87 郷愁縁起編8 内角低め
帝都のハラワタ、とはよく言ったものだと思う。
帝都の東南に位置するこの地区には大規模なゴミ処理施設と下水処理施設がある。帝都の東の台地に位置する帝城と貴族街、それに付随する高級住宅地には下水道が整備されている。そこから糞尿を含んだ汚水が流れ込み、この地区の施設で処理され、発酵などの処理を経て、たい肥として農業に利用される。
施設には悪臭対策としての煙突や帝都を囲う壁の外に悪臭を逃がす換気扇の様なものがあるにはあるらしい。しかし完ぺきに対処できているとは言えず、また、下水道が整備されてない住宅区の汚物や帝都中のゴミも人の手によってここに集められるため、どうしても悪臭が漂ってしまう。
本来は人が住むような場所として考えられてはいない地区であったが、行き場をなくした困窮者や罪を犯した逃亡者などが流れ込み、いつのまにかスラムを形成してしまったらしい。
「どんなに着飾った貴族でも、偉大な英雄でも、腹の中にはクソが詰まってる。ここは華やかな帝都のハラワタ。クソの集まる場所に、クソみたいなやつらが集まってる、クソみたいな場所さ」
俺たちをスラムに案内してくれた少年は歌うような調子でそう言った。
「ここらに住んでる酔っ払いの口癖さ。いつのまにかオレも覚えちまった」
少年はそういうと俺の方へ向き直り、手を差し出す。そういえば無事に着いたらコインを渡す約束だった。俺は懐から小銭袋を取り出すと、コインを一枚取り出して手渡した。
少年はコインを確認すると怪訝な顔をする。
「だからぁ、これ銀貨だって。アンタ目ぇ腐ってんの? それとも銅貨の持ち合わせがないのか? オレ、釣りなんて持ってねーぞ?」
やはりこの少年は、口は悪いが真面目というか、意外と律儀な性格のようだ。
「いや、銀貨で合ってるよ。俺達はここに来たのは初めてだから、案内を頼みたいんだ。厄介ごとはできるだけ避けたいし、今から寝床も探さなくちゃならないしね。そういうのを教えてもらいたい。まぁ、ガイド料ってやつだな」
「………オレを試したってわけだ」
少年は値踏みするような目でこちらを見てきた。魔石のランプに照らされたその顔はまるで女の子ような顔つきで結構な美少年だ。その眼がランプの光を反射して、暗闇の中の猫の目のようにキラリと光った。
少年の言う通り、俺はわざと銀貨を渡した。もし少年が銀貨をそのままポケットに入れたならここでお別れして、ガイドは別の者を探すつもりだった。
少年は、俺達が〈山猫〉に追われているという事情を知っている。俺達を〈山猫〉売ることだって考えられる。本当なら事情を知らないその辺の暇そうなやつを雇った方がいいのかもしれない。だが、俺は今のやり取りで少年を信用することにした。彼はたぶん俺たちを売ったりしないだろう。もしそうなったとしてもそのときはその時だ。
しかし、即座にそのことに思い至るということは、この少年は頭の回転が速いのかもしれない。
「まぁ、そういうことになるかな。どうだ? 嫌なら、銅貨と取り換えるけど」
「……いいぜ、きちんと金を払うやつはいい奴だ。だからアンタはいい奴だ。オレに任せな、いいとこ連れてってやんよ。寝床も確保してやる」
少年はそう言うと踵を返し歩き始めた。だが、すぐに立ち止まり、思い出したように言った。
「オレはユイ、アンタは?」
「………俺はランシス。こっちはメイ、よろしく頼むよ」
名を聞かれ返答に迷った俺は【思考加速】を使った。
フチでもイチローでもよさそうだが、街中でその名前で呼ばれると万が一ということがある。だが、偽名もなかなか出てこない。この世界のポピュラーな名前というか、名付けの法則のようなものがいまいちわからない。普通っぽいと思って適当に名乗り、実は他人から見ると変な名前とか女っぽい名前とかだったりすると逆に注目を浴びてしまう恐れがある。
迷った挙句、エバンが用意した偽造冒険者証の名前を使うことにした。この名前もまずいと言えばまずいのだが、思いつかないものはしょうがない。ロウ・フチーチの身分証は絶対に使うわけにはいかないので、もし使うとすればランシスの身分証だ。このユイという少年とどこまで行動を共にするかはわからないが、そのもしもの時に呼び名が違っても困る。
「じゃあランだな。ついてきな。ラン」
