第四話 ④
紗奈の住むアパートはどうやら1LDKのようだった。さほど広くないダイニングと、ここに隣接する部屋は白木色の戸襖が隙間なく閉められていた。おそらくは寝室であろう。比較的新しい、これといった特徴のない量産型の一室といった印象を受ける。
紗奈が緑茶入りのマグカップを2つ卓上に並べると同時に「そっちの部屋は絶対に覗いちゃだめだよ。神聖な場所だから」と閉められた戸襖を示し、凪翔に釘を刺した。いくら相手が美人といえども寝室を覗く趣味も興味もないが、実際のところ、寝室内に染み込む体臭や薄汚れ方などは男も女も大差ないものである。凪翔のように女姉弟を持つ男性なら理解できるだろう。
「それで、今回の怪異は何名もの方が被害に遭ったと聞きましたが―――」
本題は凪翔の方から切り出した。
「発見された人が4人。行方不明者は10人を超えたわ。最初に被害者が出たのは―――」
―――最近、この辺りで海辺に近付いた者が喰われているという。
1年前のこの時期、糸魚川河口の浜辺で「翡翠探し」をしていた高齢の男性が行方不明になり、水死体となって発見された事故があった。この日は比較的穏やかな海況であったが「突然大きな波が覆い被さり、この男性が白波に呑まれて海へ引き込まれた」という目撃証言がある。
ところが司法解剖をすると、恐ろしい現象がその遺体に起こっていた。
胴体の内部が完全に空洞になっていたという。
胸腔内にあるべき心臓も肺もない。腹腔内にあるべき胃も腸も、五臓六腑が何一つ残されていなかったのだ。
そしてなぜか。臓器の代わりに体内にあったのは、大量に詰められた白い泡であった。その泡は非常に粘性が高く、しかも奇妙なことに一向に消滅せず内腔の壁面に延々とへばりついていたらしい。
説明などつかぬこの怪現象を、警察は公にはしていない。目撃証言から死因は事故による溺死とされた。
事件性も当然疑われたが、現場には共通の証言をする目撃者が複数名おり、各々の関係性は全くの他人であることもやがて証明された。
この「波に呑まれ内臓を失う」という現象はこの一件に留まらなかった。
堤防の釣人、サーファー、漁師、また浜辺をただ散策していただけの者まで、老若男女問わず立て続けにこうした異状死が発生した。中には未だ行方不明のままになっているものも複数件存在する。
いずれの水死体も、体内から異常な性質の白泡が見つかり、内臓が消失していた。
発見された水死体のひとつは、内臓だけにとどまらず、腹壁の骨格筋までもが内側から侵食されるように失われていたものもあった。体表面から外傷は見られなかったが、体内は内側から筋肉を失い肋骨や脊椎が胸腔内にむき出しになっていたそうだ。
その泡は、体内から人の肉を分解し、プランクトンのように取り込んでいたのだと、紗奈が説明を終えた。
―――凪翔がごくりと固唾を飲んだ。紗奈は表情ひとつ変えずおぞましい話を淡々と語っている。
「私が実際にその泡を見た時、すぐ分かった。『波の花』って知ってるかな。あれは人の血肉を食べる、波の花だった」
「波の花・・・?」
背筋が冷たくなってきた。
「波の花」とは海岸地域に深刻な塩害被害をもたらす海水を含んだ特殊な泡である。その泡は植物性プランクトンを大量に含んでいるため、界面活性効果により消滅しにくい性質がある。
強風時にはこの波の花が飛散し、付着した人工物を腐食させてしまうことから、古くから地域の風土病として忌み嫌われてきた。現在では一時的に不便をもたらす厄介者程度に過ぎないが、かつては貴重な食物や住居を根底から脅かす重大な死活問題であった。
つまりは自然現象である。
しかしこれは人の血肉を食う波の花。自然の摂理では説明がつかない。
溺水した人の体内に入り込み、内側から食い進める。全て食われる前に発見されたのが4人。あとの者は皆、既に全身を食われているだろうというのだ。
話を聞いただけではあまりにも怪異のイメージがつかない。なぜ泡なのか。この波の花とは一体何者なのか。これは意思や目的のある怪異なのか。凪翔の中で様々な考えが巡る。
尤も、怪異とはいつだって人の理解を超えるものだ。容易に由縁が視えるほど甘くはない。更に言えば、人の理屈になど当てはまらないことの方が多い。
「怪異案件として警察署から私のところに話が来たのはそれからしばらく経ってからよ」
「それで、一度視ているんですよね。相手はどんな感じでした?」
地元の警察署から依頼を請け負うことは退魔師にとって大して珍しくはないが、警察も科学的根拠が完全に見つからないと断言できるまでは依頼などしてこない。そのため、事件発生から退魔が動くまでは往々にして期間が掛かるのだ。
「どんな感じっていうか、まず怪異の根源までは見つけられなかった。行方不明になった人たちが、束になって抵抗してくるの」
「・・・はい?」
行方不明者たちが束になって抵抗するだと?それは行方不明者と言うのか。どういうことだ。
理解の追い付かぬ鬼と青年に、紗奈はその時に視た情景を事細かに説明してやった。
「―――なるほど、それでうちらに白羽の矢が立ったわけですか」
