虹色湖(終)
小人は黙って私の話に耳を傾けていた。
「あなたをこの場所に呼んだのは、間違いなくその悲しみです。
あなたの心や身体が悲しみを抱えきれなくなったからでしょう。
しかしあなたは、その悲しみを手放すことは出来ないという。
矛盾していますね」
小人は少し微笑み、軽く頷いてから、私に尋ね返した。
「抱え切れない程の悲しみだから、簡単に想い出にしてしまってはいけないこともあるんだ。
この悲しみや苦しみは私だけのものなんだから。
悲しみや苦しみは、人生において、ある意味では同じ価値を持つと思うんだよ、私は」
誰かに話すというよりも、自分自身に語りかけるような、一語一語が湿りけを含んだ声だった。
「そうですか、あなたのお考えは分かりました。
しかし、困りましたね。
先ほども申し上げた通り、この場所を抜け出すには、記憶を想い出に変えなければいけません。
しかも、記憶なら何でも良いという訳でもない」
あまり困っている風ではないが、小人は口元に手を当てて何事か考えている、という様子を見せている。
「それではこういうのは、どうでしょうか。
この湖には、辛い記憶の他に、手放したくない幸せな記憶を沈めることもできます」
「幸せな記憶を沈めても、ここから出ることが出来るのかい」
尋ねる私の勢いを受け流すような形で小人は続けた。
「帰ることは出来ます、が、一つだけ違うことがあります。
楽しい記憶を沈めた場合には、その記憶はあなたの中から永遠に失われてしまい、二度と浮かんでくることはありません。
喪失感だけが心のぽっかり空いた場所に残るのです」
ゆっくりと波打つ湖は、私の決断を今か今かと待ちわびているようだ。
風が強く吹き、足元の草を巻き上げた。
小人は微動だにせず、無言で私に問いかけてくる。
私は両方の手に乗せられた記憶を眺めた。
一方は陽だまりの様な温もりを感じさせ、もう一方は手当たり次第に水彩絵具を掛け合わせたような鈍色をしている。
しかし、どちらの記憶も同じだけの質量を持っていた。
私はゆっくりと湖には向かって足を進めて行く。
小人の顔にはどこか楽しげな色が揺れている。
手を伸ばせば、湖に手が届く場所まで来ると、私は足を止めた。
ひとつ大きく息を吐き出す。
私にとって過ぎ去った時間は、これから訪れる未来よりも捨てがたいものになっていたことに気づいた。
水面には苦悩する年老いた私の顔と、いつかの青空が映っていた。




