エリザベス
屋敷の中が、鳴っていた。
壁が裂け、柱が削れ、砕けた木片が雨になって降る。リィズは手近な柱の陰へ身をすべり込ませた。たった今まで頭のあった場所を、弾の束がまとめて抉っていく。
遮蔽を変える。背後で、また別の柱が削られていった。
「……速いのぉ」
息継ぎの隙もない。連射の切れ目が、どこにもない。
一発が、柱ごと胴を揺らしにくる。陰に伏せたまま、その衝撃を背で受け止めた。
「重い……硬い、ときた」
人間の指では、こうはいかん撃ち方じゃ。
試しに一発、ドンの足元へ撃ち込んでやった。
「反応は早い」
返ってくるのは、同じ弾。同じ角度。避けるでも踏み込むでもなく、ただ撃ち返してくる。
「……そのまま、打ち返してくるか」
もう一発。今度は横へ、回り込ませるように誘う。
誘いに、乗ってこない。同じ位置から、同じ掃射を浴びせ続けてくる。
「回り込んでは、こんのぉ」
出力に、箍がない。人間なら、反動で腕のほうが先に砕けておるじゃろう。
このスペックなら、それで正しいのかもしれん。自分の強みを、ただ相手に押しつける。それだけで、十分に通る。
じゃが――こちらが見せてやった隙にも、食らいついてはこん。有利な間合いへ、回り込もうともせん。
……いや。それすらも、誘いと見抜いた上での判断、ということか。
ひとつ、息を吐いた。
「さすがじゃのぉ、ドン。……あのゲスが手をかけただけは、ある」
ギリッ、と奥歯が鳴った。
「だがのぉ」
その声が、轟音に溶けた。
削れていく壁の、砕けていく柱の、その向こう。同じこの場所に、別の時間が滲み出てくる。遠い過去の――決して届かぬ、しかし確かにあった、温かい記憶が。
◆
視界が、低い。
床のすぐ上、何もかもを見上げる高さ。
その低い視界へ、小さな女の子が顔をのぞき込ませてきた。何の警戒もない、まっすぐな笑み。
横に、中年の男がいる。
今より、ずっと若い。けれど、見間違えようはずもなかった。さっきまで虚ろな瞳で弾を浴びせてきた、あの表情ではない。その本来の顔が、ここにあった。同じ顔が、こんなにも穏やかに笑っておる。
女の子の手のひらが、頭を撫でようと伸びてくる。
低い視界へ、ゆっくりと。目の上を、通り過ぎて。
手の影が、ふっと、視界を翳らせ――
◆
その翳りが、埃と硝煙の翳りに、すり替わった。
目の前には、射撃。轟音。
リィズの目に、芯が定まった。
逃げていた足が、止まった。
そこから先は、もう逃げる動きではない。撃ち返す一発ごとに、ドンの的を、こちらの都合のいい場所へ、少しずつずらしていく。
思考のない獲物は、読みやすい。
同じ角度、同じ手筋。さっきと寸分違わぬやり方で、また同じ場所を狙ってくる。読まれていることにすら、気づけない。撃つたびに一歩、また一歩、ドンがこちらの引きたい線の上へ乗ってくる。楽に詰む。
隙が、空いた。
迷わず撃つ。狙いすました、完璧な一発。確実に捉えた、と思った。並の獲物――いや、そこらの魔物ですら、ゆうに射抜いておったはずの手応えじゃった。
なのに。
――躱された。
考えて避けたのではない。判断ですら、ない。鍛え上げられた身体が、ただ反射だけで、弾を逃した。
「……あれを躱すか。おっそろしいのぉ」
返ってきたのは、報復の弾雨。陰にしていた遮蔽が、根元から砕け散る。リィズは身をひるがえし、転がるように逃げた。
「こりゃイカン。ちと何か考えんと、分が悪いわい」
ならば、撃ち方を変える。一発で仕留めにいくのではのうて、もっと大きく運んでやる。確実に正面へ立たせて、逃げ場のない場所へ追い込んで、こちらだけが不意を打てる位置まで。
獲物を動かして、仕留める。
……この追い込み方を、わしは知っておる。ずっと昔、遠くから見た。最高のハンターと呼ばれた男の、狩りの形じゃ。
「これは……お主が、よくやっておったのぉ」
返事はない。返ってくるのは、弾だけ。
型が、面白いほどに通る。詰めれば詰めるほど、楽になっていく。
そして――楽になるほどに、ドンの手触りが、消えていく。
今のこの身体は、人間だった頃のドンより、遥かに強い。出力も、速さも、桁が違う。なのに、あの頃のドンのほうが、遥かに上じゃった。本物の頭で狩りを回しておった、あの頃のドンが相手なら、わしは確実に負けておった。
この型を、誰よりうまく使うておったのは、ドンじゃ。その型が、こうも易々と通る。
通るたびに――その手触りが、薄れていった。
動きは加速し、心だけが、減速していく。
