第2話 三か月後に破産する領地
「薪の代金を、春まで待ってくれと?」
クローデン城へ着いたフィオナを迎えたのは、怒鳴り声だった。
収穫月十八日。王都を出て十日。雪の気配を含んだ風が吹く中庭で、荷車を連れた商人が門衛へ詰め寄っている。
「去年の冬の分さえ残っている。これ以上は一束も渡せん」
城の窓には灯りが少なかった。使用人は廊下の燭台を一本おきに消し、暖炉も客間にしか火を入れていない。
三か月後に資金が尽きる。
招請状にあった言葉は、誇張ではないらしい。
フィオナは旅装も解かず、案内役へ告げた。
「辺境伯様へお目通りする前に、現在の現金残高と、今月中の支払予定を見せてください」
まず確かめるべきは、領地が貧しいかどうかではない。いつ、何の支払いができなくなるかだった。
「王都から十日かけて来て、挨拶より帳簿か」
背後から男の声がした。
振り返ると、濃紺の外套をまとった長身の青年が立っている。灰色の瞳はフィオナではなく、その手にある採用申込書へ向けられていた。
「クローデン辺境伯、アーヴェルだ」
「フィオナ・レーヴェルです。このたびは――」
「長旅への礼も、処分についての質問も後にしよう。今必要なのは帳簿だな?」
彼は案内役へ、財務室の鍵を持ってくるよう命じた。
躊躇のない言葉に、フィオナのほうが戸惑う。
「私の嫌疑について、確認なさらないのですか」
「確認する。君の話も、王宮が示した証拠も、その両方をだ」
無条件に信じるとは言わない。
「ただし、疑いがあることと、仕事を見ないことは別だ。俺は君を働かせるために呼んだ」
アーヴェルは財務室へ歩き出した。フィオナと並ぶと、急ぎながらも彼女の歩幅に合わせて速度を落とす。
「三年前の穀物庫監査を覚えているか?」
「はい。保管量と配給量が一致しなかった件ですね」
「君は倉庫番を処罰せず、領内ごとに違っていた計量升を統一させた。報告書にこうあった。『帳簿の不足を、人の罪と決める前に、同じ一杯を量っているか確かめるべきだ』」
一字一句、フィオナが書いた文だった。
「あの報告書で、不正を暴く者ではなく、原因を見つける者だと判断した」
擦り切れた表紙は、飾りではなかったのだ。
◇
財務室では、五十代の女性が帳簿を抱えて待っていた。
「財務官のマルタ・ヘインズです」
マルタは礼をしたが、視線は硬い。
「全帳簿を開示せよとのご命令ですが、反対です。王宮で帳簿を改竄した疑いのある方へ、金庫の中まで見せるなど」
胸の奥を刺されたように、フィオナの指が縮こまった。
当然の警戒だ。近衛兵に見せられた偽造帳簿が脳裏によみがえり、差し出された鍵を受け取る手が止まる。
「マルタの懸念は正しい」
アーヴェルは彼女を叱らなかった。
「だからフィオナ一人で金庫は開けない。必ずマルタが立ち会い、持ち出す資料は二人で記録する。それでどうだ?」
「辺境伯様が、そこまでお決めなら」
「フィオナも異論は?」
守るためにマルタを黙らせるのではなく、疑いを仕組みで解消する。その判断に、フィオナは止めていた手を伸ばした。
「ありません。そのほうが、私にとっても安全です」
二人の署名を記録簿へ残してから、金庫が開かれた。
現金残高は金貨6200枚。
年度予算だけを見れば、冬を越しても金貨千枚が残る計算になっていた。
「破産寸前には見えないでしょう」
マルタが言う。
「今年は不作でしたが、春まで持ちこたえる計画です」
フィオナは歳入予定表と支払予定表を月ごとに分けた。金額だけでなく、実際に金が入る日と出る日を一本の線へ書き込んでいく。
年度予算が収入に数えている金のうち、金貨七千百枚が入るのは春以降だった。冬の支払いには使えない。
三か月以内に入る税と関税は、金貨18700枚。
手元の六千二百枚を足しても、使える金は24900枚だ。
