クイーン
これまで戦ってきた、城壁の兵隊も。一軍を率いるはずの赤黒い個体も。あの三体の護衛すらも。何もかもが、次元の違う、別の生き物だった。
寝ているだけで、空気が違う。呼吸のたびに、部屋そのものが、かすかに軋むような錯覚すらある。
これまで相手にしてきたものは、すべて、こいつの一部でしかなかった。あの軍隊を、あの社会を、あの国家を生み出し、統べているもの。
食料庫の死骸も、卵の部屋の命も、外の防衛線も――何もかもが、ここに繋がっていた。すべてが、この一体のために、回っていたのだ。
トウヤは、剣士として直感する。
格が、違う。今まで斬ってきたどの魔物とも。努力や経験で、人間が辿り着ける場所にいるものではない。生まれながらの強者。
二人の足が、止まっていた。
奥へ向かって、あれほど早まっていた足が。ここで、ぴたりと。
二人は、目だけで頷き合った。
やることは、決まっている。言葉はいらない。
音を立てず、近づいていく。呼吸さえ、浅く殺して。ある程度の距離まで詰めたところで、トウヤがハンドサインを出した。リィズが、足を止める。
絶好の位置だった。会心の一撃を叩き込める距離。なおかつ、戦いがどう転んでも、トウヤがどう動いても、即座にフォローに入れる場所。
トウヤは、さらに前へ。
あと数歩。あと数歩で、抜刀の間合いに入る。
――そこで、女王が目を覚ました。
頭を、もたげる。身じろぎする。フェロモンは効いている。敵と気取られたわけではない。ただ、眠りから覚めただけ。
だが、それで十分だった。
刹那、トウヤが地を蹴った。
全速力。起き上がりきる前に。頭が、首が、上がりきってしまう前に。
刀が、鞘を走る。かつてブラッドベアの咆哮を断ち切ったあの一撃を、さらに超える、全身全霊の抜刀。
捉えた――そう、確信するもギリギリで、交わされた。
刃が掠めたのは、顔面の、ほんの一部。傷一つを、つけたにすぎない。
あの一撃を。完全に起き上がってすらいない、寝起きの体勢で、外した。
女王アリが、咆哮した。
部屋そのものの空気が、揺れた。天井の木の根から、ぱらぱらと土が落ちる。巣の構造が、軋む。ブラッドベアのそれとは、質が違った。技ではない。ただ、存在の圧そのものだった。
次の瞬間、女王の前足が、振り下ろされる。
怒りのままの一撃だった。精密さも、技術もない。ただの、力。だが――その『ただの力』が、圧倒的だった。叩きつけられた前足が、地面をたやすく砕く。
トウヤは、全身全霊の抜刀の、直後だった。反応が、わずかに遅れる。
まずい。
その刹那、女王の足が撃たれた。
リィズの弾。直撃ではない。だが、足の軌道とタイミングが、ほんのわずかにずれる。
その、わずかな隙に、トウヤは身を投げた。間一髪。前足が、すぐ脇の地面を陥没させる。
リィズの弾が当たった足を見る。傷は、ほとんどついていない。
女王アリが、うっとうしそうに足を揺すった。虫を払うような、無造作な仕草。痛みではない。ただの、不快。
それだけの、相手だった。
通路の奥から、アリがワラワラと湧き出してきた。
小さな個体だ。巣の中で何度も見かけた、あの働きアリに近い。それが、群れをなして二人へ殺到する。
「チィ、何度も同じ手を」
リィズが、舌打ちして撃ち落とす。
「落ち着け。外で戦った連中より、よほど弱い」
トウヤが、切り伏せながら返す。
「それはわかっておるが――こうも数が多いとな」
愚痴を言う余裕は、まだあった。一体一体は、雑魚だ。ただ、数が邪魔なだけ。これくらいの群れなら、口を動かしながらでも捌ける。
問題は、そこではなかった。
奥で、女王が動かずにこちらを見ている。
一般兵を壁にしながら、じっと、二人の動きを観察していた。怒りで暴れているのではない。さっきの前足は、覚めたばかりの本能の反応だった。今はもう、切り替わっている。冷ややかに、見ている。
トウヤは、斬りながら背筋に薄ら寒いものを感じた。こちらが余裕で捌いている、その余裕を、向こうは見ているのだ。
やがて、一般兵の流入が、緩やかに減りはじめた。
ぱたりと止まるのではない。徐々に、数を絞っていく。二人にとっては、一人で十分捌けるほどに。
それでも、新手は途切れない。ただ、もう先ほどまでの奔流ではなかった。最小限の手数で、二人を抑えにかかっている。
効かない。無駄だ。そう見切った。試して、観察して、見切った上で――それでも完全には引かない。
だが、これは安堵ではなかった。
手数が減ったということは、次の手に移る、ということだ。
束の間の静寂。その奥で、女王の身体に変化が起きた。
腹部が、脈打っている。
次が来る。二人とも、嫌な予感しかしなかった。
女王の腹部から、何かが、出てきた。
卵ではない。完成された個体が、そのまま。しかも、一匹ではなかった。複数が、ほとんど同時に、ずるりと生み落とされる。
「……なんじゃ、こりゃ」