獲物の特性は、もう読みきった。
なのに、ちっとも嬉しゅうない。
行き場をなくした哀しみが、胸の底で、静かに溜まっていった。
いつのまにか、階段の下まで来ていた。
撃ち返しながら、一段、また一段と、退がっていく。足取りに、乱れはない。
数段のぼったところで、ふと、足を止めた。
見下ろした先に、ドンがいる。虚ろな瞳。機械仕掛けの腕が、休みなく弾を吐き出してくる。その姿を、しばらく、見下ろしていた。
「……かつてのお主なら、こうはならなかったろうに」
低く、呟いた。
昔のドンなら、とうに気づいていたはずじゃ。運ばれていることに、誘い込まれていることに。気づいて、手を変えて、こちらの裏をかいてくる。読み合いに、なったはずじゃ。
なのに、今のドンには、それがない。撃って、躱して、また撃つ。そこに、狙いがない。意図が、ない。
やりきれなかった。
あれほどの男が。最高のハンターと呼ばれた男が。今は、わしの型に易々と運ばれて、撃って躱すだけの的になりさがっておる。読み合いにも、ならん。声をかけても、返っては、こん。
詰めれば詰めるほど、それが、はっきりしてくる。あの人は、もう、ここにはおらんのじゃと。
その、やりきれなさの底から。
怒りが、にじみ出てきた。
英雄を、こんなものに作り替えて、おもちゃにした男へ。そうしておいて、どこか遠くで、のうのうとしておる、あのゲスへ。
見れば見るほど。詰めれば詰めるほど。
哀しみは深くなり、その底で、怒りが、低く、確かに、固まっていった。
据わった怒りのまま、引き金を絞る。
階段下のドンへ、狙いすました一発。
――やはり、躱される。返しの弾雨が、手すりを、壁を、容赦なく抉ってくる。リィズは身をひるがえし、さらに上の階へと駆け上がった。
ドンが、追ってくる。撃ちながら、急がず、ゆっくりと、一段ずつ。焦りもためらいもなく、ただ上がってくる。
その動きは、さっきよりも、なお単調になっていた。追い詰めれば追い詰めるほど、選べる手が減っていくように。
――もう、ドンらしさは、ほとんど残っていない。
奥歯を噛んで、さらに上の段へ足をかけた。
弾をかわしながら、最後の段を、上がりきった。
三階。屋敷の、最も高い場所。これより上は、もうない。
昇りつめてしまった、と思った。
もう、引き返せはせぬ――二度と、あの顔に会うことも、できなくなる。
ライフルを握り直す。指に、力を込めた。
階下から、足音が近づいてくる。急がず、ためらわず、一段ずつ。姿は、まだ見せない。
ほんのわずかな、静止が生まれた。
その一拍に、また別の時間が、滑り込んでくる。
◆
穏やかだった、はずの場所。
それが、悲鳴と破壊に、塗り潰されていく。
恐ろしい魔物が、街を、屋敷を、襲ってきたのだ。
陽の差していた部屋が、崩れ、焼け、ひしゃげていく。何が起きているのか、誰も、追いつけぬまま。
火の手が上がり、煙が満ちる。
子供が泣く声が聞こえる。
助けを呼ぶ声、怒号と声にならない悲鳴が入り混じり、一度に押し寄せてくる。
目の前に、背中があった。
こちらへ振り向きもせず、その向こうの何かへと、立ちはだかる背中。
「行け! ベティを頼んだぞ」
嫌がる小さな手を、力ずくで掴んだ。引きずるように、その場から連れ出す。
……戻れた、はずじゃった。この力なら。あの背中の隣へ駆け戻って、共に立つことも。
なのに、できなかった。託された手を、放せなかった。
振り返ることが、できなかった。
その後のことを、わしは見ていない。
後から、聞いただけじゃ。あの人が、命がけで、あの魔物を撃退したのだと。
――撃退。つまりは、倒しきれなかった、ということ。げんに病は、その後も人を蝕み続けたのじゃから。
あの背中をもってしても、届かなかった。わしは、ずっと、そう思うておった。
◆
硝煙の中へ、戻ってくる。
階段の下に、姿が現れた。
虚ろな瞳。機械仕掛けの、身体。あの背中の持ち主が、今はこんな形で、こちらを見上げている。
その姿を、正面から、見据えた。
胸の奥が、軋んだ。
「おぬしは……倒したんじゃのぉ」
返事は、ない。
あるのは、また始まる弾雨だけ。
リィズは身を伏せ、廊下の奥へと、退がっていった。
ドンへ向けて、撃つ。
返ってくるのは、その何倍も。弾の雨。壁が砕け、柱が削れ、木片が舞う。
後退する。廊下の奥へ。一歩、また一歩。
逃げる。追い詰められていく。
焦りは、ない。状況だけを見れば追い詰められておる――ただ、それだけのことじゃ。