俺の新しい名前はあっという間に短縮されてしまった。まぁいいか。
俺は夜空に浮かぶ下弦の月をちょっとだけ眺め、メイにランプを消して荷物に戻すように指示をして、ユイの後を追った。
ユイが案内してくれた場所はある意味で本当に、いいところ、だった。
「あら、ユイ、客を引っ張ってきてくれたの? それともアンタの初めてのお客?」
連れてこられたのは所謂娼館というところだ。バラックの様な住居が立ち並ぶ中、比較的立派な建物で、ユイはこの娼館の物置小屋を寝床にしているという。当然のことながら、娼館の入り口で客引きをしているお姉さんとユイは顔見知りらしく、連れ立って歩く俺達を見て声をかけてきた。
「そんなんじゃねーよ。でも、そうだな、遊んできてもいいぜ、ラン。オレはこの人形と……メイと一緒に小屋で待ってるからさ」
お姉さんの衣装はなかなか刺激的だ。下着姿がうっすらと透けている丈の短いワンピース。なんというか目のやり場に困ってしまう。
球種で言うと内角低めのスライダーといったところか。俺の得意玉は外角高めだが、このボールは余裕で手が出てしまうくらいにはいいボールだ。そもそも悪球打ちとまではいかないが、俺はあきらかなボール球でもつい振ってしまうタイプだ。ちなみにこれはあくまでも野球の話だ。念のため。
「心配すんなって、この人形の腕っぷしは知ってる。誰も盗んだりなんかできねぇよ」
「あら、兄さん、アタシと遊んでくれるの? ユイの知り合いならサービスするよ?」
「じゃあな。ターシャ、そいつたぶん結構金持ちだぜ、せいぜい頑張りな」
話はついた、とばかりにユイはさっさと行ってしまう。メイは俺の指示を待っているのか、その場に留まっている。ふむ、これは困ったな。
「えーと、ではターシャさん、利用可能なオプションと具体的な料金を教えてもらってもいいでしょうか?」
俺は具体的な話を詰めようと交渉に入ったのだが、そこに不意に邪魔が入った。
『まてまてまて! お前、何するつもりだ!?』
何って……言わせんなよ恥ずかしい。
『いやいやいや、私がいるのに、その、……やるつもりか?』
ヤルだなんてそんなはしたない。ていうか、そんなの今更だろ? 風呂だってトイレだってタマちゃんには見られてるんだし、俺が一人で処理して……
『いやっ、その時はあれだ、ちゃんと目を閉じて耳を塞いで息を止めてるから!!』
……息? ……じゃあ、今からしばらくそうしててよ。というか、そもそもタマちゃんは性別無いだろ? あの姿はあくまでも俺のイメージ映像な訳で、タマちゃんの本体はスライムみたいなやつじゃん。俺の生殖行為を見たって、タマちゃん的には犬猫のそれを見るのと変わらんだろ? そう思ってたんだけど違うの?
『生殖行為って、いやあの、精神の在り様は宿った肉体に引っ張られるから………そ、そうだ! メイはどうするのだ!? メイはおそらくお前から離れないぞ!?』
あー、それはあるかもなぁ。メイに見られながらっていうのは流石に恥ずかしいかな。
『そうだろ!? 今回はやめとけって!』
いや、でもそれはそれでプレイの一環として……
『えええ、おまっ、いつの間にそんな上級者に………いや待て、順を追って考えろイチロー。万が一だ。万が一お前が、その、……アレしてる時に〈山猫〉の連中が踏み込んでくるとする。その場は何とかなったとしても、もし、……もしも、お前がこの場所でそう言う行為に及んでいました、しかもメイに見守られながら、と、エリーやトアに知られたらどうなる。想像してみろ』
うーん。確かにその可能性も微レ存か。でもさぁ、メイのことは別としても、お相手は素人さんじゃなくてプロの人だよ? あいつらは俺の彼女とか奥さんじゃないんだし、そこは健康的な一成人男性の溢れるリビドー的なものを理解して暖かく見守ってほしいところではあるんだけど………あー、でも、理不尽が服着てるようなやつらだしなぁ。確かにバレると何されるかわからん怖さはあるな。
『そうだろ!? やめとけって! な?』
………そこまでいうなら今回は見送るけど。なんでそんなに必死なの?
『それは、お前、そのアレだ、………もー! いいだろ別に!! いい加減にしないと怒るぞ!!』
わかったわかった、落ち着けって。でも今後の参考として料金は教えてもらうからな。それくらいいいだろ?
