第四話 ⑦
「凪!」
「はやく・・・それを・・・出・・・せ・・・」
そいつは中身がただの泡とは思えない剛力で、凪翔の首を絞めつけた。そして正面から別の行方不明者が無表情のまま凪翔に近付き、自らの腕を凪翔の口に押し当てた。次の瞬間、腕を口の中まで押し込み、前腕が凪翔の喉奥へと進んでいった。
「あ、が・・・」
声を出せない。急速に視界が滲んだ。
食道から強烈な熱と痛みが走る。そして左右の鼻孔から白い泡が溢れ出てきた。
呼吸ができない。胸が強烈に熱い。痛みで身体を動かせない。これが例の、波の花か・・・これは本当に、まずい―――凪翔は死を悟った。
「ええいくそ!こいつを壊すんだな!うおおおお!」
「チュン吉!凪翔くんを!」
行方不明者達は一斉に凪翔に寄り集まり、四肢を掴み、自らの腕を口腔内に押し込み、白泡である波の花を注ぎ込んだ。自らの内臓がどんどん食われているのを感じる。
紫雀はもはや飛行姿勢さえ保てておらず、虫のように集る行方不明者の集団によろよろと突っ込んだ。
燈源が土に埋もれた白い何かを猛スピードで掘り出した。
燈源が掘り出したそれは思っていたよりかなり大きく、全長は4メートル程もあろうか。縦長な三角形型のごつごつとした表面をした重厚なそれを燈源が両手で持ち上げた。
その全体が露わになった途端、そこから強烈な閃光が走り、凄まじい勢いでそこから巨大な何かが飛び出した。
白く光るそれは全長15メートルはあるだろうか。夜空に浮かび上がり魚の様に躯体をくねらせ、優雅に空中を泳いでいるように見える。
その躯体は、巨大なクジラであった。潜水艦のように張り出した頭部から巨大な扇型の尾鰭まで、神々しく白い光が放たれていた。
地中に埋もれていた白いものとは、クジラの頭蓋骨であった。
「なんじゃあ、こりゃ!」「なによ・・・これ・・・」
夜空に浮かぶ光り輝くクジラを見上げ、燈源と紗奈が同時に呟いた。
そこにいたものとは、この海の『神』であった。
クジラは夜空に向かって甲高い鳴き声を上げた。
途端、凪翔を抑え込んでいた行方不明者たちが音もなく忽然と消え去り、凪翔はその場で倒れ込んだ。
「大丈夫か、凪!」
燈源が凪翔に駆け寄る。
「限界よ!逃げて!」
直後に紗奈が術の限界を宣言した。
ゴゴォオンと堰が破壊される音と共に堰き止められていた大量の海水が崩れるように押し寄せ、一瞬にして海水が二人を覆い尽くした。
海水の境目がザバアンと濁流とともに消え失せた。先程までの時化た日本海が、紗奈の目の前に広がった。
水深およそ5メートル。その底に二人を取り残したまま、土克水の術が解かれてしまった。呆然とせずにはいられない。
「ああ・・・ああ・・・」
絶望しかけたその時、水中からザバアンと水柱の如きしぶきを上げ、中から光り輝く巨大なクジラが飛び出した。
目を見開いて驚愕するとともに、クジラの背中に2つの人影が乗っているのが分かった。
「ああ!」
思わず声を出した。こんなことがあるだろうか。全長およそ15メートルのクジラの背中には、身長2メートルの鬼と、横たわる一人の青年、凪翔がいた。
2人を乗せたクジラが悠々と空を泳いだ。その背景には夜明けの紫色の空。暁色の太陽が覗いていた。
その姿は実に神々しい、神気溢れるものであった。
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「ほう、これはマッコウクジラの上顎ですな」
紗奈の伝手があると言う地元の神社にて、鳥居の前で3人を迎えた宮司がそれを見て開口一番にそう言った。
「これが土御門さんが仰った、テトラの下敷きになっていたという御神体でありますか」
テトラとは消波ブロックの通称である。
土御門紗奈は本日未明の出来事を地元の宮司に連絡し、3人はクジラの骨をここに持ち込んだ。何しろ4メートルはある大きさの為、運ぶのも一苦労であった。
