第三話 終
「今の時代ってのはよ、本当に平和になったよなあ」
「そうか?今だって戦争は起きるし、悲惨な事件もあるし。日本人も裕福とは思えないけど」
「そりゃ、世界中が完全に平和とは言わねえさ。だがよ、現代ニッポンは少なくとも俺が生まれた時代みたく、誰も明日死ぬかもなんて思ってねえだろ?そこら辺に死体なんて転がってねえし」
燈源はおよそ500年生きる鬼。500年前とは応仁の乱、凪翔達の地方では永享の乱をはじめとする戦乱の世である。戦場とされた地域には幾千万の死体が転がり、むき出しになった腐肉から無限に蛆が涌き出てくる地獄絵図。これがかつて燈源の目に映った日常である。中世の時代、日の本にあった史実である。
感傷に浸るほろ酔いの鬼が、縁側の先にある夜空を見上げた。
「誰も彼もあの時みたく死を身近に考えてる奴なんか、現代人にいねえだろ。明日飢え死にすることも、家族が斬り殺されることも無えだろうさ。だからいつでも死を覚悟する必要なんてなくなっただろ。それなのによ、自分は幸せだって胸張って言う奴ぁそうそういねえよな」
燈源はまた酒瓶に口を付け、ぷはあと一息。この鬼は一体どんな世界線で生きて来たのかと、凪翔は考えていた。
「今じゃ飢えるどころか日本中どこにいても、北海道の鮭も食えるし福岡の鰯明太も食える。全国の地酒もな。これ以上何を求めるんだろうな、人間ってのはよ」
「……九州の代表が鰯明太でいいのか?」
燈源の言いたいことが凪翔にもだんだん分かってきた。確かに現代人はいつも悩んでいる。将来の不安に抗うために働き、幸福になろうと必死に金銭を稼ぐ。こうして突き進んだ先には確かに古の時代よりは少なくとも己の生命が脅かされることはなくなったはずだ。
しかしそれでも人はまだ己は不幸だと嘆いて俯き、常に何かしらの不安を抱えて生きている。本当の幸福を求めながら明日も労働に出る。金銭さえなくては生きていけないと自身の身体に鞭を打ち、睡眠を削り、本能の欲求に抗い続けている。幸福を求めるより金銭を失う不幸の方がよほど恐ろしいのだ。日本語より、ビジネスの知識が重要視される時代だ。
燈源が見てきた500年の間に、例え家族が戦に徴兵されなくなろうとも、国家が大量の米を備蓄して食糧不足を解消しようとも、巨大なダムで水源を確保しようとも、日本人から不安と悩みが消えることはついになかったのだ。
燈源が続けた。
「俺からすればこの国の人間はこの上なく幸運に見えるぞ。飯も食える、水もすぐ手に入る。疫病もワクチンとかいうやつで消えたし、もう寿命以外で死ぬことがほとんどないだろ。それでも日本人はいつまで経っても暗い顔して悩んでやがる。まだまだ自分は不幸だって嘆いてな。凪、これが人の欲望ってやつなのかな」
言葉の意味が見えてきた。自身の不幸を恐れ続け、不安をことごとく排除したいという欲求こそが、人の欲望の根源なのではないか。
凪翔自身、高校時代には進路やら成績やら模擬試験やら、散々に悩まされてきた身である。別に浪人しようが死ぬわけでも、徴兵されるわけでもない。それでもあれ程までに将来の不安に駆られ悩み抜いたのは、その先にある見えない結末への不安を恐れ、退けたい欲求があったからだろうか。
そう考えた凪翔が鬼に問いかけてみた。
「……鬼に欲はないのか?」
「どうだろうな。まあ、酒が呑みてえ時もあるし、腹が減れば旨いものを食いたくもなる。だが、鬼はみんな人間みたく発展を求めることはしなかった。死ぬ時は死ぬ。それだけだ」
―――だから人間に淘汰されたんだろうな、と付け足された。
