第8話 監査官を追放した王宮では、代金の支払いさえ誰にも出来ない
「王宮で、七十三件の支払いが止まっています」
収穫月三十日。王太子の使者は、クローデン城の評議室でそう告げた。
軍務庁では支払済み、財務庁では未払い。同じ請求番号が別の名目で記録され、七十三件のうち、どれが未払いでどれが重複なのか判定できないという。
「なぜ私へ、それを?」
「レーヴェル監査官が使っていた照合表を、誰も再現できないためです」
王宮を追放されて二十三日。フィオナが毎月突き合わせていた二つの台帳は、別々の部署で正しい数字を示したまま、同じ支払いを二度通そうとしていた。
王宮から求められたのは、照合表の作り方と北方五領が保管する証拠の提出だった。
だがフィオナの目的は、困った王宮を見捨てることでも、無条件に救うことでもない。七十三件の誤払いを止めながら、証拠を二度と消されない形で王太子へ届けることだった。
「原本は渡せません」
使者の顔がこわばる。
「照合方法は開示します。ただし、五領の立会人が王宮で同じ結果を確認することを条件にします」
「王太子殿下の命令でも?」
「殿下にこそ、消されていない記録を見ていただく必要があります」
アーヴェルは口を挟まず、フィオナの回答が終わるまで待った。
「クローデン辺境伯家は、その条件を保証する」
最後に自らの印を押した。
◇
午後、前話の共同監査から城に残っていた北方五領の財務官が、再び評議室へ集まった。
五領の薬代、支払命令、商会の請求書を同じ日付ごとに並べる。文書番号〈財契調・四一七号〉は、すべてに記載されていた。
問題は、三重払いを実際に処理した者である。
「次官の決裁印があっても、個々の送金までベルナール様が行うわけではありません」
フィオナは王宮から届いた七十三件の一覧を見た。
各支払いには、命令書を受理した者、金額を確認した者、送金を許可した者の記号が残る。
七十三件のうち六十一件に、同じ確認記号があった。
〈契調主・SM〉
「契約調整室の主任確認官、セドリック・モーンです」
王宮にいた頃、フィオナも何度か書類を戻した相手だった。仕事は速いが、北方特別契約を理由に原本を見せたがらなかった。
「この者が主犯なのですか」
「まだ分かりません」
フィオナは六十一件を、さらに三つへ分けた。
軍務庁から指定商会への支払い。
財務庁から同じ商会への支払い。
各領へ送られた立替金命令。
セドリックは三種類すべてを確認している。一件ごとの間違いなら気づかなくても、同じ番号が三度現れることには気づける立場だった。
「少なくとも、偶然の重複だとは主張できません」
五人の財務官が、それぞれ自領の原本へ確認印を押した。
北方五領共同監査が、正式に成立した。
◇
王太子の使者は、もう一通の文書を持っていた。
ベルナールの決裁印が偽物ではないか確かめるため、王宮印章局が保管する印影を写したものだ。
重ねると、大きさも文字の間隔も一致した。
「正規の印です」
マルタの言葉に、部屋が静まる。
ベルナールが内容を読まずに押した可能性は残る。だが少なくとも、何者かが勝手に彼の名を使った文書ではなかった。
「こちらも確認していただけますか」
使者が続けて取り出したのは、フィオナの監査印が押された偽造帳簿の写しだった。
見るだけで胸が縮む。自分を王宮から追い出した証拠である。
フィオナは本物の監査印を取り出し、紙へ押した。二つの印影は、ほとんど同じだった。
「複製に使える印影を、どこへ残しましたか」
アーヴェルに問われ、記憶をたどる。
監査報告、支払停止書、書庫の閲覧許可。どれも保管先が違う。
「地下書庫の閲覧許可書です」
軍務庁の原本を確認するため、ベルナールへ提出した書類だった。許可を得るには、先に監査印を押さなければならない。
使者が持参した保管記録では、その許可書を受け取った者もセドリックだった。
フィオナは二つの印影の左端を指した。
偽造印には、本物にない細い突起がある。
「閲覧許可書へ押したとき、紙の繊維が一本、封蝋へ入りました。複製印には、その繊維が作った溝まで反転して残っています」
本物の金属印から型を取ったのではない。閲覧許可書に残された蝋の印影から複製したのだ。
「セドリックが印を作った証明にはなりません。しかし、複製元を管理していたことは証明できます」
王太子の使者は偽造印の写しと保管記録を封筒へ戻した。
「殿下は、あなたの免職審問を再調査すると仰せです」
胸の奥で何かが揺れた。
待ち望んだ言葉のはずだった。
けれどフィオナが先に見たのは、机に並ぶ五領の原本だった。
「私の名誉だけでなく、この支払いも調べてください」
「そのために参りました」
使者は初めて、王太子自身の書状を開いた。
そこには、北方五領の立会人を受け入れ、原本を各領に残したまま王宮の帳簿を開示すると記されていた。
◇
共同監査の使者が出発する前夜、指定商会から通告が届いた。
独占契約の停止を不当とし、クローデン領への塩、薬、油の出荷を即日止めるという。
「五領すべてに同じ通告が来ています」
マルタが読み上げる。
冬の備蓄は、小麦だけあっても足りない。特に塩が止まれば、肉の保存ができなくなる。
評議員たちがざわめく中、アーヴェルはフィオナへ尋ねた。
「必要な期間は?」
「代替の供給先と在庫を確認するまで、二日ください」
「分かった。二日間、領内の買い占めと便乗値上げを禁じる。商人への説明は俺がする」
命令を出すと、彼は六つの証拠箱へ護衛を一人ずつ付けた。
「五領へ運ぶのは写しだけだ。原本は別々の金庫へ残す。君が王宮で失った証拠を、今度は一枚も失わせない」
約束を言葉だけで終わらせない人だった。
フィオナは代替商会の一覧を開こうとした。
そのとき、城門で馬の蹄が激しく鳴った。
王都へ向かった共同監査の使者が、一人だけ戻ってきた。
「南街道の宿場で、王宮の役人を名乗る二人に止められました。証拠箱を渡せと」
男たちが示したのは、近衛隊による緊急押収命令だったという。
使者は原本を領内へ残す取り決めを理由に拒み、護衛と引き返してきた。
差し出された命令書を、フィオナは明かりへかざした。
王宮の正式な押収命令なら、対象物、押収理由、返還期限の三つを記す。ところが、この書類には対象物しかない。
代わりに、こう書かれていた。
〈財契調・四一七号に関する文書一式〉
「偽造文書です」
「印は本物に見えました」
「だからこそ不自然です。近衛隊の命令書に、財務庁の文書番号を直接記すことはありません。財務庁から近衛隊へ出した要請番号が必要です」
様式を知っていれば、偽物だと分かる。
フィオナは末尾の受付記号へ目を留めた。
〈契調主・SM〉
七十三件中六十一件の支払いを確認し、監査印の複製元を管理していた者と同じ記号である。
「四一七号を知り、セドリックの受付記号を使える者が、証拠を取り戻そうとしています」
指定商会の供給停止と、偽の押収命令。
共同監査が王都へ届く前に、二つの方法で止めようとしている者がいた。




