一緒に溺れてみようか02
一緒に溺れてみようか02
※サイトにてリクエストを頂き、書いたものです
クラス中が色めき立っている。配られたプリントを見れば、課外授業の行き先である遊園地の名前と注意事項がずらずらと書かれていた。全寮制という箱庭の中から大手を振って外に出られるという数少ない機会なのだから、皆が高揚してしまうのは当然と言えば当然なのだが。
(めんどくさいな)
梓の感想はただそれだけだった。
「めんどくせーな」
「そうだね。でも俺は行くよ」
行き先が娯楽施設とはいえ、名目上は授業なので当然単位も発生する。体調もすっかり良くなった梓の頭の中には休むという選択肢はなかった。友達は一人もいないので楽しめないことは分かり切っているのにとことん真面目な人間なのだ。今日は木曜日で木戸と寝る日だった。木戸の力強い腕の中で熱い吐息を漏らしながら、梓はそっと瞳を閉じる。シトラスの香りに包まれると酷く安心して、そのまま木戸に縋ってしまいそうになるが、梓の細い腕は最後まで木戸の逞しい背中に回ることはなくシーツを掴んで堪えてみせた。うっすらと生理的な涙が滲む双眸で木戸を見上げれば、彼の特徴である赤色の髪が律動に合わせて炎の様に揺れているのが分かる。綺麗だな、と胸の中が甘く疼いた。欲情した木戸の端正な顔が実に色っぽくて、自分を求めてくれるのが嬉しくて、このままキスを強請ってみたくなる。
(馬鹿みたいだ)
梓はそんな自分を心の中で叱咤しながら頭を振った。シーツの海に溺れてしまったかのように上手く呼吸が出来なくて、たまらず眉間に皺を寄せる。
(苦しい、な……)
梓と木戸の関係はあくまでも身体だけで繋がっているのだ。梓が甘えてしまえばきっと、課外授業の話ではないが面倒くさいと切り捨てられてしまうだろう。熱にうなされ、意識朦朧としていたあの日のことを思い出す。手の平から伝わってきた優しい感触。鼻腔を擽った仄かなシトラスの香り。夢の中では関だと勘違いしてしまったが、あれは木戸だったのだ。木戸の思わぬ行動に最初こそ驚いてしまった梓だが、考えてみれば木戸は本来とても優しい男かも知れないと思い返した。梓への苛めには荷担しないし、時折失恋した痛みを思い出しては漏れ出てしまう梓の悲痛な叫びをただ黙って最後まで聞いてくれた。木戸の優しさはいつだってさり気ない。決して押し付けがましくなく、自然に振る舞うから風の様にするりと吹き抜けていってしまう。気付いた時には香りだけが梓の腕に残っていた。
(どうすればいいんだろう……)
関としか恋愛経験のない梓には身体から始まる恋愛など難問過ぎた。振られはしたがちゃんと付き合っていた関とはキス止まりで、付き合ってもいない木戸とは身体だけを繋げているなんて、自分の恋愛は実に奇妙だなと梓は苦笑してみせる。不意に木戸と目が合った。木戸は梓本人よりも梓の身体を隅々まで知っているのだろう。
(きもち、いい)
始めの頃は痛みしかなかったが、いつの間か快楽しか感じなくなった。木戸とずっと寝ていたい。身体だけでもいいから捨てられたくはない。祈るようにそう願ってしまう梓は、セックスが終わると木戸にお金を渡すことを辞めなかった。そこには木戸に甘えてはいけない。自分の気持ちを決して知られてはいけないという自戒が込められていた。
梓は一人何をするでもなく、遊園地の敷地内にあるベンチに腰を掛けていた。
(寒いな……)
穏やかな気候といえ、春の季節に薄いシャツ一枚だけでは心許ない。着用していた学校指定の白いブレザーは、意地悪なクラスメイト達に特大サイズのオレンジジュースを引っ掛けられ本来の用途をもたなくなった。幼稚過ぎる虐めへの感想はくだらない、ただそれだけだ。