「岩鳴神社の神主によれば、これはかつてここの海岸を守護する神の御神体だったそうで」
紗奈は凪翔にちらりと視線を送った。
社務所内の客間であろう一室に案内された三人は、茶を啜りながら宮司と向き合っていた。
「凪翔さんの視たとおり、この辺りはかつて『波の花』による塩害被害が深刻な問題でありました、大変貧しい地域であったと言い伝えられております」
ズズズと宮司が茶を啜った。80代くらいの老人であるが、その淀みない所作には年齢を感じない。
「大昔からこの辺りは冬になると海が荒れに荒れましてな。おまけに風も強いでしょう。波の花は何キロも離れた集落まで飛んで、備蓄した食料も家も、触れた物全てに侵食して腐らせてしまい、ひどい時は海辺の集落が全滅する危機も・・・あったやもしれません」
外壁のない木造の住居しか建てられない、食糧の保全も困難な時代。塩分を多く含む波の花が大量に押し寄せることはライフラインの腐食を意味する。それこそ貧困に拍車をかける死活問題であった。
「その貧しい時期にこのクジラが打ち上げられた、と視ています。・・・って凪翔君が」
凪翔の代わりに紗奈が言葉を交わした。凪翔は今朝方、怪異の波の花によって喉を故障していた。全く話せないこともないが、声が完全にしわがれてしまい、おまけに無理に話すと喉が焼けるように痛むのだ。
帳勾玉を持っていたため大事には至らなかったが、口から腕を突っ込まれ波の花を注ぎ込まれ、咽喉を始めそれなりに体内が食われている。さすがに一日足らずで完全復活とはいかない。
一同は傍らに置かれたマッコウクジラの上顎骨に視線を移した。
「そうでしょうな。おそらくはその頃、このマッコウクジラが糸魚川の海岸に座礁なさったのでしょう。今でもたまにクジラが打ち上げられたとニュースで見ることがあるでしょう。あれは遠い昔、人々にとっては貧しさから解放される、一攫千金の奇跡だったのですよ」
日本における捕鯨の歴史は縄文時代まで遡る。巨大な一体から獲れるものは膨大な量の食糧だけでなく、貴重な燃料となる油や装飾品となる骨、雨衣になる皮などが大量に獲れ、かつての日本では莫大な富をもたらすものだった。クジラ一頭を得るとは、集落全体が貧困から解放される、まさに奇跡の出来事だったのだ。
「クジラに救われた集落は、これを寄神と崇めたか、あるいは神からの贈り物と信仰したやも知れません。いずれにせよ、海辺の神としてここに祀られていたのでしょう」
奇跡をもたらした迷いクジラや座礁したクジラは、「寄神」や「蛭子」として信仰されたという。
宮司はまた茶を啜った。
「私が小さい頃はまだ、ここいらにこんなテトラなどありませんでしたよ。高度経済成長期に入るとみるみるうちにテトラが敷き詰められていって、好きだった海の景色が見る影も無くなっていくのに心を痛めたものです」
「おの、げどらに、おごらが、うげらげら・・・」
「んーと・・・その、テトラに、祠が、埋められた?」
紗奈の懸命な通訳に凪翔がうんうんと頷く。
「人々が神の御神徳を忘れて、その上こんなコンクリートの下敷きにしてしまっていたとは、私も長年ここで神主をやっておりますが全く気付きませんでした。いや面目もない」
宮司は己の不甲斐なさを責めた。たらればだが、もっと早く清めていればこんなにも被害者が出ることは無かったかもしれない。
神として祭り上げられたクジラの神は海辺の守り神として、長年この地域を塩害から守護してきた。しかし、建物の構造が変わり、地にはコンクリートが敷かれ、海岸が護岸されていくうちに人々は「波の花」の恐ろしさをついぞ忘れ去ってしまった。
その上、急速に進められた護岸工事に伴い、自らの社を御神体もろとも消波ブロックに潰され、海底深くまで沈められてしまったのだ。
このマッコウクジラは太古の時代から人々の信仰に応えるため、懸命にその神徳をもたらしてきた。にもかかわらず、最期は完全に信仰を失い、無残にも埋め立てられたのだ。