ドンが、追ってくる。急がない。撃ちながら、ゆっくりと。
その胸元。
心臓の、あったはずの場所に、機械が組み込まれている。配管とも配線ともつかぬものに繋がれて、嵌め込まれた、ひとつの石。動力源のように、鈍く脈打っている。
ライフルを握る手に、力がこもった。
奥へ。さらに奥へ。屋敷の、一番奥。
目指していた場所。最後の部屋の扉の前へと、たどり着く。
弾の雨が、廊下を走り抜ける。
窓ガラスが砕け、扉が、壁が、ささくれて弾ける。手入れされた花瓶が、宙で割れた。埃と、飛び散った花びらが、硝煙の中を舞う。
それをかわすように、扉に手をかけ、最後の部屋へ滑り込んだ。
大きな窓があった。
町並みが、一望できる。屋敷でいちばん、日当たりのいい部屋。窓の下には、よく手入れされた庭が見える。
……ここが、いちばん好きじゃった。
◆
――化物だった。
生まれ落ちたその場所に、居場所など、どこにもなかった。
見た者はみな、刃を向けた。
あの日も、銃口が向いておった。
今までのようには、逃げ切れなかった。逃げた先で、あっさりと捕まって、逃げ場を失くした。
もう、終わりじゃと思うた。
……小さな手が、それを止めた。
「かわいそう」
たった、それだけ。
恐ろしい化物に手を伸ばしたのは、いちばん小さな子供だった。
そこが、居場所になった。
陽の差す部屋。よく手入れされた、庭。
撫でられて、笑われて、名を呼ばれて。
化物が、化物でなくなっていった。
……そして。
あの小さな手が、少しずつ、細うなっていった。
温もりが、抜けていった。少しずつ、少しずつ。
止められんかった。
わしは、あれほど強かったのに。何ひとつ。
暖かかった。
暖かかったから、こんなにも――
その続きを、轟音が断ち切った。
ドンが、部屋へ飛び込んでくる。弾雨。リィズは身を投げて、それをかわした。壁が裂け、窓枠が弾け、差し込んでいた陽が、めちゃくちゃに乱れる。
部屋の中で、撃ち合う。
逃げ場のない一室。弾が、四方の壁に跳ね、唸りをあげて飛び交う。
一発が、肩を抉った。続けて、脇腹を掠める。捌ききれない。外装が裂け、火花が散る。よける間もなく、また被弾する。
――正面からでは、分が悪い。
たまらず、弾の嵐に背を向けた。
大きな窓へ向かって、駆ける。
「おぬしら親子に、報いてやれることは――」
言葉を切って、ガラスをぶち破る。
砕けた窓の、その外へ。リィズの身体が、宙へ躍り出る。
◆
逃げた。追う。
窓へ寄り、身を乗り出す。仕留めた獲物を、確かめるために。
――落ちていく影が、こちらを向いていた。
落下しながら、ライフルを構えている。
銃口は、狙いすましたように、ぴたりと据わっていた。落ちる勢いの中で、そこだけが、微動だにしない。
指が、引き金を絞る。
慣れた、正確な動作。迷いは、ひとつもなかった。
乾いた音。
胸の奥。石が、貫かれる。
わかった。自分の、動力が、断たれていくのが。
身体が、傾ぐ。
窓の外へ。
落ちていく。先に落ちた、あの影を、追うように。
長い、夢を見ていた。
何も、見えなかった。何も、聞こえなかった。
ただ、誰かに動かされるまま。ずっと、遠くにいた。
――落ちていく。
薄れていく意識の、その最後の最後で。
消えかけた視界の隅に、ふと、誰かが映った。
地面に、小さな人影が立っている。
ぼやけて、よく見えない。
けれど、面影が。雰囲気が。どこか、似ている。
……いや。
似ているような気もするが、違う。
あの子では、ない。あの子に、そっくりな、誰か。
――けれど。
あの子が、大きくなったなら。
ちょうど、こんな風だったろうか。こんなに、綺麗に。
……そうだと、いいな。
ああ。きっと、そうだろう。
◆
地面にぶつかる轟音が辺りに響く。
駆け寄って、傍に膝をついた。
その顔に、笑みが浮かんでいた。苦しんだ跡もない、安らかな顔。
長いこと、虚ろだった瞳。それが今は、ただ、眠っているように見えた。
手を伸ばす。
乱れた髪を、そっと直してやった。
「おやすみ、お父さん」
ドンの身体が、ほどけていく。
光の粒になって、宙へ。
あとには、ひとつ。鈍く光る石だけが、残った。
その石を、拾い上げる。
手のひらの上で、じっと、見つめた。
しばらく、そうしていた。
やがて、石を、そっと懐にしまう。
――屋敷の奥で、銃声。
顔を、上げる。
立ち上がり、足を踏み出した。
相棒の元へと。




