはずだ!」
うおりゃあ!と燈源がその場の瓦礫を片っ端からどかせると、土に埋もれるように白くて硬質な何かが顔を出した。光はその実体から放たれており、燈源の顔を白く照らした。
「そろそろ・・・限界かも・・・」
紗奈の息も切れてきている。
泡の人型が凪翔の周囲を取り囲んでいる。少しでも退けるように紫雀が飛び回り、人型を切り裂き泡が飛び散る。しかしその速度も落ちてきていた。
切り裂かれた海水の断面が、徐々に押し寄せてきた。ガゴン、ガゴンと堰がひび割れるような音を立て、押し広げられた海底がじわじわと狭まってきているのが見て分かる。
「それだ!そいつを浄化するん―――」
燈源、紗奈が目を見開いた。
凪翔の声が唐突に途切れたのは、叫ぶより早く、一体の行方不明者が背後からその首を捕らえたからである。