信仰を失った神はそのまま消滅するか、時に荒ぶる「祟り神」と化すことがある。人への恨みが強いほど、荒ぶる恐れは一層高まる。
あのクジラの神は、人々に恨みを持ち、海に引き込み、かつて人々が恐れた波の花を、最も恐ろしい方法で人々にもたらした祟り神であった。
だから埋め立てられた御神体を掘り起こし、清めて信仰することでしか、神の「荒魂」を鎮めることが出来なかったのだ。
最後は神としての神徳を思い出したのか、自らを地中から救い出した二人を海底から救出した。どんなに荒ぶれど、しかしそれでも人々を海の猛威から守護する神であったのだ。
「過疎化で氏子がすっかりいなくなったのも、神が荒ぶられた一因としてあるでしょうな」
凪翔たちにその存在を認識され、浄炎により清められ、こうして「神」と認識された。そして再び「神」としての崇敬を受けたことで荒魂が鎮まり、その真霊が安定した。これが今回の退魔の顛末である。
人類の文明の発達には自然の破壊が付き物である。それは防災の為、自然災害対策の為、あるいはライフラインの確保の為、どうしても致し方ないところはあるだろう。
しかしその陰に、目を背けてはならぬものがある。元来、自然の中には常に多くの神々が住まう。文明にあやかってその自然の恵みを忘れ去り、神々を冒涜するようなことがあっては、必ず大きなしっぺ返しが来る。一度「神」として祭り上げた以上、最後まで信仰を忘れてはならない。
「なあ?凪。これが人の欲望ってやつだ」
人類はこうして己の生命の安全を追い求めてきた。この追求こそが人の欲望であり、この欲望こそが人類の文明発達の推進力であると、いつか燈源が言っていたのを思い出す。
人は欲望で生きる。鬼は執念で生きる。神は―――信仰で生きる。突如現れた恵比寿も、あの時そう言っていた。
凪翔は思う。
この先も永くを生きる岩鳴も、やがて崇敬を失う時が来るのだろうか。その時、岩鳴は人を恨むだろうか。「禍津日神」という神号の通り、災いをもたらす強大な怪異に没落してしまうのだろうか、と。
未来永劫、岩鳴の信仰を忘れさせたくない。いずれ宮司となる自分に何が出来るだろうか。神にとっては人の寿命など粉一粒程度の長さであろうが、その短命の中で岩鳴神社に何をもたらすことが出来るだろうか。遠い未来、このような悲劇が岩鳴岳から起きないために、己は故郷に何かを残すことが出来るだろうか。
神への崇敬を募り続けるのは、他でもなく神主の責務である。想像以上にその責任は大きいのだ。事の顛末によっては人の世の生き死にさえ関わってしまう。
「こちらはここに合祀と致しましょう」
宮司はそろりとマッコウクジラの御神体に一礼した。元々その為にここまで巨大な頭蓋骨を落ち込んだのだ。手厚く祭ってやらねばまた同じことが起こるだろう。
かつてのクジラの神は、ここに地域の氏神として祭られることとなった。
そういえば、と凪翔は思い出したことを紗奈に耳打ちした。
「ん?ここ?ここは『奴奈川神社』だよ」
神社の名前が読めなかったのだ。社名を聞けば、どこかで聞いたことがあるような名前であった。
宮司も続いた。
「左様です。当方は氏神『奴奈川比売』を主祭神とする奴奈川神社と申します」
思い出した!と凪翔は目を見開いた。その神の名は我が祭神・岩鳴からセクハラを受け平手打ちをした女神の名だ。
奇縁である。どう考えても奇縁である。祓戸神盟からとは言え、岩鳴神社にまで依頼が来るとは妙に遠方過ぎるとは思っていた。
「もしかして俺達・・・ジジイの尻拭いさせられたんじゃねえだろうな?」
偶然とは思えぬ縁、神々の計らいが絡んでいる気がしてならない。帰ったら徹底的に岩鳴に追及しようと心に誓った凪翔であった。
本殿からだろうか。女性の上品な笑い声が聞こえたような気がした。