人は古来より、己が生きながらえることに欲求を注いできた。そして生きる権利を得たなら、今度は自らが栄えることを求めた。恐れることはことごとく排除し、退け、権力を求めては争い続けた。そしていつの時代も、偉いのは米を持つ者、現代では金を持つ者となった。
米を奪取された戦国農民も、徴税された現代庶民も、燈源には皆同じ表情に見えているのかも知れない。
「人に欲望があったから、鬼が淘汰されたっていうこと?」
「俺はそう思うな。欲があるから人の世はここまで発展したんだろうさ。曲りなりにも平和を求めて、完璧とは言えねえが結果として今がある。人はもう昔ほど自然を怖がらなくなっただろ。明日死ぬかもなんて考えなくなったろ。だからまあ、欲望が悪いことだとは思わねえさ。むしろ人は欲望を大事に扱わなきゃならねえ。ただ、恐怖のない世の中に鬼の居場所なんて無えってだけだ」
人は自らが恐れたものを自らの文明で克服してきた先に、現代社会を築き上げた。その道中であらゆる過ちを学び、今も尚、どうすれば底無しの欲望が満足するのか迷走しながら今を生きている。
とは言え、ホモ・サピエンスの文明がたった数十万年の期間でここまで発展したのは、他でもなく人間自身の「生」に対する欲求が原動力にあったからだろう。だからこそ、人類は己の欲望を否定する必要などない。欲があるから成長できることもある。欲は捨て去るものではなく、共存するものだ。燈源は多分、そう言ったのだろう。
鬼とは本来、かつて人類が恐れた自然現象や災害など、死を連想する恐怖の対象そのものである。人が欲望で文明を発達させ、これら自然災害への畏怖が薄くなったなら、鬼の存在も軽薄になるのは自然なことであった。
「だからある意味『人は欲で生きている』と言えるだろうな」
「……なるほど、燈源にしては真理なこと言うな。それならさ、人が欲で生きるなら、鬼は何で生きるんだろうな」
「そりゃおめえ―――」
燈源は一拍の間をあけた。
「―――鬼は多分、『執念』で生きている」
―――執念?と凪翔が首を傾げた。
「鬼ってのはな、存在そのものに意味がある。その意味を成すためには手段は選ばねえ。だから『鬼』なんだ。岩鳴のジジイから仰せつかった俺の生きる意味を成すために、執念を貫くのさ」
少しだけ燈源の横顔が寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「人は欲望で生きる。鬼は執念で生きる。じゃあさ、神は何で生きると思う?」
凪翔のこの問いかけは、ただの思い付きであった。
「うーん、何だろうなあ。神は―――」
子供のような凪翔の質問に、燈源が何と答えるか考えを巡らせたその時である。
「―――神は、信仰で生きるぞ」
「・・・!?」
答えたのは燈源ではない。岩鳴の声とも正広の声とも違う。全く聞き覚えのない野太い声が縁側の外から割り込んできた。
驚いた2人が反射的に声の方向を向くと、そこには1人の太った老翁が立っていた。
平安貴族のような白い狩衣を身に纏い、頭には先端が折れた黒い烏帽子。身体も顔も丸々として、耳たぶがやたらと大きい。そんな服装に似合わず、何故か釣り竿らしき竹棒を手にしている。笑い皺が刻まれた朗らかな丸顔であるが、その目はまるで全てを見透かすような深みがあり、威圧的な神々しさを感じた。
一体いつからそこにいたのか、全く気配を感じなかった。
太った老翁は目を見開いたままの二人を見やると、その大きな口を目一杯に広げ、がっはっはっはと豪快に笑った。この笑い声がなんとも野太く大きい。
「はっはっは、いやあ愉快愉快。驚かせたかも知らんが謝りはせんぞ」
「ええっと……」
どう見てもただの人間ではない。神だ。それもその辺の国津神とは違う。かなりの高位な神であろうことは、この翁から放たれる神秘的な威圧感からして明らかだった。