「そもそも、私は怪異と戦ったり、穢れを祓い清めたりするのはどっちかって言うと専門外だもの」
「祓うのが専門外?え、でも紗奈さんも祓戸神盟に所属しているんですよね?そもそも紗奈さんは一体どうやって退魔しているんですか?っていうか、あなたは一体何者―――」
―――あのね、と言葉を切る。
「私はね、戦うんじゃなくて、占うの。陰陽師よ」
「陰陽師・・・」
無意識に繰り返した。
陰陽師。中世より日本に存在した高度な占術を扱う専門職である。明治以降完全にいなくなったとされているが、その末裔は福井県を始め今もどこかに息づいている。紗奈はその末裔だったのだ。
「私の家系は陰陽道を受け継ぐお家でね。私もそれなりに占術を身に付けて、ある程度は『式』や『術』を扱うことはできるけど、この術だとちょっと戦いには弱いのよね」
「式?術?・・・って何ですか?」
紗奈がいたずらっぽくにやりと微笑み、両手の指で何やら印らしきものを切り始めた。
「例えば、こういうの」
印を切り、人差し指を軽く翻すと、なんと空間から紫色に発光する小さな鳥が出現した。
空間から発生した鳥はぐるぐると凪翔の周囲を軽やかに飛び回った。
「うわあ!」
唐突に現れたそれに目を奪われるのも一瞬であった。宙を舞う紫色の鳥から、何やら発光する粉末がはさはさと落とされた。紫色に光るその粉は、鳥に向く凪翔の顔に正面から振り掛かり、この粉を少量吸い込んでしまった。
途端、凪翔の視界が急激にぼやけ始めた。
不意に頭が回転するようなめまいを起こした。焦点が定まらない。今まっすぐ座れているのかも分からない。聴覚も不安定になったのか周囲の音が遠くなり、しかし紗奈の声だけが脳内で大きく反響するように感じた。
不思議なことに不快感はない。朦朧とした意識の中で全身がふわふわと浮かび上がるような、何とも言えない恍惚とした悦楽があった。
そして妙な気分になった。骨盤の中が熱を帯びた。下腹部が仄かに熱くなり、むずむずとした疼きに変わる。やがて陰部まで静かに疼きを感じ始め、下着の中から脳へとしびれるような電流が走った。
「あ、ああ・・・」
この疼きはなんだろう。汗が止まらない。陰部を中心に全身が熱を帯びてくる。生唾をごくりと飲み込むと、それだけで全身にじんわりとした快感が走った。視界の端がどんどん歪んでくる。
「おい女!凪に何をした!」
「大丈夫よ、燈源さん。これはちょっとしたテストだから、すぐに解けるよ」
「テストだと?なんだよそりゃ、おい!」
「まぁ見てて」
「はわわわわ」
2人の声は凪翔の聴覚野には届いていない。
―――ああ、目の前の女がなんて妖艶なのだろう。その芳醇な蜜を今すぐ味わいたい。今すぐ襲い掛かりたい。押し倒して、この熱に触れさせたい。早くこのしびれるような疼きに触れてほしい―――。
「凪!目を覚ませ!」
バシンと燈源が凪翔の頬を叩いた瞬間、凪翔がハッと我に返った。
息が上がって止まらない。
「はあ、はあ、何ですか、今のは・・・」
まだ少しめまいが残っており、頭がくらくらする。肩で呼吸をしながら凪翔はじっと陰陽師の女を睨んだ。
決して油断はしていなかった。この女は只の人間とは違うと視えていたからだ。何らかの護身の策がなければ、いくら神主とは言え男を部屋に上げたりはしないだろうと思っていた。
しかし、それでも敵意の念は一切視えなかった。それ故に、話をする程に隙が出てしまったのだろうか。己の修行不足を痛感した。
「あ、あなたは何者ですか。ただの陰陽師ではないはずだ。やはり、あなたは『人』ではありませんね」
「なんだと!?」
燈源は即座に臨戦態勢に入った。
「ふふ。さすが」
一瞬、軽やかな風が室内に流れた。
次の瞬間、紗奈の姿が忽然と消え去っていた。凪翔の目の前で音もなく消えたのだ。
いや、消えたのではない。そこには人型をした一枚の白い紙がはらりと落ちていた。
「な、なんだ・・・?」
燈源は呆気に取られている。凪翔はその人型を手に取り「やっぱりそうだったか」と呟いた。
この部屋に通された時から違和感があった。玄関に彼女の靴は1足だけ。脱いだコートは何処に掛けたのだろう。このダイニングルームも、人の生活から滲み出る温もりの念が異様に少ない気がしていた。
気のせいではなかった。今証明された通り、彼女は人ではなかったのだ。人の身でないなら、燈源の姿が難なく視えていたことも理解できる。
しかし想定違いだったのは、彼女自身が「式」そのものであったことである。
ではこの式を作り出した当人が別にいるはずだ。なぜこんな事をしたのか。そいつは今どこにいるのか―――
考えていると不意に、隣の部屋の戸襖が突然ガタンと音を立てて開け放たれた。凪翔も燈源も思わず「うわっ」と短い悲鳴を上げてしまった。
聖域だから絶対に開けるなと言われていたその部屋はやはり寝室。そこに現れたのは、髪の毛がぼさぼさの、今さっき目を覚ましたと言わんばかりの風貌をした女が一人。すぐには分からなかったが、よく見るとその女は―――
「さ、紗奈さん・・・?」
先ほどまでの目を引く美しさからは信じがたいが、その顔は確かに紗奈であった。
全身灰色のスエット姿の紗奈が不敵に笑った。




