決意の理由
喉が鳴って、それきり、部屋から音が消えた。
ルチアーノの背中は、何も変わらない。何も起きていないように見える。だが、空気が違った。部屋そのものの質が、塗り替えられていた。
先に動いたのはトウヤだった。距離を詰めながら、すでに柄に手がかかっている。
その刹那、ベッドのドンが跳ね上がった。
速い。
シーツが宙に舞い、薬瓶が床で砕け散る。爆ぜるような勢いで、ドンの身体が一息に間合いを潰した。抜こうとした手を、上から片手で押さえつけられる。万力だった。刀身が、鞘から指一本ぶんも出てこない。
次の瞬間、ドンの額がトウヤの顔面に叩き込まれた。視界が白く弾ける。身体が宙に浮き、背中から扉をぶち破って、廊下へ転がり出る。
「旦那さま――!」
リィズが動いた。考えるより先に身体が出ていた。追い打ちをかけようと踏み出したドンの正面へ、割り込むように組みつく。
両手で組み合う。押し合う。
押される。リィズのフルパワーが、じりじりと押し負けていく。
そして、目の前にドンの顔があった。
虚ろな瞳。何も映していない、意思のない目。逸らせない距離で、それを見ている。リィズの表情に浮かんだのは、恐怖でも焦りでもなかった。
悲壮だった。
「いくら力自慢のお前さんでも、そいつぁ無理だ」
ベッドのかたわらから、ルチアーノが声をかける。余裕たっぷりに、その場から一歩も動かず、胸の前で腕を組んだまま。
「ただでさえ英雄のスペックだぜ? しかも俺が、長ぇ年月かけてコツコツとフルチューンしてる」
鼻で笑う気配。
「過去の伝説の遺産も、今じゃ俺様の、ただの操り人形さ」
その言葉が合図だったかのように、ドンの腕が膨れ上がった。
組み合っていた力が、桁違いに跳ね上がる。リィズの足が地を擦り、そのまま――まるで子供を払うように、片手で突き放された。
軽い身体が後ろへ吹き飛ぶ。背を壁に打ちつけ、ずるりと崩れ落ちる。立ち上がろうとして、膝が言うことを聞かない。手をついたまま、リィズはそこから動けなかった。
廊下で、トウヤが身を起こす。額が割れ、血が一筋、目尻を伝って落ちた。
指が、小さな魔石を弾いた。
ルチアーノの本体めがけて、一直線。
自由になったドンの片手が、その軌道へ無造作に伸びる。手のひらが、魔石を握り込んだ。
「無駄だよ」
ルチアーノは表情ひとつ変えない。ドンの手から魔石をつまみ上げ、しげしげと眺める。
「へぇ。こんな隠し球も持ってたのか」
面白い玩具を見つけた、その程度の顔だった。
その一瞬、誰の目も、トウヤから逸れる。
「行くぞ」
崩れ落ちたリィズのもとへ駆け、その腕を掴んで引き起こす。有無を言わせず、廊下へと走り出した。
廊下を走る。
リィズの腕を掴んだまま、来た道を駆け戻る。背後で、空気を裂く音がした。壁が、柱が、抉られて弾け飛ぶ。木片が頬をかすめる。身を低くし、角を折れ、ひたすら走った。撃ち手の姿は、振り返らないからわからない。ただ、追撃は一向にやまなかった。
廊下の先に、部下たちがいた。
さっき声をかけてくれた者たちだ。突然飛び出してきた二人に、けげんな顔を向ける。
「お客人、どうしました」
「何かあったんで――」
二人が、その脇をすり抜ける。
直後、背後から悲鳴があがった。
飛んできた弾が、部下を撃ち抜いていた。射線の上にいただけだ。狙われたわけではない。それでも、避ける間など与えられなかった。
振り返らない。振り返れなかった。
手近な一室へ転がり込み、扉を閉める。背中をつけて、息を殺す。
足音は、追ってこなかった。あれほどやまなかった射撃も、嘘のように止んでいる。
静かだった。
扉の向こうに、気配がない。
ドンの足音も、銃声も、何ひとつ聞こえてこない。追い詰められているはずなのに、世界が静まり返っている。トウヤの額から伝った血が、顎の先で雫になり、床に落ちて小さな音を立てた。
その静寂を破ったのは、笑い声まじりの声だった。
壁の、ずっと向こう。屋敷のどこかから、ルチアーノの声が響いてくる。追ってくるのではない。その場から、ただ声だけを飛ばしている。どこにいるのかもわからない。それでも、声ははっきりと届いた。
「いやぁ、すげぇな、これは」
独り言のような、心からの感嘆だった。
「勝算はあったとはいえ、廃人になるリスクを背負ったかいがあったぜ。――まぁ、このラッキー・ルチアーノ様が、そんなヘマこくわけねぇんだが」
上機嫌に、声が弾んでいる。
「これが、上に立つ者の力だ。アイツが――クイーンが、何万って群れを、たった一匹で従えてた。あの力が、そっくりこの手にある」
トウヤの頭の片隅に、ひとつの言葉が引っかかった。廃人になるリスク。あの石は、粉にして少しずつ飲ませるものではなかったのか。丸ごと呑み込んで、力に変える――そんな使い方が、あるのか。
壁の向こうの声は、止まらない。むしろ、熱を帯びていく。
「これと、俺の力を掛け合わせりゃ――」
言葉が、構想へと流れ込んでいく。興奮の続きのまま。
