第2話 悪霊の襲来
寒い。
全身を包み込む冷え切った空気に、私は自分の身体を抱き締めて身震いする。
水も凍る氷点下。
吐いた息は即座に白く染まり、指先の感覚は鈍くなる。薄い着物では体温が奪われる一方なのだけれど、当然ながら毛布や布団などの贅沢な代物はない。古い木の香りで満ちる牛車の荷台には私と幾つかの木箱が積まれているだけなのだ。暖を取れるものなど存在しない。
……まぁ、私は人以下の奴婢となった身。贅沢なことは言えない。雨と風が凌げるだけ、ありがたいと思わなくてはならないと。
「……いや」
小さく呟き、私は首を左右に振った。
寧ろ、このままここで凍え死んだほうがいいかもしれない。だって、私のこの先の人生は正しく地獄なのだ。奴婢として、商品として、見知らぬ誰かの所有物となる。どんな扱いをされるのかはわからない。飯炊き奴隷になるのか、或いは主人の慰みものになるのか……何にせよ、生きる喜びなんてものは一切ない。人並みの幸福すら得られない、苦しみに満ちた生を送るのだ。
そんな日々が待っているのなら、いっそのこと、このまま……なんて考えてしまうのは、至って自然なことだろう。勿論、実際にはそう簡単に死なせてもらえないだろうけど。今の私は商品だから。
壁の隙間から見える外の景色。
澄んだ冬空に浮かぶ輝かしい玉兎を、私は思考を放棄して眺める。他のものが視界から消え去るくらいに、見つめ続ける。
少しだけ、憎たらしい。
私の心は曇天なのに、人生は暗闇に満ちているのに、絶望で埋め尽くされているのに……そんなものはお構いなしと言わんばかりに世界を照らす光が、眩しさが、美しさが、今は腹立たしい。私の人生と未来は照らしてくれないのに、こんな醜い世界は照らすのかと、嫉妬心すら芽生えてしまう。
満月が嫌いだ。
平等のように見えて、不平等に世界を照らす満月が、私は大嫌いだ。
そして……嫌っているはずの満月に見惚れ、美しいと思ってしまう私自身も、大嫌いだ。
「しっかし、とんでもねぇ上玉だな」
不意に鼓膜を揺らした男の声。
前方、外、車を牽く牛の傍を歩く人買い商人のものだ。彼らの会話が、澄み切った空気を伝って聞こえてくる。
「面良し、身体良し、控えめな性格に加えて心は折れる寸前。おまけに血筋は名家のもの。調教のし甲斐があるだろうし、愛玩人形としてはこれ以上ない女だ」
「使い道は知らねぇが、高値で売れることは間違いない。まずは貴族のところにでも持っていくかな」
「宛てがあるのか?」
「あぁ。まぁ、そこの旦那は買った奴婢をすぐに壊しちまうことで有名なんだがな。今年に入ってもう五人壊してる」
「うわ、勿体ねぇ。あんな上玉は早々いないってのに……いいのか? そんなところに売っぱらって」
「俺たちは金さえもらえれば何でもいい。奴婢がどうなろうと知ったことじゃない。そこの旦那は金払いがいいんだ。明日は鰻でも食えるぞ」
「おっ、そいつはいい。女を売った後に食う鰻は格別なんだ」
これ以上聞きたくない。
私は両手で耳を塞いだ。これだから人買い商人は嫌いなんだ。人を人と見ていない。人の形をしたお金としてしか見ていない。いや、実際に彼らにとってはそうなのだろう。人をお金に変えて、生計を立てているのだから。
もう、眠ってしまおう。
運が良ければ、そのままずっと眠っていられるから。
どうか、明日が来ませんように。そう願いながら、私は身体を固い床へと横たえた──その時。
──チュン。
「……?」
耳元で聞こえた小さな声。
人のものではない。これは……。
鳴き声から持ち主の姿を予想しながら、私は下ろした瞼を持ち上げ、其方を見る。
雀だ。掌に収まるほどの小さな雀が、ジッと私を見つめていた。まるで私に、何かを訴えかけるように。
なるほど。そういうことか。
上体を起こした私は雀を掌に載せ、注視する。
雀が全身に纏う、淡く白い光を。
「……黄泉に、送ってほしいんだよね」
雀は問いかけには答えない。当然だ。彼らは人の言葉を話さないのだから。
それを理解しながら、私は続ける。
「でも、ごめんね。私、今はとても疲れてるの。だから、明日でもいいかな? 私が生きて、明日を迎えてしまったら、ちゃんと送ってあげるから……」
この愛くるしい雀が何を求めているのか。どうして私のもとへやってきたのか。それはわかっている。理解している。それを為せるのが、私しかいないということも。
けれど、申し訳ないけれど、今はとても……貴方たちを救う気力は──。
……チュン。
私の謝罪を、言葉を理解したのか。雀は先ほどよりも少しだけ小さな声で鳴き、次いで、その小さく柔らかな身体を、私の掌に擦り付け──。
「……ぇ?」
唐突に、牛車が止まった。
否、それだけではない。声が全く聞こえない。人買い商人たちの会話も、彼らが発する音も、気配も、何も感じない。まるで、そこには誰もいないかのように。
どうしたのだろう。
移動時間が短すぎるため、目的地に到着したとも考えられない。こんな寒い夜に野宿をするとも思えない。
何か、進むことのできない問題が起きたのか。
訝しんだ私は様子を確認しようと、牛車の前方に掛けられた布を捲り、外を見た。
そして──言葉を失った。
死体が転がっていた。
つい先ほどまで会話をしていた二人の人買い商人と、荷車を牽いて歩き進んでいた牛。そのどちらも息絶え、真っ赤な血を流して地に伏している。当然ながら、ピクリとも動かない。
眼前の光景に、全身がガタガタと震え始める。
寒さではなく、恐怖で。
呼吸が荒くなる。思考が纏まらない。
なんで死んだ? どうして殺された? 何の気配も感じなかった。声も聞こえなかった。なのに、こんなことが──。
【──美味しそうな娘ね】
「──ッ」
頭上から聞こえた、耳障りの悪い女の声。
途端に全身が粟立ち、指先一つ動かせないほどに硬直する。
この感じ。そこにいるだけで心が恐怖で満たされる感覚。
間違いない。今、私の近くにいるのは……。
「──悪霊」




