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『お転婆おイネの幕末カルテ』 ~シーボルトの娘に転生したけれど、現代医学のほうが効きますが何か?~  作者: 楠木 悠衣


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第6話 生と死の境目

熱は。


その日の夜から上がり始めた。


嫌な熱だった。


わたしは何度も患者の額に触れる。


熱い。


脈を測る。


速い。


呼吸も浅い。


予想通りだった。


予想通りだからこそ。


恐ろしかった。


夜半。


患者がうわ言を言い始める。


「網を……」


苦しそうな声だった。


「引け……」


漁の夢を見ているらしい。


額には汗。


呼吸は荒い。


妻が何度も手拭いを替える。


わたしは座ったまま動かなかった。


眠れなかった。


眠る気にもなれなかった。


もし。


もしここで感染が広がれば。


わたしには止める手段がない。


現代なら。


抗菌薬。


輸液。


血液検査。


CT。


いくらでも打つ手がある。


だが。


ここにはない。


何もない。


知識だけだった。


その知識が。


今は残酷だった。


知らなければ希望を持てる。


だが。


知っているから分かる。


どれほど危険なのか。


どれほど死に近いのか。


そして。


どれほど無力なのか。


わたし自身が。


夜明け前。


敬作先生がやって来た。


患者を見る。


脈を測る。


熱を確かめる。


何も言わない。


しばらくして。


ぽつりと聞いた。


「寝ておらんのか」


「眠れません」


「そうか」


それだけだった。


だが。


その一言で。


胸の奥に押し込めていたものが少しだけ揺れた。


「先生」


思わず呼び止める。


敬作先生が振り返る。


「なんだ」


言うべきではない。


分かっていた。


医者が口にする言葉ではない。


それでも。


口から零れ落ちた。


「わたしが」


喉がひどく痛かった。


「わたしが殺したのでしょうか」


静寂。


蝋燭の火が揺れる。


敬作先生はすぐには答えなかった。


長い沈黙。


やがて。


「まだ死んでおらん」


低い声だった。


慰めではない。


叱責でもない。


事実だった。


「医者はな」


敬作先生は患者を見た。


「生きている者を見ながら死んだ話をするな」


わたしは俯いた。


何も言えなかった。


朝。


町では噂が広がっていた。


鬼医者。


腹裂き娘。


異人の血。


もう助からぬ。


人の口は忙しい。


わたしは聞かなかった。


聞く余裕がなかった。


患者の呼吸だけを見ていた。


胸が上下しているか。


それだけを。


昼。


患者の母親がやって来た。


皺だらけの手。


赤く腫れた目。


布団の脇へ座る。


そして。


眠る息子の手を握った。


「馬鹿な子じゃ」


震える声だった。


「小さい頃から」


笑う。


泣きながら。


「言うことを聞かん」


わたしは黙っていた。


母親は続ける。


「川へ落ちた」


「崖から落ちた」


「牛にも蹴られた」


ひとつひとつ。


宝物を取り出すみたいに。


語る。


「それでも」


患者の髪を撫でる。


「帰ってきた」


声が震える。


「今度も帰ってこい」


部屋が静かになった。


わたしは顔を上げられなかった。


夕方。


患者が目を覚ました。


わたしは飛び起きる。


男はゆっくり目を開く。


焦点が合わない。


だが。


意識はある。


「先生」


掠れた声だった。


「水を」


妻が泣きながら水を飲ませる。


ほんの少しだけ。


男は飲み込んだ。


その瞬間。


部屋の空気が変わった。


生きている。


確かに生きている。


妻が泣く。


母親も泣く。


子供たちも泣く。


男は困ったように笑った。


「なんだ」


掠れた声。


「俺はまだ死んどらんぞ」


皆が笑った。


泣きながら。


笑った。


すると。


末娘が父親の胸にしがみつく。


男は弱々しく娘の頭を撫でた。


そして。


わたしを見た。


「先生」


「はい」


「約束」


掠れた声だった。


「忘れるなよ」


胸が詰まる。


海を嫌わせるな。


あの約束だった。


わたしは強く頷いた。


「忘れません」


男は満足そうに笑った。


その笑顔を見た瞬間。


胸の奥が痛んだ。


もし。


もしこの人が死んだら。


この笑顔は何になる。


この希望は。


誰が与えた。


わたしだ。


わたしが。


希望を与えた。


その事実が。


ひどく恐ろしかった。


夜。


熱はまた上がった。


せっかく芽生えた希望を嘲笑うように。


わたしは縁側へ出た。


月が出ていた。


そこに蔵六がいた。


茶を飲んでいる。


「眠らんのか」


「眠れません」


「そうか」


沈黙。


風が吹く。


庭木が揺れる。


やがて。


蔵六が聞いた。


「お前は失敗したのか」


わたしは答えられなかった。


本当に分からなかった。


「……分かりません」


正直に言う。


蔵六は小さく頷く。


「ならまだ終わっておらん」


わたしは顔を上げた。


蔵六は月を見ていた。


「学問というのは便利だ」


ぽつりと言う。


「人は分かった気になる」


静かな声だった。


「だが」


患者のいる部屋を見る。


「人は学問通りには死なん」


少し間を置く。


「生きもせん」


わたしは何も言えなかった。


夜明け前。


患者の呼吸が。


少しだけ落ち着いた。


本当に少しだけ。


気のせいかもしれない。


それでも。


確かに。


少しだけ。


わたしは息を止めた。


額に触れる。


熱い。


まだ熱い。


だが。


昨夜より。


少しだけ低い。


脈を測る。


まだ速い。


安心などできない。


何ひとつ。


安心できない。


それでも。


わたしは患者の手を握った。


大きな手だった。


漁師の手。


家族を養ってきた手。


海と生きてきた手。


その手は。


昨日より少しだけ。


温かかった。


障子の向こうで朝日が昇る。


部屋に淡い光が差し込む。


わたしは患者の手を握ったまま。


じっとその顔を見つめた。


まだ熱い。


まだ危ない。


まだ終わっていない。


それでも。


その手は。


確かに昨日より温かかった。

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