虹色湖(2)
「ここは人々の想い出が眠る場所。想い出は時たま風が吹く様に現れて、湖越しに眺めるから、どれも美しいのです。決して、その中に手を伸ばそうなどと考えてはいけません」
湖の方から波の揺れる音に混じって、小さな声が聞こえてきた。
声は聞こえるのだが、姿は見えない。
私が辺りを見回していると、足元で何かが、ガサガサと草むらを掻き分ける音がした。
私が膝を曲げ、草の間を覗き込むと、薄茶色の長い髪が見えた。
間違いなく人の頭だが、背丈は私の膝までもなく、おとぎ話に登場する小人を思い起こさせた。
私がいくつかの草を手でどけてやると、小人は一瞬私の顔を見上げ、お辞儀をするような格好で、草むらの外へ足を踏み出した。
長く美しい髪に、最初は女性かと思ったが、よく見ると男性的な顔立ちをしている。
両目は閉じられ、手には白い杖を持っているのが印象的だ。
埃にまみれた衣をまとっているが、汚らしい印象はない。
「今のは、君が喋ったのかい」
私は腰を曲げたまま、小人に尋ねた。
小人は少し微笑み、軽く頷いてから、私に尋ね返した。
「あなたは、何を捨てにこの場所に来たのですか」
風が草を撫でる様な、か細く軽やかな話し声だ。
「私はただ電車に乗っていて、気づいたらこの場所にいたんだ。
目的があって、ここにいるわけじゃないんだよ。
それより君は、この場所に詳しいのかい。
それなら、帰り方を教えてもらえると助かるんだけど」
振り返っても私の乗ってきた電車は影も形もなく、電車を運んできた線路さえ消えてしまっていた。
「ここから帰る、それは難しいことではありません。
目的もなく、この場所に辿り着くことはあり得ないのですよ。
あなたがこの場所でやるべきことを行えば、あとは望む望まないに関わらず、自然ともといた場所に帰っていく、そういう決まりなのです」
小人は顔を真っ直ぐ私に向け、閉じられた両目を通して、私の心の奥を覗き込んでいるようだった。
頭上では太陽の下を幾つかの雲が横切っていく。
陽の光は地上を照らし、薄茶色の小人の長い髪が風に揺れ、金色に輝いていた。
「あなたは深い悲しみを抱えてこの場所を訪れたのですね。それは、大切な人との別れでしょうか。
悲しみがあなたの身体を締め付けているのが分かります。
それがあなたがこの場所を訪れた理由ですね。
さぁ、その悲しみを湖に沈めてしまいましょう」
そう言うと、小人はキラキラと虹色に輝く湖を指差した。
私はその言葉をしばらく心の中で反芻すると、深く息を吸い込んだ。
「君の言うとおり、確かに私は大切な人との別れ、そういう悲しみを抱えている。
長く私を苦しめている、ある種の呪いの様なものと言えるかもしれない。
それを湖に沈めるということは、この悲しみを美しい想い出として、あの光の一つに変えてしまうということなんだね」
私はもう一度湖へ視線を移す。
様々な色が混じり合った、幻想的な美しさだけが揺れていた。
「残念だけど、この悲しみはあの場所に沈めてしまうわけにはいかないんだ。
美しいだけの想い出には変えられない」




