ブラッドベア
ほんの一瞬の出来事のはずなのに、妙に長く感じられた。どちらも、言葉がなかった。
部下の狼たちも同じだった。崖の上の熊を見やり、息も絶え絶えのボスへ視線を向ける。動かない。唸らない。ただ見ている。風だけが荒野を吹き抜け、砂が舞った。
その静止から最初に動き出したのは、狼たちのほうだった。仲間意識か、数の差か、縄張り意識か――何が彼らをそうさせたのかは、わからない。ゆっくりと唸り声が上がり始める。一頭、また一頭、唸りが連鎖していく。
だが、その視線が向く先は、もう二人ではなかった。崖の上の熊だ。本能が、順位を決めていた。狼たちにとって、二人はもはや眼中にない。
群れがゆっくりと陣形を整える。熊を取り囲むのではない。待ち構えるように。攻めには出ず、迎え撃つ構えだった。
熊が、崖の上からゆっくり降りてくる。狼の群れなど歯牙にもかけないように。急がない。一歩、また一歩、巨体が崖の岩肌を踏みしめる。落石もなく、静かに、確実に。崖下に降り立つと、群れをぐるりと見渡した。一頭一頭を確かめるように。その目線の高さは、狼たちよりも遥かに上にあった。
熊が、ゆっくりと息を吸い込む。巨大な胸郭が膨らみ――
空気が、押し潰された。
ボス狼の遠吠えと同等、いや、それ以上だった。その場のすべてに圧がのしかかる。砂が舞い、低木が大きくしなる。トウヤとリィズも、思わず身を強張らせた。
それでも狼の群れは、まだ戦意を失っていなかった。陣形も瓦解していない。唸り声こそ止まっているが、隊列を保っている。数十頭が、あの圧を浴びてなお立っている。旧大陸では、考えられない練度だった。
熊が一歩、踏みしめる。地面がわずかに鳴る。重い。狼たちの視線が、熊に集中した。
そこへ、背後からボス狼が跳んだ。
最後の力を振り絞った跳躍だった。音もない。瀕死とは思えない俊敏さで、牙を剥いて熊の首筋を狙う。熊はそちらを見ていない。気配にも気づいていないように見えた。
牙が、熊の首筋に届く。突き立てる――だが、通らない。分厚い筋肉と毛皮に阻まれ、牙が滑る。突き刺さらない。
熊が、ようやくそちらを見た。
振り返りざまの爪が、一閃。ボス狼が薙ぎ払われ、宙を舞い、地面に叩きつけられて、それきり動かなくなった。
その死体から、わずかに光が揺らいだ。だが身体は消えない。横たわった体の内側に、小さな結晶のような光が灯っている。
ボスを失った狼たちが、一斉に散った。戦意を完全に失い、尻尾を巻いて荒野の彼方へ消えていく。陣形は、もうなかった。
残されたのは、熊と、トウヤとリィズの三者だった。二人は黙って見ている。熊の視線は、二人に向いていた。動かない。
「さて、わしらも帰ろうかのぉ」
構えはまだ解いていない。だが声だけは、妙に軽かった。
「のぉ、旦那さまや」
「そうしたいところだがな」
トウヤも、視線は熊から外さない。
「お前に用があるみたいだぞ」
「いやいや、わしには、心当たりがないからのぉ。旦那さまの客人じゃないかの?」
「オレだって覚えがない」
軽口を叩く。だが、逃げられそうにはなかった。熊の視線は、ぴたりと二人に固定されたまま、外れない。
熊は二人を完全にロックオンしていた。距離は十数メートル。動かない。視線だけが、固定されている。
リィズが足元の狼の死骸に目をやった。
「あー、肉ならほれ、そこらにあるじゃろ。腹が減っておるなら、好きなだけ食べていいぞ。わしらは別に止めぬからの」
「どう考えてもオレらにロックオンしてないか? 肉に興味はなさそうだぞ」
「ふむ?」
リィズが首をかしげる。
「こんなかわゆいわしを食べたくなる気持ちはわかるがの〜。もう少し選り好みしてほしいものじゃ」
声だけは余裕がある。だが、構えは解いていない。
熊が唸り声を上げた。次の瞬間、突進してくる。巨体に似合わぬ速度で、砂を巻き上げ、まっすぐに。
リィズが慌ててライフルを構え、狙撃した。弾丸が熊の右の前足に命中する。熊は右手を軽く振っただけで、その弾丸を薙ぎ払った。出血はある。確かに当たった。だが、致命傷にはほど遠い。
熊が、薙ぎ払った右手に視線を落とした。血が滲んでいる。それを、ぺろりと舐めた。ゆっくりと、味わうように。
「まともに食らって……なんて奴じゃ」
リィズはライフルを下ろさない。だが、次の弾を込める手に、わずかな躊躇いがあった。
トウヤが刀を構え直す。切っ先を熊に向け、口元がわずかに歪んだ。足を熊のほうへ向け、自分から踏み込んでいく。
ゆっくりと、正面から接近する。交錯した。
「シッ」
刃が熊の右手を狙う。斬撃が入った。刃が肉に届く。だが――軽い出血程度だ。腕の一本くらい斬り落とせる自信があった。それが、予想以上に硬い。
「硬ぇ……捉えたはずなんだが」
すかさず、リィズの弾丸が熊の顔面に突き刺さった。熊が顔をのけぞらせ、わずかに怯む。その隙にトウヤが踏み込み、熊の腹を斬る。完璧に捉えた。刃筋も角度も申し分ない。なのに、やはりうまく切れていない。浅い。
距離を取り直しながら、トウヤがぶつぶつ呟き始めた。
「肉体か……いや、毛皮か……角度を、もう少し――いや、それより刃の入りそのものを――」
リィズがちらりとトウヤを見た。戦闘の最中だというのに、集中していない。――いや、違う。集中していないわけではない。むしろ別のことに集中している。戦いそのものではなく、剣のほうに。
わかっている。アヤツのこういう性質だ。
「やれやれ……」
リィズは思わず軽く首を振る。
ため息をつきながらも、わずかに口元が緩んでいた。
「しょうがないやつじゃのぉ」




