第4話 空の倉庫と高すぎる小麦
「千百二十袋は盗まれていません。捨てられたんです」
記録係のニナは、穀物倉庫の床に残る黒い染みを指さした。
収穫月二十一日の朝。帳簿では三千六百袋あるはずの冬用穀物は、二千四百八十袋しかない。不足していたのは、すべて小麦だった。
兵舎や救護所へ一日二十袋を配れば、百二十四日で尽きる。雪解けまでに必要なのは百八十日分。五十六日、ちょうど千百二十袋足りなかった。
フィオナの目的は、犯人を見つけることではない。小麦が減った理由を確定し、残った二千四百八十袋を守り、不足分を冬までに確保することだ。
「捨てたところを見たのですか?」
「はい。夏の終わりに、荷運びの人たちが何日も運び出していました。腐った匂いがして、皆、鼻と口を布で覆っていました」
ニナは当時、倉庫長から近づかないよう命じられたという。
フィオナは床へしゃがんだ。壁際の木箱を動かすと、その裏だけ石が湿っている。見上げれば、梁にも雨水が流れた跡があった。
「この上に、何袋積まれていましたか」
「七段です。この壁一面に」
マルタが保管図を広げ、列と段数を掛ける。この一画を七段まで埋めれば、最大で千百二十袋を置ける。
「不足分と同じ数です」
盗難ではない。雨漏りで濡れ、食べられなくなった小麦が処分され、その事実だけが帳簿から消された可能性が高かった。
◇
倉庫長のハンスは、呼び出されると処分を認めた。
「腐った小麦を配れば病人が出ます。焼却した判断は間違っていません」
「では、なぜ記録しなかったのですか」
「金貨四千八百枚分の仕入れを任された直後でした。千袋以上を駄目にしたと報告すれば、私だけでなく部下まで職を失うと思った」
彼は三度、屋根の修理を申請していた。しかし先代辺境伯の死と相次ぐ支払いで、申請は保留されたままだった。
焼却記録には、一台二十袋を積んだ荷車を五十六回動かしたとある。合計は千百二十袋になる。
「帳簿が正しければ、冬を越せることになっていました」
ハンスは両手を握りしめた。
「実物が足りないと分かっていても、私が黙れば、その間に豊作か援助があるかもしれないと……」
「ありません」
フィオナが告げると、彼の肩が落ちた。
「帳簿へ書かなかっただけで、小麦は戻りません。発見が遅れるほど、買い直す値段が上がります」
責める言葉が強くなった。自分を陥れた偽造帳簿と、目の前の隠蔽が重なったのだ。
そのことに気づき、フィオナは息を整える。
「ですが、腐敗した小麦を配らなかった判断は正しいです。焼却記録と修理申請を提出してください。処分は、改善策を決めた後に領主が判断します」
「私を、すぐ解雇しないのですか」
「私に人事権はありません。それに今必要なのは、倉庫を最もよく知る人です」
ハンスは顔を上げ、今度は隠さず話し始めた。
雨水は北壁から入り、床へ直接積んだ袋に染み込んだ。換気口も二つ塞がっている。原因が分かれば、対策は難しくなかった。
そこへ、修理申請を確認していたアーヴェルが入ってきた。
「三度の申請はすべて事実だ。最後の一通は、父が倒れた直後に届いている。引き継ぎから漏らした責任は俺にある」
「辺境伯様の責任では――」
「領主の執務室で止まった書類だ。俺の責任でなければ、誰の責任になる」
アーヴェルはハンスへ向き直った。
「ただし、廃棄を隠した責任まで消えるわけではない。倉庫の改善が終わるまで役職は保留する。働きで、今後も任せられるか示してくれ」
「はい」
庇うだけでも、切り捨てるだけでもない。アーヴェルは自分の責任を引き受けたうえで、ハンスにも償う機会を残した。
袋を木製の台へ載せ、壁から離す。塞がった換気口を開け、屋根は城付きの大工が補修する。作業中はハンスが全袋を再点検し、ニナが数と状態を別々に記録する。
「この記録なら、失敗も残ります」