「人形は、いくらでも作れる。そいつらを、女王の力で軍として束ねる。手始めは、この屋敷からだ。材料なら、もう揃ってる」
さっき声をかけてきた、あの者たちのことだ。
「この街を呑み込んで、足掛かりにする。それから新大陸の全土。やがては――旧大陸まで、この手を伸ばす」
屋敷から、街へ。街から、大陸へ。声の弾むまま、際限なくスケールが膨らんでいく。
そこまで一息に語って、声が、ふっと二人のほうへ向き直った。
「で――お前らだよ」
声の温度が、わずかに変わる。
「お前らは、使える。ドンと同じだ。特別な人形として、じっくり調整してやるよ」
長い年月をかけてカスタムする価値がある。そう認めている響きだった。人形にするかどうかは、もう話のうちに入っていない。
「だから、出てこいよ。大人しくしてりゃ、痛い思いはさせねぇ。――なぁ、相棒」
相棒、というところだけ、ほんの少し楽しそうだった。
それから、思い出したように。
「ああ、そうだ。トウヤ」
名指しで、軽く。
「いい子にして出てきたら、お前の妹は助けてやるよ」
声に、悪意はなかった。それがいっそう、悪かった。嘘をついている、という気負いすら、そこにはない。言ってみただけ。通じるとも思っていない。そういう雑さだった。
返事は、しなかった。
ややあって、ルチアーノの声が、ふっと途切れた。遠ざかったのか、興味を失ったのか。探しに来る気配も、追ってくる足音もない。
屋敷に、静寂が戻る。
部屋の中には、二人だけが残された。
部屋の隅に、リィズが座り込んでいた。
膝を抱えるでも、うずくまるでもない。ただ、力が抜けたように。さっき引き起こしたはずなのに、いつのまにか、また床に落ちている。
その目に、光がなかった。
通りのまんなかで伸びをして、わしらのホームだと笑っていた少女と、同じ人間には見えなかった。
トウヤが、その前にしゃがむ。額の血が頬を伝っているが、拭おうともしない。リィズの肩を掴み、正面から覗き込んだ。焦点が合っていない。瞳は、トウヤを映していなかった。
やがて、その口から言葉がこぼれた。トウヤに向けてではない。ただ、漏れた。
「……あの人は」
間があく。続きが、なかなか出てこない。
「化物だったわしに……」
「生まれてからずっと、ひとりじゃったわしに……居場所を、くれたんじゃ」
泣いてはいなかった。声を荒げもしない。ただ、こぼれ落ちていくだけだった。
化物。
トウヤには、その言葉の意味がわからなかった。比喩にしては、重すぎる。けれど、今それを問う場面ではない。
わかることは、ひとつだけだった。ドンという男が、この少女にとって何だったのか。「あの人は」と漏らした、その声の重さで、それだけは伝わってくる。
何か、大きなものを抱えている。その輪郭だけが、ぼんやりと見えた。
トウヤは、しゃがんだまま動かなかった。
「……色々あるんだな、お前にも」
短く、それだけ。化物の意味も、ひとりだった事情も、問わなかった。
一瞬、目を閉じる。
慰めるべきか。何か、かけてやれる言葉はないか。けれど、どんな言葉を並べたところで、こいつをここから引き上げられはしない。そう、わかってしまった。
目を開けた。リィズを、まっすぐに見る。
「お前は、それを許せるのか」
行き場のない子供を拾い、慕われた男が、意思を奪われ、道具にされている。守りたいものがあった男なら、なおさらだ。その気持ちなら、トウヤにも、わかる気がした。
「そうやって、座ってていいのか」
声を荒げはしない。穏やかでもない。ただ、事実を突きつける温度だった。
「オレは行く。あいつを倒す理由が、オレにはある」
立ち上がる。リィズに背を向けた。部屋を出る扉を、まっすぐ見ている。
「お前はどうする……相棒」
振り返りはしなかった。
トウヤが、扉へ向かって一歩、踏み出した。
その手が、ノブにかかろうとする。
「待たぬか」
背中越しに、声がかかった。まだ座り込んだ、その位置から。
さっきまでの、こぼれ落ちるだけの声とは違う。
「旦那さまともあろうものが……ガラにもなく、くっさいセリフを吐きおってからに」
いつもの、毒のある口調だった。鼻を鳴らすような、けれど、語尾がほんの少し揺れている。
リィズが、ゆっくりと立ち上がる。自分の足で。
トウヤが振り返った。目が合う。
その瞳に、もう虚ろさはなかった。代わりにあるのは、硬い覚悟。楽しいから立つのではない。やらねばならないことが、ある。だから、立った。
「ドンのことは、わしがケリをつける」
さっき『あの人』と呼んだ男を、今度は名で呼んだ。喪失ではなく、決意の声で。
「ルチアーノは……お主に任せる」
一拍、間があった。自分でやりたい気持ちが、ないわけではない。それでも、飲み込んだ。この男には、この男の理由がある。坂道で聞いた、あの妹の名前のことが。
二人が、並んで扉に向く。
ノブが回る。
その向こうに何が待っているのか、わからないまま――二人は、扉を開けた。




