凱旋
門をくぐると、町の喧騒がいっせいに押し寄せてきた。
露店の呼び込み、荷を引くオオトカゲの低い唸り、どこかの路地から漂う脂の匂い。すれ違うのもやっとな細い通りに、安普請の屋根と洗濯物と怒鳴り声がひしめいている。きれいな町ではない。雑然として、薄汚れて、やかましい。
それでも、ふしぎと息がしやすかった。音も匂いも途切れた巣の静寂を抜けてきたばかりの身には、この騒がしさのほうがいっそ心地よくさえある。
リィズが通りのまんなかで、んーっと伸びをした。
「やっと着いたわい。わしらのホームにのぉ」
ぽろりとこぼれるような、軽い一言だった。
トウヤは何も返さない。ただその隣で足を止めて、同じように雑踏を眺めている。言葉はなかったが、来たときより足取りはいくらか軽かった。
にぎわいは、分岐点まで来るとふいに薄れた。
幾度か通った辻だ。まっすぐ行けば交易所のある下町、右へ折れれば丘。リィズが当たり前のように右の道を選び、坂のほうへ折れていく。
スラムの喧騒が背中で遠ざかっていく。道は細くなり、両脇に下生えと低い木が増えて、土の匂いが濃くなった。やがて坂にかかる。
死闘の直後にもかかわらず二人の足取りは妙に軽い。木々のあいだから木漏れ日が落ちて、葉を抜けた風が首筋を撫でていく。緑と、どこか甘い土の匂い。
高くなるにつれて、町が見渡せるようになってきた。振り返れば、安普請の屋根がひしめき合い、煙が何本も立ちのぼっている。けっして美しい眺めではない。それでも、嫌な眺めではなかった。
風が、リィズの髪を柔らかく揺らした。リィズは目を細めて、しばらくそれを受けている。ただ、気持ちよさそうに。
「のう、おぬし。このあとすぐ出るんじゃろ?」
前を向いたまま、たしかめるような軽い調子だった。
「ああ」
トウヤの短い返事の中からも、張り詰めていたものがいくらか抜けているのがよくわかる。
「そういえば、妹の名前を、まだ聞いておらなんだな」
「シノ」
短い。けれど、その名を口にする声は、普段より柔らかかった。
「シノ、か。いい名前じゃの」
「……まっすぐで、よく笑うんだ。名前のとおりに育った」
訊かれてもいないことをぽつりと付け足して、トウヤは口を閉じた。リィズは「ふぅん」とだけ返し、それきり掘り下げはしなかった。
坂はまだ続いている。リィズは歩きながら、手のなかのものを指先でそっと撫でた。
女王アリの魔石。命がけで手に入れた、こぶしほどの石だ。けれど今は、その重さをほとんど感じない。手のなかに、ただおさまっている。それだけのことだった。
坂を登りきると、丘の上に屋敷が見えた。
質実剛健な造りだ。華美なところはどこにもない。それでも、磨かれた窓や、煙突から細くのぼる煙に、人の暮らすぬくもりがあった。
初めてここを見上げたときは、ただ「立派な屋敷だ」と思った。今は、その印象が少し違う。立派さよりも先に、知っている場所に戻ってきた、という感覚のほうが近い。
屋敷の前まで来る。扉に手をかけようとした、そのとき――
その手が触れるより先に、扉は内側から開いた。
現れたのは、白いスーツの男だ。皺ひとつない仕立てで、つい先ほどまで泥と血にまみれていたのが嘘のようにきまっている。
「よう、ご両人。首尾よくやってくれたな」
ルチアーノだ。軽い調子の、いつものキザな笑みだった。
ほんの少し前に別れたばかりだ。大仰な再会にはならない。当たり前にそこにいて、当たり前に軽口を叩く。
リィズがすぐに、ルチアーノの肩へ目をやった。
「肩はどうなんじゃ」
先の戦いで、アリに噛みちぎられた肩だった。
「ああ、まぁ心配するほどじゃなかったよ。これでも俺は――」
「ラッキー・ルチアーノ、じゃろ」
リィズが言葉尻に被せる。ニヤッと笑っていた。
「おいおい、俺の決めゼリフをとるなよ」
ルチアーノが大げさに肩を回してみせる。ぐるりと回るその動きに、淀みはない。深手を負ったとは、とても思えなかった。
「本当に大丈夫そうだな。結構、深そうな傷だったのに」
トウヤが言った。咎める響きはない。思ったことが、そのまま口をついて出ただけだ。
「丈夫だけが取り柄でね」
ルチアーノが笑って受け流す。トウヤもそれ以上は追わなかった。思えば、初めて会ったときもそうだった。胸を撃たれてなお、急所をひとつ残らず逸れて生きていた男だ。本当に幸運の女神に愛されてるのかもしれない。引っかかりは、その妙な納得のなかへすぐに溶けていった。
「さ、積もる話は中でだ。早く親父に報告しなきゃな」
ルチアーノが身を翻し、先に立って屋敷へ入っていく。二人も、迷いなくその背についていった。
ルチアーノに続いて、屋敷の中へ入る。
前に一度通った玄関ホールに、同じ廊下。見覚えのある景色だ。ただ、今日はそこに人が多かった。あちこちに部下たちの姿があり、すれ違うたびに、誰かが足を止めて頭を下げてくる。
「ずいぶん賑やかじゃの」
リィズが見回しながら言う。
「ああ、お前さんらが帰ってきたって聞いてな。慌てて集めたんだよ」
ルチアーノが振り向きもせず、軽く答えた。
「歓迎しなきゃならねぇだろ。俺たちの恩人だ。この街の新しい英雄様のお帰りにゃ、それなりの出迎えがなくちゃな」
にこやかに言ってのける。部下たちも、笑顔で二人に会釈を送ってきた。
廊下を進むあいだ、何人かが直接声をかけてきた。
「これでオヤジが助かる」
「ありがてぇ。俺たちがふがいないばっかりに、ずっと手をこまねいてたんだ」
「この街で困ったことがあったら、いつでも言ってくれ。力になるからよ」
どの声も、二人への礼より先に、まずドンの名を口にした。
ルチアーノは先に立って、廊下の奥へと進んでいく。その背を追って、二人もドンの部屋へ向かった。
警備の絶えた廊下の、その奥。扉が開く。
ドンは、変わらずそこにいた。