フィオナが新しい様式を渡すと、ニナは大きくうなずいた。
その日の正午までに換気口は開かれ、残った袋はすべて木台の上へ移された。屋根の応急補修も始まり、二千四百八十袋から新たな腐敗は見つからなかった。
◇
不足分を買うため、フィオナは近隣六商会の在庫と価格を調べた。
三商会は余剰なし。二商会は春までに到着できない。冬前に千百二十袋を揃えられるのは、クローデン商業組合だけだった。
値段を競わせる余地がない以上、支払い方法で条件を変えるしかない。
「足りない千百二十袋なら用意できる。北へ運ぶ費用を含め、金貨四千八百枚。全額前払いだ」
商業組合長ダリオ・グレンは、値引き交渉を切り捨てた。
金貨四千八百枚は予算に入っている。それでも全額を今払えば、手元の現金六千二百枚はほとんど残らない。兵の給与も、薬も買えなくなる。
「南部での相場より、かなり高額です」
「それは南部の平時価格だ。今から千袋以上を北へ集めれば、運賃も保管費もかかる」
ダリオの提示には根拠があった。領地の窮状につけ込んだだけの価格ではない。
「それに、クローデン領は薪代まで滞納している。信用だけで貸すわけにはいかん」
値下げを求め続けても、彼が損をするだけだ。
フィオナは交渉卓の上に、別の在庫表を置いた。
「領営牧場に、洗浄済みの羊毛があります。春の王都相場なら金貨三千八百枚。こちらを金貨三千二百枚として受け取っていただけませんか」
「残り千六百枚を現金で払うと?」
「はい。羊毛は二十日以内に引き渡します。春に王都で売れば組合にも利益が出る。領地は冬を越すための現金を残せます」
ダリオは在庫表を見たが、すぐには答えなかった。
「羊毛の品質を、誰が保証する」
「私が数字だけで保証しても意味はありません。明日、あなたの鑑定人に全量を確認してもらいます。基準を下回った分は、現金へ切り替えます」
「随分と商人に有利な条件だな」
「不利な条件では、次の取引ができませんから」
ダリオの口元が初めて緩んだ。
「その報告書だけで、羊毛の買い手まで分かるのか」
「昨年の輸送記録に、春の王都で売った価格と仲介先が残っています。私が知っているのではなく、記録を残した方が知っていたのです」
同席していたマルタが咳払いをした。その顔には、隠しきれない満足が浮かんでいた。
◇
アーヴェルは交渉中、一度も価格へ口を挟まなかった。
ダリオが席を外した後で、羊毛の在庫表を手に取る。
「この条件で、領地は損をしないのか」
「王都へ運んで売れば、輸送と仲介に金貨三百枚ほどかかります。ここで三千二百枚と評価しても、組合には金貨三百枚ほどの利益が残ります」
「分かった。羊毛を動かす許可は出す」
アーヴェルは余計な指示を加えず、資産移動の許可書だけに署名した。
「交渉は君に任せる。だが、品質不足が出た場合の現金支払いは俺の名で保証しよう」
フィオナが負うべき計算の責任と、領主が負うべき信用の責任を分けたのだ。
戻ってきたダリオは、二人の署名を確認した。
「五日間だけ、千百二十袋を取り置こう。羊毛の品質が確認できれば、この条件で売る」
不足分を確保する道筋はついた。
だが、契約書を閉じかけたダリオが、別の書類を取り出した。
「その前に一つ、片づけてもらう問題がある」
王宮財務庁の印が押された、北方防衛共同調達契約の写しだった。以前、ダリオが領地へ穀物を売ろうとした際、取引を拒む根拠として渡されたものだという。
「クローデン領は王宮指定商会以外から、穀物と軍需品を買えない。破れば違約金は金貨一万枚だ」
しかも指定商会が示してきた同量の穀物価格は、金貨六千二百四十枚。ダリオより三割も高い。
取り置きの期限は五日。
その間に、この契約を違約金なしで止めなければ、確保した小麦を買うことはできない




