ドンと慕われた男
ベッドに、一人の男が上半身を起こしていた。ぼうっと、ただそこにいる。
全身はほとんど機械に置き換わり、表情はない。瞳は虚ろで、どこも見ていなかった。歳の頃は、初老に差しかかったあたりだろうか。
一目で、わかった。
人形病の、末期だ。
トウヤは、動けなかった。妹の、行き着く先がそこにあった。隣で、リィズもまた、凍りついたように立ち尽くしている。
ルチアーノは、二人の様子を気にするふうもなく、ベッドのそばへ歩み寄る。
「客人を連れてきたぜ、親父」
ドンは、目線ひとつ動かさなかった。何も返さない。ルチアーノはそれを当たり前のように受け流すと、こちらへ向き直った。
「この街でドンと呼ばれた、伝説のハンターが――俺達の、親父さ……もう、言葉も喋れねぇ」
ルチアーノが、ぽつりと言った。
「指の一本すら、動かせねぇんだ」
ドンは答えない。虚ろな瞳が、ただ宙を見ている。ルチアーノの声だけが、静かな部屋に落ちていく。
「孤児だった。どうしようもねぇ、行き場のねぇガキでな。俺も、ここにいる連中も……みんな、この人に拾われた。ホストからこの街を救った英雄だ。誰もが頼った、凄腕のハンターだった。それが――」
言葉が途切れた。
ルチアーノは奥歯を噛むように顔を歪める。目の縁が、濡れていた。
「それが、こんなふうに……だから、許さねぇ」
絞り出すような声だった。
「親父を……俺の家族を、こんな目に遭わせたホストを――女王アリを、必ずぶっ殺してやる」
「ああ」
涙の余韻が、まだ部屋に残っている中、トウヤは短く頷いた。
それを受けてリィズが静かに口を開いた。
「魔石は……使えんのか」
ルチアーノが、ふっと息を吐く。手の甲で目元を拭うと、どこか苦い声で答えた。
「ああ。粉にして、少しずつ飲ませる。万能薬なんて呼ばれちゃいるが――薬の類じゃねぇ。石ってのはな、飲んだ奴の器を、無理やり引き上げるんだ。底上げってやつさ。そうすると、底上げされた身体が……勝手に、自分を浄化しはじめる。病も、傷もな。それで結果的に治っちまう。だから万能薬だ」
トウヤは、ちらりとドンを見た。
「だが」
ルチアーノの声が沈む。
「今の親父にゃ、使えねぇ。弱りきった身体は、ほんの少しの力にも耐えられねぇ。引き上げる前に……器のほうが、砕けちまう」
リィズが、目を伏せた。
「……そうか」
短い呟きだった。表情が、わずかに陰る。
トウヤは、もう一度ドンへ目をやってから尋ねた。
「末期じゃなければ……有効なのか」
「万能薬としてなら、どんな石でもいい。器さえ上がりゃ、浄化は働く。――だが」
ルチアーノが、わずかに声を落とした。
「同じ原因のホストの石なら、もっと効く。特効薬みたいなもんだ。元が同じだから、効きが違う」
トウヤの反応を、ルチアーノが見ていた。何かを察したように、けれど答えは慎重だった。
「可能性はある。だがな、少量でも毒は毒だ。健康体で、この大陸にしっかり馴染んだ人間――ハンターとしてやっていけるくらいの器がありゃあ、見込みがある。その程度に考えとけ」
トウヤの手が、無意識に懐へ触れた。
キッドの魔石。その奥で、それが微かに熱を帯びた気がするのは――気のせいか。
「……それでも」
すがるような呟きだった。だが、口にした端から、トウヤは静かにそれを否定する。小さくかぶりを振った。都合のいい話に酔っている場合じゃない。
「ホストを倒さなきゃ、根本的にはどうにもならない。……そういうことか」
ルチアーノが頷いた。
「元を断たねぇとな。倒したところで、進行が止まるだけだ。治るわけじゃねぇ。……だが、止まらなきゃ、話にならねぇだろ」
トウヤの肩が、落ちた。
ルチアーノが、その様子をしばらく見ていた。
「……家族がこんな目に遭うのは、辛いよな。誰か、大事な人でも治したいのか」
トウヤは、すぐには答えなかった。やがて、ぽつりと口を開く。
「……妹がいる」
淡々とした声だった。
「人形病だ。末期に近い。この人ほどじゃないが……四肢は、もう全部、人形になってる。下半身は完全に。上半身にも、広がってきてる。一人じゃ、もう動けない。……まだ喋れるし、話も通じる。今のところは」
言葉を選ぶというより、見てきたものを、ただ並べるように。
「そうか」
ルチアーノが、静かに言った。慰めるような声だった。
「だったら、なおさらだ。女王アリを倒して、元を断ってやろうぜ。お前の妹のためにもな」
「……ああ。倒す」
自分に言い聞かせるような声でトウヤ答えた。
「家族か」
リィズが、ぽつりと呟いた。
そして、ドンの前へ数歩、歩み出る。ベッドのそばに立ち、虚ろな瞳を覗き込むように、正面から向き合った。
その瞳が、動いた。
宙をさまよっていたドンの目が、ゆっくりとリィズを捉える。互いの、深紅を思わせる瞳が交差した。
「あ……あぁ……エ、リ……ザ……」
うめきとも、声にならない声ともつかないものが、ドンの口から漏れた。指一本動かせないはずの手が、震えながら、ゆっくりとリィズのほうへ伸びていく。
「親父? 動けるはず、が……」
ルチアーノの声が、跳ねた。
リィズは、伸ばされた手をそっと両手で包み込む。握るというより、抱くように。その手つきが、ひときわ優しくなった。漏れ出た声を聞いても、リィズは何も言わなかった。ただ、まなざしだけが、深くなる。
「家族は大事じゃの」
静かな声だった。
「しかもそれが今生の別れになるなど、二度とあってはならんことじゃ。そう――二度とな」
リィズは、包んだ手をゆっくりとベッドへ戻すと、はだけかけたシーツをそっと直してやった。
それから、クルリと振り向く。
「よし、やるぞ。わしらでホストを、ケチョンケチョンにしてやるのじゃ」
声が、もう明るかった。
トウヤは、口の端を上げた。
「ああ。ボッコボコのボコにしてやろう」
ルチアーノだけが、一拍遅れた。
「お、おう……それじゃ、作戦会議としゃれこもうか」
扉が、パタンと閉じた。
誰もいなくなった部屋に、静けさが戻ってくる。
ベッドの上で、ドンはさっきと同じ姿勢のまま、虚ろに宙を見ていた。
その唇が、かすかに動いた。
声にはならない。けれど、それは――愛おしいものの名を、呼ぼうとしているようだった。
窓から、風が入ってくる。庭の緑を通った、柔らかい風だった。
風は、三人が出ていった扉のほうへ――そっと、流れていった。