『知るか! 勝手にしろ!!』
この間通常の時間感覚では約五秒ほど。【思考加速】のまったくの無駄遣いだ。
俺はこの後料金とオプションを確認した。それは俺が思っていたよりもリーズナブルな料金で、かつ豊富なオプションが選択可能であったということを魂に刻んでおく。
そして、話を聞けば聞くほど夢が広がっていく。
でもタマムシがなんか怒ってるしなぁ。うーむ。それに娼館の経営は当然〈山猫〉が絡んでるだろう。敵地のど真ん中にいるのと同じだ。さすがに自重した方いいか。
「あの、すみません。やっぱり次の機会にお願いします。これでなにかおいしい物でも食べてください」
俺は数枚のコインをターシャに渡した。それは一回の基本料金に少し色を付けた金額だ。
「ええ? このお金で遊んでいけばいいのに。他の娘を紹介しようか?」
「いえ、ターシャさんは俺にとって内角低めのスライダーでした。もし機会があれば次は必ずフルスイングしますので……」
「……いや、ちょっとなに言ってるかわかんないけど、アンタ大丈夫? 泣いてんの?」
泣いてなんかないやい。ちょっと心が汗をかいただけ……。
俺はメイを連れてトボトボと物置小屋に向かった。
「え? やんなかったの? ………まさかとは思うけど、オレを狙ってるのか? ……変態?」
そしてこの仕打ちである。しまいにはホントに泣くぞ。
「冗談だよ。………いや、マジでそんなんじゃないよな!?」
「ちーがーいーまーすー! 一応追われてる身だから用心しただけだっつーの」
「そっか、確かにそれもそうだな」
ユイはそう言って納得した後、簡単な食べ物を用意してくれた。チーズと野菜のサンドイッチみたいなものだったが普通に美味い。
「食い物は普通なんだな。もっとなんていうか粗末な感じのものを想像してたんだけど」
相手が少年ということ言うこともあり、普段なら聞きにくいことをつい聞いてしまった。
「オレらの仕事はこの帝都中のゴミとクソを集めることさ。オレらがきちんと仕事をしなかったら、この帝都はあっという間にゴミとクソで溢れかえっちまう。オレらの事をバカにしてても、それは皆わかってるってことさ」
帝都のゴミ収集や汚物の回収はいつの間にかスラムに住む人々の仕事になったそうだ。半官半民の様な元締めが取り仕切りを行い、働いた分だけ報酬が貰えるという。真面目に働けば、贅沢はできないが普通に暮らしていけるほどの収入は得られるらしい。
それ以外にも収集先の住人や商店の従業員からチップや食料の差し入れがあるという。当然気前のいいところのゴミ箱は奇麗にするし、まめに足を運ぶことになる。逆にあまりにも態度が悪いところには収集に行かなかったりするらしい。
もし収集をボイコットされると、自分たちで処理施設まで運ぶしかない。ゴミはともかく汚物は大変だ。
そいうこともあり、白い目で見てくるのはだいたいがよそ者か世間知らずの貴族の様な者で、帝都に根を張っているような住人からは無碍な扱いを受けることは無いという。
「まぁ、人の嫌がる仕事でも、誰かがやらなきゃなんねぇってことさ。それに、クソ集めで家建てたやつもいるって話だぜ。クソ御殿だな」
ユイはそう言って笑いながらパンをかじっている。
大変勉強になる話ではあったが、食事の時にクソを連呼するのはいかがなものか。
そんなことを考えながらメイにお茶を入れるようにお願いする。小屋の中には火口が無いので、小屋の外で焚火をしながら今後の事を話し合うことにした。
「門を通らずに……身分証を使わずに帝都を出る方法がある?」
「うーん、幾つかは思いつくけど、危険だったり金がかかったり、だな。それ以外の方法だと時間がかかる」
「一通り教えて」
さすがスラムの住人といったところか。ユイが知らないようだっら、知ってそうな人を紹介してもらうつもりだったけど。
「まず一つ目は、帝都の壁の外に通じてる地下道があるんだ。〈裏口〉って呼ばれてる。門番みたいなやつらがいて、金さえ払えば身分証がなくても抜けれる。二つ目はそれ以外の抜け道。文字通り壁の穴みたいなやつとか見張りの死角みたいなところだな。ただ、そんな場所には大抵追いはぎやゴロツキが網を張ってる。みぐるみを剥がされるくらいで済めばいいけど、へたすりゃ殺される。三つめは、偶にだけど壁の外での大きな工事に大勢の作業員を募集することがある。チェックが甘いからそれに紛れてって方法。だけど、その手の工事はだいたい冬にあるから、これは望み薄だな」
ふむ。三つめは論外としても、まず一つ目の〈裏口〉ってやつ。これは使えない。俺が〈山猫〉ならその〈裏口〉に真っ先に網を張る。それどころか、その〈裏口〉を取り仕切ってるのが〈山猫〉だということもありそうな話だ。
二つ目の、抜け道、というやつもあまり変わらない。というか追いはぎとか嫌だなぁ。殺す気で襲ってくるんでしょ?
戦うのが嫌で逃げてるのに、そんなのと戦う羽目になったら本末転倒というか。それならおとなしく武術大会に出場した方がまだましかもしれない。
つくづく〈山猫〉が敵に回ってしまったことが悔やまれる。それがなければもう少し簡単に事が運べたはずだ。
いっそランシスの身分証で門を抜けてどこかの村に身を隠すか。
「あー、そういえば、もうひとつあるっちゃあるな。金もかかるし運も絡む。でも、オレはそっちはあんまり詳しくねぇからなぁ」
俺が考え込んでいるとユイが思い出した様な口調で言った。
俺はあまり期待しないように意識しながらユイに続きを促した。
「船だよ。貨物船に潜り込むのさ」