(温かい飲物でも買ってこようかな。それかどこかのレストランに入ろうか)
集合時間までまだたっぷりと時間がある。ベンチから立ち上がろうとした時、梓の動きが止まった。
(木戸と……川崎先生)
人混みの中でも目立つ二人は一枚の絵のようで実にお似合いだった。ズキリ、と鈍器で殴られたかのような衝撃が落ちる。虐めには動じなかった梓の心は激しく揺れ出し、そのままバラバラに砕け散りそうだった。川崎を見る木戸の瞳は実に穏やかで梓はすっかり惨めになる。木戸はあんな笑顔を自分には向けてくれない。梓はよろよろしながらベンチから腰を上げるとそのまま走り出した。どれぐらい走っただろう。肩で息をするのも億劫になるぐらい疲労した時、誰かの手に腕を絡め取られた。一体何が起こったのかと眉を顰めて正体を探ろうとした梓の双眸がこれ以上ないくらい見開かれる。
「りょう、ちゃん……?」
自分は夢でも見ているのだろうか。いるはずのない人物が突然目の前に現れたので、ただただ呆気に取られてしまった。関も同じように思っているのか、梓の顔を穴があくほど見つめた後、ぽつりと呟いた。
「本物、だよな?」
「涼ちゃん……、どうして?」
何故関がこんな所にと考えを巡らせて、そう言えばここは遊園地だったことを思い出す。何という偶然だろうか。
「おーい、涼壱。何なんだよ、いきなり走り出して」
「知り合いの子?」
関の友人達だろう。ぞろぞろと男女五人に囲まれた。どの顔も見覚えはなく、関の新しい恋人の姿も見当たらなかった。梓は不思議に思いながらも「それじゃあ」とその場から逃れようとするががっちりと関の手に掴まれたまま解放してくれない。
「悪い。俺、このまま抜けていいか?」
「えー!!」
「いきなり何よそれえ!?」
「ほんと悪い!」
関の言い分に梓はぎょっとした。まさかとは思ったがそのまさかで、大ブーイングを受けながら関に引きずられるようにして比較的人の少ないエリアへと連れて行かれた。
ベンチに座ると関が今し方まで着ていた上着を差し出された。
「そんな薄着じゃ風邪をひくよ」
「そんな、いいよ」
言いながらオレンジジュースで汚れてしまったブレザーを隠すように握り締める。関には虐められてることを知られたくなかった。
「いいから。あずは滅多に熱を出さない分、熱が出たら可哀想なくらいうなされちゃうから」
「りょう、ちゃん……」
優しい言葉にどうしていいのか分からなくなって身体を縮こませた梓の肩に関の上着が掛けられる。ふわり、と鼻を擽ったのはあまりにも懐かしい香りだ。ずっとずっと焦がれてきた、大好きな香り。でも──……。
「あずは会いたくなかっただろうけど、俺は会いたかった」
「…………」
「俺から振ったのに勝手だって分かってる。でもあずと別れてあずの大切さに気付いたんだ」
「…………」
「なんて、言葉では何とでも言えるな。俺もう一度あずに好かれるよう頑張るから、あずを守るから……だから」
「俺の傍に帰ってきて、あず」
さすが幼なじみと言うべきか、関はきっと梓の置かれている立場を察しているのだろうと思った。苛められているのだ。今の境遇はあまり良いものではない。関はそれを見越した上で梓の負担にならない言い方で守ろうとしてくれている。梓をもう一度求めてくれている。だけど──……。
「俺は、涼ちゃんの元には」
「篠原!」
「木戸?」
「何をしてる? もう直ぐ集合時間だ」
