生と死のサイクル
踏み込んだ途端、足の裏の感触が変わる。やわらかな土ではない。アリが踏み固めた、硬く乾いた地面。
振り返れば、入り口の光はまだ見える。だが、もう、外の空気ではなかった。
巣の中を、慎重に進む。
いくらも行かないうちに、外とは違う種類のアリを見かけた。格段に小さく、戦闘用には思えない。何かを背負って運んでいる個体、壁の一部を直しているような個体。
しばらく進むと、それらが数匹の群れで通路を移動しているのに出くわした。二人は反射的に物陰へ身を寄せる。
だが――働きアリは、こちらに見向きもしなかった。
外でぶつかった兵隊とは、明らかに様子が違う。トウヤは内心で見当をつけた。外は軍隊、中は社会。戦う者と働く者で、役割がきっちり分かれている。
奥と思しき方へ、足を進める。やがて分岐に出た。地図などない。手探りだ。トウヤは、アリの出入りが多いほうへ顎をしゃくった。物資が動く方向には、たいてい何かがある。
進むにつれ、匂いが変わってきた。
腐ったような。甘いような、酸っぱいような。どちらにしろ、不快な匂いだ。二人が、揃って顔をしかめる。
通路を抜けた先に、開けた空間があった。
そこに、死骸が並んでいた。
ありとあらゆる生物の亡骸。だが、ただ捨てられているのではない。整理されている。きちんと――しかし、人間の感覚での整理ではない。
肉団子のように丸められた死体。種類の違う生き物の亡骸が、ひとまとめに合体させられ、固められている。雑ではない。むしろ、虫の合理で最適化しきった、無駄のない保管だった。
吐き気が、喉まで込み上げた。リィズも口を押さえている。悲鳴が漏れかけたのを、必死に呑み込む。
「……食料庫、といったところか」
トウヤが、低く呟いた。
その時だった。
通ってきた通路のほうから、アリが数匹、近寄ってくる。食料庫に用があって来たらしい。
もう、隠れる場所などない。
とっさに、二人は死骸の山に紛れた。さっき吐きそうになった、あの肉団子の中へ、自分から潜り込む。息を殺す。
一匹のアリが、かさかさと足音を立てて、二人の正面まで来た。
リィズの身体が、動きかけた。
トウヤが、それを止めた。手のひらで、軽く。動くな、と。
アリが、じっと――こちらを見ている、のか。頭の触角が、ピクピクと伸びて、二人の肌に触れた。
何かを確かめている。その時間が、異常に長く感じられた。触角の先が、ぬるりと首筋を撫でる。
やがて、アリは何事もなかったかのように身を翻し、食料庫の奥へと去っていった。
二人は、しばらく動けなかった。それから、そろそろと死骸の山を抜け出す。通路に戻り、しばらく歩いてから、リィズがようやく息を吐いた。
「危なかったのじゃ。というか――生きた心地が、せぬかったわ」
トウヤは、歩きながら考えていた。
「あいつら、目はあまり利かないんだろうな」
「ほう?」
「仲間かどうかを、匂いで見分けてる。特に巣の中で働くやつは、見えていない。だから、形が違っても、匂いさえ合っていれば通す」
子供の頃に這いつくばって眺めた、あの小さな行列の記憶が、こんなところで役に立っている。
分岐まで戻り、今度は逆のほうへ進んだ。
アリの数が、減っていく。食料庫の周りは働きアリが行き交っていたが、こちらは静かだ。なんとなく、奥へ来ている予感があった。空気の質が、また一段濃くなっている。巣に踏み込んだあの瞬間よりも、さらに。
ふたたび分岐。その一方へ入ると、ふいに空間が開けた。
卵だった。
一面に、びっしりと。卵と、孵りかけの幼虫。世話係らしいアリが、その間をせわしなく動き回っている。
食料庫の悍ましさとは、対照的だった。整然としている。清潔で、静かで――ただ、規模だけが、異常だった。
部屋の中ほどに、大きめの肉団子が転がっている。大人のアリほどもあるそれに、幾匹もの幼虫が群がっていた。さっき食料庫で見た、あの丸められた死骸だ。
それが、見る見る減っていく。食う速度が、尋常ではない。
二人が見ている間にも、卵が一つ、ぷつりと孵った。世話係が即座に駆け寄る。生まれて、食って、育つ。その輪が、どこにも切れ目なく回り続けている。
「……こりゃ、早いところ女王を片付けんと、際限がないのぉ」
リィズが、低く言った。
トウヤは、力強く頷いた。言葉はない。だが、その頷きには、観察者の冷静さではなく、戦闘者の判断が宿っていた。
二人は、来た道を引き返し、さらに奥へと向かう。
その足が、心なしか、早まっていた。
奥へ進むほど、アリの姿が減っていった。
食料庫の雑多さも、卵の部屋の賑わいも、もうない。音が、一つずつ消えていく。やがて働きアリの影すら見えなくなり、ただ通路だけが、まっすぐ奥へと続いていた。
トウヤの足が、止まった。
「……いるな」
匂いではない。フェロモンでもない。空気の質が、変わる感覚。剣士の勘としか言いようのないものだった。
通路の先に、気配が一つ。重く、大きい。それだけが、この静寂の底に、確かに在る。
リィズは、何も言わなかった。ただ、ライフルを構え直す。「いるな」の一言で、十分だった。
二人は、最奥へ足を踏み入れた。
広い部屋だった。巣の中で、群を抜いて。天井も高い。木の根と幹で組まれた空間でありながら、ここだけが、明らかに意図して大きく造られている。
食料庫も、卵の部屋も、機能のための空間だった。だが、ここは違う。この広さには、機能的な意味がない。
玉座だった。
そして、その中央に――一際大きなものが、寝ていた。
女王アリ。