一方、同じ期間の支払いは金貨三万一千枚。
王宮への立替金返済が24000枚。冬用の穀物が4800枚。兵と使用人の給与などが2200枚。
「6100枚、足りません」
「税の一部を早く集めればいい」
「この予定表の税は、通常どおり集められた場合の額です。今年は不作なので、前倒しすれば春の種籾を売る家が出ます」
マルタが口を閉じた。
フィオナは日付を記した線の一点へ、赤い印をつける。
「新年月十九日。ここで残高がなくなります。およそ三か月後です」
「三か月後……」
アーヴェルが、招請状と同じ言葉を繰り返した。
「予測は聞いていたが、日付まで出せるとは思わなかった」
「支払いが予定どおりなら、です。ですが、薪商人への滞納が帳簿にありません。ほかにも記録されていない請求があれば、さらに早まります」
その直後、扉が叩かれた。
文官が新たな請求書を持って入ってくる。
「王宮財務庁からです。北方防衛物資の立替金、次回分を期限どおり納めるようにと」
書面に記された額は、金貨8000枚。
すでに予定表へ入っている24000枚の一部だ。それでも、支払期限はわずか十二日後だった。
◇
「すべての支払いを止めるおつもりですか」
マルタの声に警戒が戻った。
「いいえ。兵と使用人の給与、食料、薬、暖房は止めません」
フィオナは支払予定を四つに分けた。
暮らしを守る支払い。領地を動かす支払い。延期を交渉できる支払い。そして、根拠を確認するまで払ってはいけない支払い。
「今日届いた薪は、暮らしを守る支払いです。今季分は最優先で支払い、去年の残金は正式に帳簿へ載せたうえで分割を交渉してください」
帳簿にもなかった薪代が、初めて支払予定へ書き加えられた。
「王宮への立替金と新規の高額契約は、四十八時間だけ保留してください。その間に全契約書、倉庫の受領記録、関税所の通過記録を確認します」
「王宮への支払いを止めれば、反抗と取られる」
アーヴェルの指摘は正しい。しかも提案したのは、王宮を追放されたばかりのフィオナだ。私怨だと疑われても反論しにくい。
「保留命令は、私の名では出せません」
フィオナは認めた。
「私の嫌疑を理由に、領地まで攻撃される恐れがあります。辺境伯様が危険だと判断されるなら、別の方法を探します」
アーヴェルは支払予定表と請求書を読み、マルタへ尋ねた。
「十二日後に8000枚を払うならば、何を削る?」
「冬の穀物か、翌月の給与です」
「どちらも選べないな」
彼は請求書の裏へ保留命令を書き、自分の印を押した。
「政治上の責任は、領主である俺が負う。フィオナには四十八時間、調査に必要な全帳簿の閲覧権を与える。マルタ、君には立ち会いと監視を頼む」
片方を信じるために、もう片方を切り捨てない命令だった。
マルタは請求書を見つめ、やがてフィオナへ財務室の副鍵を差し出した。
「四十八時間です。まず何をご覧になりますか、臨時財務官殿」
初めて、役職で呼ばれた。
「金貨24000枚の立替金契約です」
三人で契約箱を開く。
だが、入っていたのは王宮からの請求書と、北方共同倉庫の受領証だけだった。
「最初の契約書は?」
「王宮と先代様が結んだものです。写しがあるはずですが」
マルタが箱の底まで探しても見つからない。
フィオナは受領証を取り、記載された荷馬車番号を見た。
北方第三便。
王宮が二度支払っていた薬草と同じ便名だった。
王宮ではすでに代金を支払っている。
それなのに、なぜクローデン領も金貨24000枚を返さなければならないのか。
さらに受領証には、前年の冬至月十一日に物資を受け取ったと記されていた。
フィオナはその日付を赤く囲む。
「マルタさん。この便が本当に到着したのか、倉庫と街道の記録を調べます」
金貨24000枚は、本当にクローデン領が負うべき借金なのだろうか。




