第四話 ①
今日もまた、神と鬼の争いは唐突に始まった。
本日最初に声を荒げたのは神の方である。
「燈げええん!!」
その声はいつもの社務所ではなく、拝殿の方向から響いた。
「んあ?」
対する鬼は社務所の居間でこたつに入り、今はバニラアイスを堪能している。
数秒後に居間の戸襖が勢いよく開け放たれ、声の主、岩鳴が現れた。燈源を前に完全に怒りを露わにしている。
「な、なんだよ、ジジイ。そのでかいマスクは何だ、神が風邪でも引いたのか」
岩鳴は何故か顔の大きさに似合わぬ白い布マスクで顔面の下半分を覆っていた。
「なんだよ、ではない!貴様、わしの神酒を勝手に呑みおったな!しかも全て!」
岩鳴は片手に熨斗が貼られた茶色い一升瓶を持っていた。
岩鳴が出雲から戻ってきたのは昨日のことである。燈源は岩鳴が留守の間に、とうとう全ての神酒を飲み干してしまったのだ。
ところが、燈源も素直に謝るような性分は持ち合わせていない。
「な、何言ってんだよ、それはまだ中身入ってるじゃねえか。ってか、風邪引いてる時に酒なんて飲むなよ」
「たわけ!中身は全て水ではないか!!」
よせばいいものを、燈源は空になった酒瓶すべてに水道水を入れ、元々あった幣殿に戻しておいたのだ。
「水って、そりゃあれだろ。岩鳴の神威でアルコールが抜けて清水になったんだな」
「そんな道理があって堪るか!」
「や、やめろっ!」
そして岩鳴と燈源の取っ組み合いが始まった。神と鬼の暴力的な喧嘩、日本神話なら大々的に描かれる壮大な一幕である。築50年の社務所がガタンガタンと音を立てて揺れた。
「ちょっと待ってストップ!」
開け放たれたままの戸襖から、騒ぎを聞いた仲裁役、凪翔が駆け付けた。
「音が外まで響いています!」
「凪翔、お主、燈源が神酒に手を付けおったぞ!なぜ止めなかった!」
「あいや、それは・・・」
「悪いかジジイ!お前こそ神議りだか何だか知らんが、どうせ碌すっぽ参加しねえで油売ってただけだろ、ちがうか!」
「んな、何を言うか!わしのこの7日間の苦労も知らずにそれでもわしの神使か!ええい許さん、神罰を下してくれる!」
岩鳴はその痩せた体躯からは想像できない力で燈源の首元を掴んでいた。対する鬼もその怪力で岩鳴の着流しの襟をがっちり掴んでいる。普通の着物なら一瞬で灰になっているだろう。
神力と怪力が凄まじいパワーで衝突するおぞましい状況だが、その有様は子供の小競り合いと差して変わらない。
「やめて下さい、岩鳴さま、社が吹き飛んでしまいます!あなたの神域ですよ!」
「そうだ!いいから離せ!オンボロ神社が崩れちまうぞ」
「よせって燈源!」
「なにをぉ!」
岩鳴が燈源の腕を振り解こうとしたその拍子に、燈源の指先が岩鳴の顔に掛かった布マスクに引っ掛かった。びよんと伸びたゴム紐に、マスクが一瞬でぽすっと手元に吸い寄せられ、岩鳴の顔面下部が露出した。
「なんだそりゃ!」
露わになった岩鳴の左頬には、なんと見事にくっきりとした手掌型の痣がひとつ。間違いなく誰かから平手打ちを喰らった、ビンタの痕跡ではないか。
「岩鳴さま、まさかビンタされました!?いったい誰に!」
一瞬、大きな紅葉を貼り付けているようにも見えたその痣は右手のようだ。正面からかなり強く平手打ちを受けないと、どう考えてもこうはならない。
「な、何でもないわい!ちと転んだだけじゃ」
「転んだだけでそんな事になるかよ。おい、さては出雲で何かやらかしたな?」
「お主らには関係のないことじゃ!」
その時、隣の客間から凪翔の姉、茜がひょいと顔を出した。
「なあに騒いでるのよ騒々しい。凪、そこにみんなお揃いなの?」
「姉ちゃん、二人の喧嘩を止めてくれ。燈源が神饌の酒を飲み干したんで岩鳴さまがカンカンに怒っててさ」
「ふうん、まあそうは言っても、私には視えないし。取り敢えず暴れるのは止めてもらえる?ガタガタうるさいのよ」
仲裁役の苦労を知ってか知らずしてか、茜はにべもなく言い捨てた。
「ところで昨日の夜、私のところに凄く綺麗な女神さまから託宣が来たんだけど、岩鳴さまは何か言ってた?」
「女神から託宣?」
凪翔は岩鳴に視線を向けた。
「い、いや、わしは何も知らんぞ・・・」
明らかに岩鳴の挙動が不自然だ。燈源は「ほおう?」と愉快そうに不敵な笑みを浮かべ始めた。
「・・・知らないって」
凪翔が茜に向き直った。
「ヌナカワヒメ?って女神さまから。新潟の方の国津神らしいんだけど―――」
「奴奈川比売じゃと!?あ、茜、よせ、言わんでよい!」
岩鳴の必死の言葉は茜には届かなかった。
「―――あなたのところの祭神は二度と神在祭に寄越すな。いきなり手を握るわ、しつこくナンパするわで女神たちは大変迷惑している。私がヒスイの平手打ちを施し、これを神罰とした―――ってさ」
燈源が堪えきれず吹き出し、声高らかに笑った。
「がっはっはっは!こいつは傑作だな!何が7日間の苦労だよ、ただナンパして回ってただけじゃねえか」
凪翔は頭を抱えた。
「託宣って言うか、ただのクレームじゃないか・・・」
「ち、違う!同じ岩石を依代とする神同士、まっとうな交流を深めようとしただけじゃわい。なのにあの女神、いきなりバチンと叩きおってからに!」
奴奈川比売は翡翠を司る大変美しき女神である。黒曜石を依代とする岩鳴は、お互い岩石を御神体とする共通点を接点に近付いたのだろうが、物の見事に返り討ちに遭った訳だ。翡翠の如く堅牢極まるビンタを受けたなら、それは何とも痛々しい。
それにしても一体何柱の女神たちをナンパしたのだろうか。岩鳴神社の神主として凪翔は溜息をつく他なかった。八百万の神々は実に自由奔放である。