リィズが、思わず呟いた。
「見たことのない種類だな」
トウヤが、冷静に返す。だが、内心は穏やかではない。次々と産み出していく女王。このままでは、数が増える一方だ。
トウヤが、女王へ向かって駆け出した。リィズも、狙撃を合わせようとする。
だが、そこへ最初の一群が到着し、間に割り込んだ。
トウヤが、立ちはだかる一匹を斬り捨てようとする。巨大な個体だ。おそらく、盾役。刃筋を立てて、斬りつける。
手応えが、おかしかった。
硬いのではない。かといって、柔らかいのとも違う。樹脂のような、粘りつく感触。刃が、ずぶずぶと沈んでいく。だが――引こうとすると、吸いついて、戻ってこない。
半ばまで斬り込んだところで、刀が、止まった。斬られた個体は、すでに事切れている。だが、刀が、抜けない。
スンッと、どこかで嗅いだような匂いが鼻をかすめた。この粘つく感触と、合わせて思い当たる。松ヤニ。あれに似た、何かだ。
その隙に、別の個体が襲いかかってくる。トウヤは舌打ちし、やむなく刀から手を離した。襲ってきたアリを、素手で迎え撃つ。手刀で目を潰し、ひるんだ隙に、粘つく死骸から刀を引き抜いて握り直す。
その瞬間。首筋に、チリッと、悪寒が走った。
考えるより先に、身体が動いていた。足元のアリを蹴り飛ばし、さっきの松ヤニの死骸の陰へ、転がり込む。
直後、頭上を、何かの液体が薙いだ。
松ヤニの死骸が、みるみる溶けていく。原形を失い、泡を立てて崩れる。
見れば、女王が産んだ別の個体が、口から液体を吐き出していた。酸だ。
しかも、一匹ではない。複数、いる。
今まで戦ってきたアリに、遠距離から攻撃してくる個体はいなかった。近接の群れに、遠距離の攻撃が混じる。それだけで、群れの脅威が、何倍にも膨れ上がる。しかも、群れに紛れて撃ってくるから、どこから飛んでくるかわからない。
トウヤは、思わずリィズのほうを見た。
遠くから正確に撃ち込んでくる相手の、厄介さ。それを、今、身をもって知った。
酸のアリに気を配りながら、数を減らしていく。と、ふと気づいた。最初に酸を吐いた個体が、いつの間にか動かなくなっている。
見れば、自分の吐いた酸に溶けて、身体が崩れていた。自壊だ。
「使い捨てか」
トウヤが、低く呟く。
産んで、使って、溶かす。女王にとって、個体は、ただの消耗品でしかない。
一方のリィズも、見慣れぬ個体を相手取っていた。
ぶよぶよと柔らかい個体。弾を撃ち込んでも、肉に吸われて貫通しない。一発で一匹がやっとだ。だが、リィズにとっては、むしろ造作もない相手だった。図体が大きいぶん、的としては大きい。狙いを外しようがない。
「貫通せんだけで、当てるのは楽じゃのぉ」
軽口を叩きながら、一匹、また一匹と仕留めていく。
その時、視界の隅を、小さな影がよぎった。
なんだ、と目を向ける。だが、そこには何もいない。気のせいか――そう思って、再び柔らかい個体に向き直り、引き金を引いた、その瞬間。
仕留めた柔らかいアリの死体から、何かが飛び出してきた。
超小型の個体だった。これまでの一般兵が中型犬ほどだとすれば、こいつは小さめの小型犬ぐらいか。背に羽が生え、まっすぐリィズへ飛んでくる。やたらと、すばしっこい。
柔らかいアリの中に潜み、機会をうかがう。大きな的に目を引きつけておいて、死角から本命を飛ばす。射撃手の視野を、逆手に取った一手だ。
小さい。見たこともない。どうせ、大したことはできまい――。
一瞬、そう思いかけて、リィズは即座に打ち消した。
そんなはずがない。何ができるかは、わからない。わからないが――あの女王が、無意味な一手を放つわけがない。
かわす。ギリギリで。
次の刹那、リィズがさっきまでいた高さ――ちょうど顔のあたりで、その超小型のアリが、ぴたりと静止し、爆ぜた。
音と衝撃が、頬を打つ。だが、それだけだ。ダメージは、ほとんどない。アリの身体が、ばらばらに飛び散る。
「……やってくれるのぉ」
リィズが、女王を睨んだ。
冷静に、状況を測る。これは、自分にとって有効な手だ。ライフルという得物は、どうしても小回りが利かない。ましてや、こうも死角の多い乱戦では。
こういうのは、相棒の領分なんじゃがのぉ――。
ちらりと、トウヤのほうを見た。
目が、合った。
刹那、リィズが、ライフルの銃口を、トウヤへ向ける。
それを見たトウヤは、迷わず、リィズへ向かって全力で駆け出した。
引き金が、引かれる。弾丸が、トウヤの顔のすぐ横をかすめて飛び――その背後で、死角から襲いかかろうとしていた酸アリを、撃ち抜いた。
ふん、とリィズが鼻を鳴らす。
と、同時。リィズの横合いから飛び出した爆弾アリを、駆け込んできたトウヤの刃が、正確に首だけ刎ねた。胴と頭が、ぽとりと落ちる。爆発は、しない。
「わし、あやつ嫌い」
「同感だ」
背中あわせに短く言い交わすと、また群れの中へ散る。