「お前が鬼だな。そっちは人のようだな。こいつは何とも珍しい組み合わせだ。お前は一体何者か述べい」
老翁の神は視線を燈源に見据えていた。
「あ、あんだよ急に。お前こそただの『人』じゃねえだろ。ここは岩鳴の神域だ、まずてめえから名乗れ!」
「お、おい燈源よせ。この方は多分……」
唐突に現れたこの高位なる神は、口調は厳めしいがどこか安心するような、心を落ち着かせる神威さえ感じさせた。
「名乗らずとも知れておろう。無礼を申すな、とは言わん。だが鬼よ、お前の申すその神域に、なぜ鬼のお前がいるのかと聞いている」
「それは―――」
答えたのは凪翔だった。
「―――燈げ…この鬼は我が御祭神の神使でして・・・」
「まあ、そういう事だ。むかつくジジイだが岩鳴の眷属だ。文句あるか」
「ほうほうほう、なるほど神使か。珍しいものを従える神もいるものだの。ならばよい」
邪魔したな、と言い残し狩衣姿の翁は踵を返した。
「何しに来たんだよ、お前」
悠然と立ち去る後ろ姿に燈源がぶっきらぼうに投げ掛けると、これまた豪快に笑った大神が振り返った。
「わっはっはっは。なに、神社に鬼の気配を察して参らぬ留守神などおるまいて」
そう言うと、今度こそ忽然と消え去った。
神在月の期間中、出雲に出向いた全国の神々に代わり各地域を守護する神を「留守神」と呼ぶ。その代表神は、かの有名な蛭子神、通称「恵比寿さま」である。凪翔達は今まさに、恵比寿を目撃したのだ。
恵比寿が立ち去った社務所には、その神威が残香のように漂っているようだった。凪翔が古事記の神を見たのは当然ながら初めてのことである。圧倒された頭の中で、どこか冷静に実情を考察する自分がいた。
―――やはり、岩鳴以外の神々からすれば燈源は穢れをもたらす災いの鬼に見えるのだろうか。
実際に穢れが神域に侵入すれば、神にとっては一大事である。恵比寿は燈源を穢れた鬼と勘違いして、ここに現れたのだろうか。
約500年前、岩鳴岳の大噴火によりマグマの如く地表に出現した災いの巨鬼、燈源。
岩鳴との戦いに敗れ、今では馬鹿力と火力だけが残った鬼である。現代では凪翔と手を組み、人々を禍事から救い出す神の眷属であるが、岩鳴以外の神々から見れば所詮は鬼であると示されたような気がして、凪翔の心に少し陰鬱な影が差してしまった。
凪翔は思う。自分が7歳の時はあんなにも傍若無人な態度を示し、お互い憎たらしく思っていた間柄だが、今では「バディ」、何の因果か二人揃っての退魔師となった。時の流れとは不思議なものだ。
燈源がいなくては、凪翔はただの「視えるだけの人」であり、凪翔がいなくては、燈源はただの「怪力の鬼」である。岩鳴の神徳のもと、こんな二人が一組になることで、これまでいくつもの怪異を退魔し、人々を救い出してきた。だから燈源は、決して穢れの鬼などではない。素行こそ悪いが、間違いなく救いの鬼だ。
凪翔は自分の相棒が不憫に思い、同時に相棒に対する友情の念を実感した。
「あんだよ、今のジジ神はよ」
恵比寿が去った暗闇に向かて、燈源がひとりごちた。
二人が深い絆に結ばれたこと。燈源が誕生した時のこと。そして、岩鳴が燈源に託した生きる意味。これらはいずれ別の話にて参照されたい。
人と鬼。寿命も経験も生きた世界も全く異なる一人と一柱。根本的に全てが異なる生体の二人が、今夜こうして同じ鍋を突き、笑い合い、語り合い、そして神秘に出逢った。
岩鳴は今頃、どこで何をしているのだろう。留守神が駆け付けたところを見るに、やはり本当に神議りに参加しているのだろうか。
畳の上には空になった一升瓶が3本も転がっていた。




