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ガングニール・フロンティア 〜蒸気荒野の剣と人形〜  作者: (鉄)
3章「刃と銃声と、幸運と」
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ブラッドベア

 ほんの一瞬の出来事のはずなのに、妙に長く感じられた。どちらも、言葉がなかった。


 部下の狼たちも同じだった。崖の上の熊を見やり、息も絶え絶えのボスへ視線を向ける。動かない。唸らない。ただ見ている。風だけが荒野を吹き抜け、砂が舞った。


 その静止から最初に動き出したのは、狼たちのほうだった。仲間意識か、数の差か、縄張り意識か――何が彼らをそうさせたのかは、わからない。ゆっくりと唸り声が上がり始める。一頭、また一頭、唸りが連鎖していく。


 だが、その視線が向く先は、もう二人ではなかった。崖の上の熊だ。本能が、順位を決めていた。狼たちにとって、二人はもはや眼中にない。


 群れがゆっくりと陣形を整える。熊を取り囲むのではない。待ち構えるように。攻めには出ず、迎え撃つ構えだった。


 熊が、崖の上からゆっくり降りてくる。狼の群れなど歯牙にもかけないように。急がない。一歩、また一歩、巨体が崖の岩肌を踏みしめる。落石もなく、静かに、確実に。崖下に降り立つと、群れをぐるりと見渡した。一頭一頭を確かめるように。その目線の高さは、狼たちよりも遥かに上にあった。


 熊が、ゆっくりと息を吸い込む。巨大な胸郭が膨らみ――


 空気が、押し潰された。


 ボス狼の遠吠えと同等、いや、それ以上だった。その場のすべてに圧がのしかかる。砂が舞い、低木が大きくしなる。トウヤとリィズも、思わず身を強張らせた。


 それでも狼の群れは、まだ戦意を失っていなかった。陣形も瓦解していない。唸り声こそ止まっているが、隊列を保っている。数十頭が、あの圧を浴びてなお立っている。旧大陸では、考えられない練度だった。


 熊が一歩、踏みしめる。地面がわずかに鳴る。重い。狼たちの視線が、熊に集中した。


 そこへ、背後からボス狼が跳んだ。


 最後の力を振り絞った跳躍だった。音もない。瀕死とは思えない俊敏さで、牙を剥いて熊の首筋を狙う。熊はそちらを見ていない。気配にも気づいていないように見えた。


 牙が、熊の首筋に届く。突き立てる――だが、通らない。分厚い筋肉と毛皮に阻まれ、牙が滑る。突き刺さらない。


 熊が、ようやくそちらを見た。


 振り返りざまの爪が、一閃。ボス狼が薙ぎ払われ、宙を舞い、地面に叩きつけられて、それきり動かなくなった。


 その死体から、わずかに光が揺らいだ。だが身体は消えない。横たわった体の内側に、小さな結晶のような光が灯っている。


 ボスを失った狼たちが、一斉に散った。戦意を完全に失い、尻尾を巻いて荒野の彼方へ消えていく。陣形は、もうなかった。


 残されたのは、熊と、トウヤとリィズの三者だった。二人は黙って見ている。熊の視線は、二人に向いていた。動かない。


「さて、わしらも帰ろうかのぉ」


 構えはまだ解いていない。だが声だけは、妙に軽かった。


「のぉ、旦那さまや」

「そうしたいところだがな」


 トウヤも、視線は熊から外さない。


「お前に用があるみたいだぞ」


「いやいや、わしには、心当たりがないからのぉ。旦那さまの客人じゃないかの?」

「オレだって覚えがない」


 軽口を叩く。だが、逃げられそうにはなかった。熊の視線は、ぴたりと二人に固定されたまま、外れない。


 熊は二人を完全にロックオンしていた。距離は十数メートル。動かない。視線だけが、固定されている。


 リィズが足元の狼の死骸に目をやった。


「あー、肉ならほれ、そこらにあるじゃろ。腹が減っておるなら、好きなだけ食べていいぞ。わしらは別に止めぬからの」

「どう考えてもオレらにロックオンしてないか? 肉に興味はなさそうだぞ」

「ふむ?」

リィズが首をかしげる。


「こんなかわゆいわしを食べたくなる気持ちはわかるがの〜。もう少し選り好みしてほしいものじゃ」


 声だけは余裕がある。だが、構えは解いていない。


 熊が唸り声を上げた。次の瞬間、突進してくる。巨体に似合わぬ速度で、砂を巻き上げ、まっすぐに。


 リィズが慌ててライフルを構え、狙撃した。弾丸が熊の右の前足に命中する。熊は右手を軽く振っただけで、その弾丸を薙ぎ払った。出血はある。確かに当たった。だが、致命傷にはほど遠い。


 熊が、薙ぎ払った右手に視線を落とした。血が滲んでいる。それを、ぺろりと舐めた。ゆっくりと、味わうように。


「まともに食らって……なんて奴じゃ」


 リィズはライフルを下ろさない。だが、次の弾を込める手に、わずかな躊躇いがあった。


 トウヤが刀を構え直す。切っ先を熊に向け、口元がわずかに歪んだ。足を熊のほうへ向け、自分から踏み込んでいく。


 ゆっくりと、正面から接近する。交錯した。


「シッ」


 刃が熊の右手を狙う。斬撃が入った。刃が肉に届く。だが――軽い出血程度だ。腕の一本くらい斬り落とせる自信があった。それが、予想以上に硬い。


「硬ぇ……捉えたはずなんだが」


 すかさず、リィズの弾丸が熊の顔面に突き刺さった。熊が顔をのけぞらせ、わずかに怯む。その隙にトウヤが踏み込み、熊の腹を斬る。完璧に捉えた。刃筋も角度も申し分ない。なのに、やはりうまく切れていない。浅い。


 距離を取り直しながら、トウヤがぶつぶつ呟き始めた。


「肉体か……いや、毛皮か……角度を、もう少し――いや、それより刃の入りそのものを――」


 リィズがちらりとトウヤを見た。戦闘の最中だというのに、集中していない。――いや、違う。集中していないわけではない。むしろ別のことに集中している。戦いそのものではなく、剣のほうに。

 わかっている。アヤツのこういう性質だ。


「やれやれ……」


 リィズは思わず軽く首を振る。

 ため息をつきながらも、わずかに口元が緩んでいた。


「しょうがないやつじゃのぉ」

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