ベタベタな下準備
ひとしきり息を整えたあと、トウヤがふらりと立ち上がった。
どこへ行く、とリィズが見ていると、群れの残骸のほうへ歩いていく。そうしてしばらくして――何かを引きずって、戻ってきた。
二つの死骸だった。さっき首を刎ねた囮のほうと、群れの中心にいた本物の司令官。両方を、リィズとルチアーノの前に並べて置く。
「どっちがいい。選べ」
「は?」
リィズとルチアーノの声が、揃った。
「おすすめは、こっちの司令官のほうだ」
トウヤが、貧相なほうの死骸を指す。二人の理解が、まるで追いつかない。
「アリは、匂いで仲間を見分けてる。司令官の匂いをまとっておけば、巣の中を見つからずに動けるはずだ」
ようやく話が読めてくる。なるほど、と感心しかけたところで、ルチアーノが当然の疑問を口にした。
「やけに詳しいじゃねぇか。なんでお前さんがそんなこと知ってる」
「地元にいた頃、子供の頃によくアリを観察してた。一人で」
トウヤが、なぜか少し誇らしげに言う。
「……暗いやつだな」
ルチアーノが、真顔で呟いた。リィズも、これ以上ないという顔で引いている。
「なぜか妹にも、同じ目で見られるんだが。なぜだ」
「苦労しておるんじゃな……お主の妹も」
リィズが、しみじみと言った。
「俺もこんな弟がいたら、ちょっとイヤだな」
ルチアーノが追い打ちをかける。三人のうち二人が、すっかり意気投合していた。
当のトウヤは気にする様子もなく、二匹の腹を順にかっさばいていく。中から溢れた体液を、それぞれの身体に塗りたくっていった。
「うわ、ベタベタじゃぞベタベタ。わしの玉のようなお肌が、こんなくっさい体液まみれでヌルヌルじゃ。どうしてくれる」
リィズが、わざとらしく身をよじる。
「おーおーおー、ひでぇ話だ。嬢ちゃん、こりゃトウヤに責任取ってもらわねぇとな」
ルチアーノが、すかさず乗っかる。
だが、当のトウヤは無反応だった。すでに腰を上げ、巣の入り口のほうへ歩きながら、じっと中の様子を窺っている。
「……なんじゃ。おもしろくないのぉ」
リィズが、つまらなそうに口を尖らせた。
「やっぱり弟としても、ちょっとイヤだな。子供の頃にアリで一人遊びするようなやつとは、根っからノリが合わねぇや」
偽装が済むと、ルチアーノが改めて自分の肩を見た。
白スーツの肩口は、赤黒く固まりかけている。出血は止まりつつあった。だが、腕を回そうとすると、傷口がまた滲む。
「命に別状はねぇだろうが――悪い。俺はここまでのようだ」
ルチアーノが、ひとつ息をついて言った。
「この肩じゃ、行っても足手まといになるだけさ」
足手まとい。普段なら、この男の口から最も遠い言葉だった。それを自分に使う。
「……そうか」
リィズが、残念そうに目を伏せる。引き止めはしなかった。本人が足手まといと言っている以上、無理に連れていくほうが、よほど失礼だとわかっている。
ルチアーノが、そのリィズへ顔を向けた。
「嬢ちゃん。さっき『必死に合わせただけ』って言ったな」
「うん?」
「それでいいんだ」
ルチアーノが、傷をかばいながら身を起こす。
「トウヤは、自分の感覚と理屈で勝手に正解を掴んじまう男だ。理屈の通らねぇところで、なぜか当てる。ああいうのは、教えてどうにかなるもんじゃねぇ」
「……うむ」
「だがな、お前はあいつより頭が回る。あいつの掴んだ正解を、後から理屈に落とし込める。なぞるんじゃねぇ、自分の理屈にするんだ。そうすりゃ――お前は、あいつの隣でもっと自由に動ける」
ルチアーノが、にっと笑った。
「たぶん、お前さんならできるさ」
言い切らない。だが、確信めいた響きだけは残していく。
「悪いが、オレ達は中に入るぞ」
トウヤが、短く告げた。
「ああ、気にするな。じきに部下が迎えに来てくれるはずさ」
ルチアーノが、ひらりと手を振る。
「そんなことより、そっちこそ気をつけな。大半は片付けたと思うが、巣の中はまだまだいるはずだ。なんせ――本命が、残ってるんだからな」
「なに、チャチャっと始末してくるわい」
リィズが、軽く言ってのける。
ルチアーノが、ふっと笑った。
「ああ。幸運を祈ってるぜ」
トウヤの口の端が、わずかに上がる。
「そりゃ、ご利益がありそうだ」
それだけ言って、背を向ける。リィズも続いた。二人並んで、巣の入り口へと歩き出す。
ルチアーノは、木にもたれたまま、その背中を見送った。
一人、その場に残されて。
ルチアーノと別れ、二人は巣の入り口の前に立った。
ついさっきまで、三人だった。それが、二人になっている。リィズはもう、軽口を叩かなかった。真顔に戻り、目の前の暗がりをじっと見据えている。
立った瞬間、空気が変わった。
まず、風がなくなった。荒野を歩いていた頃からずっと、肌のどこかにあった風の気配。それが、ここで、ふつりと途切れる。
音も違った。外の虫や鳥の声が、急に遠ざかる。代わりに、奥のほうから別の音が滲んでくる。かさかさと乾いた、無数の小さなものが蠢く気配。
匂いも変わった。土と、樹液と――それだけではない、何か。生き物の巣の、こもった匂い。
ここから先は、相手の領分だ。五感が、そう告げていた。
巣は、ただの穴ぐらではなかった。
地面に掘られた縦穴ではない。森の木々の根と幹をそのまま壁にし、頭上では樹冠を編み合わせて天蓋としている。地形ごと、まるごと造り変えたような構造だった。入り口は、異様に広い。暗い洞ではなく、木漏れ日が漏れて薄明るい。
そして、それは不自然なほど整っていた。木の配置、通路の幅、天井の高さ。自然のものでありながら、すべてに人工的な秩序がある。誰かが――いや、何かが、設計したのだ。
不気味だった。だが、美しくもあった。虫の合理が森を造り変えた、その果てのかたち。
「これは、凄いのぉ」
リィズが、低く呟いた。
「アリの巣というより……野戦陣地のようなものじゃの」
感心と、緊張が、半分ずつ混じった声だった。凄い、の一語の裏に、ここが敵の本拠だという認識がある。
トウヤは、答えなかった。視線だけで、暗がりの奥を探っている。
「……行くか」
「うむ」
短いやりとりだけで、二人は足を踏み入れた。