話終わる前にズカズカと目立つ髪色を靡かせながらで梓と関に割り込んできたのは木戸だった。どこか苛立ってるような印象を受ける。川崎と何かあったのだろうか、と思い至って梓の心はちくりと痛んだ。それにしても今日は皆、強引な日だ。先程の関と同じように今度は木戸に腕を取られてしまった。しばらく木戸の好きにさせた梓は「上着!」と思い出して関の方を振り返る。上着を脱いで関に返そうとすれば、関はゆったりと笑って頭を振った。
「薄着はダメだって言ったろ。また来週ここに来て返してくれればいいから」
「えっ? そんな……今返すから」
「それは困るな」
関の物言いに梓の方が困ってしまう。木戸は困惑した梓の手から関の上着を掴みとると関に向かって乱暴に投げ捨てた。
「返す。ほら行くぞ、篠原」
「え!? あ、うん」
木戸の腕からようやく解放されたのは関の姿がすっかり見えなくなってからだ。二人の後を追い掛けて来なかった関がうっすらと笑っていたのが引っ掛かるが梓の気は直ぐに逸れてしまう。ここに人影はなかった。アトラクションと大分離れた裏手の方まで来てしまったようだ。引きずられている最中は抵抗しなかったが、このまま黙っているつもりはなかった。あまりに横暴な木戸の態度に抗議しようとした梓だが出鼻を挫かれることになってしまった。梓の肩に今度は木戸のブレザーが掛けられたのだ。優しくしないで欲しいと梓は下唇を噛みしめる。木戸が優しくすればいい相手は川崎じゃないかと、やさぐれるように思った。脳裏から消したくても消えてくれない、木戸と川崎の仲睦まじい姿に胸が張り裂けてしまいそうだ。優しくされるのがこんなにも辛い。ブレザーからに香ってきたシトラスの香りに梓は泣きそうになって、たまらず想いを吐き捨ててしまった。
「もうやだ。木戸とは寝ない」
木戸は呆然とした顔で梓を見た。まるで捨てられた子犬の様に瞳が大きく揺れている。傷付けてしまったのを瞬時に理解したが、梓だって同じぐらい傷付いていたしそもそも木戸が何に対してそんなに動揺しているのかが分からない。
「あの男のことがまだ好きなのかよ?」
ふるり、と首を振って否定する。木戸の柳眉がぴくりと動いた。
「じゃあ何故だ?」
「木戸には川崎先生がいるでしょう?」
自分の声が大きく震えているのを自覚すれば、もうダメだった。それまで張り詰めていた糸がぷっつりと切れてしまったように梓の瞳からはボロボロと涙が次から次へと溢れ出す。一度ひっくり返してしまった感情は行儀良く戻ってはくれなくて、子供みたいにわんわん泣いてしまった。もう本当に何もかも終わりだと思った。木戸に気持ちがバレてしまっただろうから二度と梓とは寝てくれないだろう。泣きじゃくる梓に木戸の両腕が伸びてくる。駄々っ子の様に抵抗してみせたが、木戸は優しい仕草でそれを受け止めた。
「川崎先生とはもう何でもない」
「さっき、楽しそうに喋ってた、もん」
嗚咽を漏らしながらも唇を尖らせる。
「あれは川崎先生が言ったからだ。“木戸は新しい恋をしてるんだね”って」
「あたらしい、恋?」
じ、と木戸を見つめた梓は言葉の意味を租借しようとする。泣き過ぎた所為で、すっかり鈍くなっている頭を唸らせてふ、と思い当たった。梓の顔が真っ赤に火照る。
「もしかしてその、相手は……」
「もしかしなくても篠原だぜ?」
木戸も照れてるのか、それを誤魔化すように悪戯っぽく笑う。両耳に付けられたピアスがキラリ、と光った気がして梓の心はきゅんと高鳴った。涙はすっかり引っ込んだ。先程まで散々泣きわめいたくせに現金なものだと思いながらシトラスの香りを意識した梓は、そっと瞼を閉じる。木戸の唇は直ぐに落ちてきた。木戸と交わした初めてのキスは、お互いの緊張が伝わった為かどこか辿々しい。二人は顔を見合わせて笑ってしまった。