決心
千火さんはキッチンにいた。幼い頃から毎日のように見てきた後ろ姿が今はとても特別な感じがした。
食材を切る音、調理する音、食欲を誘う香り、それら全て。そしてそれを行う彼女の姿。何もかもが大切なモノに思えた。
偶にしか帰ってこない父親の代わりに俺を毎日支えてきてくれた人。母親の様な暖かさを俺に注ぎ、淫魔の血の流れる俺を師として厳しくも逞しく鍛えてくれた人。
今までそれが俺にとっての日常であり、普通のことだった。でも……鞠猫と出会って、自分と同じ種族の超常に出会って、自分が如何に異質であり特別な存在なのか、ようやく理解した。
そんな俺を特別として扱わなかった千火さんにどれだけの感謝を述べれば良いのか……きっとそれは今この瞬間だけでは返しきれないものだってことも分かっていた。
でも今出来ること、やるべき事があるはずだ。
ミスリーとの出会いが齎した選ばなければいけないこと。自分がどんな『存在』として生きていくのか、どうありたいかを決めること。
それはきっと今まで俺を支えてくれた千火さんに絶対に伝えなくてはいけない事なのだ。
千火さんはそれを誰よりも理解していた。だから俺に考えさせる時間を与えた。鞠猫と云う相談相手も用意してくれた。
だから答えが出るまでは何も言うことはないと、突き放したのだ。これは絶対に俺が自分自身で選ばなくちゃいけないことだったから。
俺はキッチンに立つと、後方のダイニングで様子を見てくれている鞠猫に振り返る。彼女は応援するようにガッツポーズをしてみせた。俺は応えるようにキッチンのメイドに口を開いた。
「千火さん」
包丁で食材を切る音が止まった。手を洗い、コンロの火を止める。そうして体ごと振り返る彼女はいつもの見慣れた秀麗なる使用人であった。
「ほう────」
その言葉と共に目を細める。値踏みするような千火さんの視線に、彼女の意図を知っている俺は少しの動揺もしてなるものかと意識した。というよりも───心に何か一本柱が立っているような感覚があり、少しの気負けも無く、堂々と彼女に向き合えた。
「いい面構えになりましたね奏様」
「面構えって……面持ちとか言ってくれよ」
「フフッ……失礼しました、使用人モードと師匠モードがゴッチャになっていました」
それが本当かどうかは分からないけど、笑い混じりの彼女に俺は仕切り直すように口を開く。
「千火さん、俺────」
しかし近付いてきた彼女はまるで口封じの様に、右人差し指で俺の唇に触れた。
「言葉は無用です、既に貴方の覚悟は見えていますから」
え、えぇぇぇ〜……俺は千火さんの意を酌んで、自分の意志を固めたっていうのに、言わなくて良いだなんて……
まさかの歓迎に俺は言葉を発さずにたじろいだ。そしてその様子に彼女の楽しげな様子を止める事はなく言葉を続けた。
「奏様────貴方が色々と思い悩むことはこれからも度々あるでしょう。その都度何かを選び、捨てる事も。けれど恐れる事はありません、負い目を感じる必要もありません。 ───生きる事は選ぶこと。そして選ぶことは自由ということ。自由を手にする者に尊さなど皆無。……当然です、何かを選択する自由とは他を蔑ろに出来る者の特権ですから。尊んで欲しいなど痴がましさの極みです」
千火さんは俺を真っ直ぐに見つめていた。
「……綺麗に生きようとは思わなくて良いんです。誰も彼も、この私でさえ選び、捨てて生きている……だから場所に立っているのです。人は綺麗事を言いたくなるものです。他人を蔑んではならない、暴力を振るってはいけない、差別してはならない、正しく生きなくてはならない……そんな事は不可能なのに。それにそんな事を口にする人に限って自分のしている事には気が付いていないものです。そして必ずどこかで自分も他者を蔑ろにしている。でも───」
彼女の言葉は俺の住む世界とは異なる世界の話をしているようだった。どこか違う視点から世界を見ている者の言葉……そんな気がした。
「それが生きることです」
だからかは知らない。けれどその言葉はスッと俺の心に落ち着いた。
「生き汚さを晒していなさい。命への執着、自分の主張と尊厳の守護。それを抱き自分はこうだと、これが自分の考えであると、これが自分の譲れない想いだと……意地を張って生きなさい。最後に決めるのは自分自身です。そこに他者の助言や手助けがあろうとも、意思が混ざり合うことはない。例え親、兄弟、恋人、伴侶、社会の常識、そんな者たちの言葉があれど、決めるのはアナタなんですから」
千火さんの指が俺の唇から離れる。残った感覚と温度に少しだけ名残惜しさを覚えながらも、自分に喋る権利を委ねられた事を理解した。
「────千火さん」
「はい」
「俺は選んだよ」
「ええ」
「俺は人間として生きたい。半分は淫魔だろうが知ったこっちゃない。俺は俺だ、この世に命を授かった時から俺はこの世でたった一つの秦奏と云う存在だ。誰かに指図されて何者かになるなんて嫌だ」
「はい」
「どれだけ優れていても劣っていても人間でいたい、そう決めたよ」
俺は言い切った。自分の選択を。意地汚さ、生き汚さを。傲慢さを。
けれどそんな汚い部分を見ても千火さんは軽蔑するどころかにこやかに笑った。花が咲くように美しい笑みだった。
「素晴らしいですよ奏様。ご立派です」
その言葉に俺もにこやかに笑んで応えた。
俺は後ろを振り返る。鞠猫も少しだけ笑みを浮かべサムズアップを俺に送っていた。それはとても俺に力強さを送るものだった。
俺は……俺はここにいても良い存在だと、心の奥底から実感したのだった。




