第98話 鳴海に立つ織田の旗
鳴海へ向かう荷駄の先頭が、朝霧の薄れる道へ踏み出した。
米俵を積んだ馬の前には、龍之介の兵が歩いている。昨日まで守っていた川の高みは、勝三郎の隊へ引き継いだ。那古野の百人のうち、傷を負った四人を除く九十六人が、見張りと交代の役を受け持っている。
道の分かれ目に築いた陣には、末森の九十八人が残った。龍之介が預かる九十五人は、信長と荷を守って鳴海へ向かう。
川の備えを解いて、全員が南へ動いたわけではなかった。
「北から使いが来た時には、荷駄の列へ入れるな。西脇を通し、若様のもとへ案内してくれ」
龍之介は矢田与四郎へ声をかけた。道に慣れた矢田は、供の者を一人つけて頷く。
梶原の組で腿を傷めた兵も、ほかの負傷者とともに後ろへ残してある。留吉たち四人は那古野で療養を続けており、五組の人数を元へ戻すにはまだ日が要った。
信長は列の半ばを馬で進んだ。又左と彦右衛門は近臣としてその周囲につき、九十五人の組には含まれていない。
荷駄には、那古野から追加で届いた米も加わっていた。その脇を、小柄な男が歩いている。
「藤吉郎、馬の後ろへ入りすぎるな。こちらの兵に気づかず、蹴られるぞ」
「承知しております。平手様からも、荷を急がせる前に馬借の申すことを聞けと、念を押されました」
藤吉郎は足を緩め、馬借へ水場までの道を尋ねた。平手が荷運びの手伝いに遣わしたのであって、槍を持つ兵として連れてきたのではない。
龍之介はその様子を見届け、前へ戻った。
道端の村から、人が顔を出し始めていた。槍の列を見て戸口へ引っ込んだ者が、その後ろを通る米俵と信長の旗を確かめ、もう一度外へ出てくる。
「那古野からの兵でございますか。鳴海へ行かれるので」
老人が道の脇で頭を下げた。龍之介が頷くと、老人は連れていた子供を自分の後ろへ寄せ、列が通れるよう場所を空けた。
龍之介には、その動きが目に残った。道を守ったという報せだけでは、村人の不安は消えない。今は米を積んだ馬も、鎧を着けた兵も、彼らの目の前を鳴海へ進んでいた。
◇
城下の入口で待っていたのは、山口九郎二郎教吉だった。
供の兵は少なく、街道を塞ぐような迎え方はしていない。信長を見ると馬を降り、まず城へ続く道を示した。
「父は城内でお待ちしております。荷は西の門へ回せるよう、受け取る者を出してございます」
「道の北側は押さえた。だが、使いを絶やすな。敵が引いたことと、道がどこも安全になったことは同じではない」
信長が言うと、教吉は真顔で応じた。
「心得ております。川へ出した物見も戻しきってはおりませぬ。小坂と組ませ、そちらの陣へ知らせを通します」
龍之介は城戸に荷駄の引き渡しを任せ、教吉とともに先へ歩いた。
城下には、門の内へ運び込む薪が積まれていた。鍛冶場の槌音に、矢竹を束ねる音が重なる。戦を恐れて仕事をやめた町ではないが、人々は通り過ぎる兵の数を目で追っていた。
鳴海城の門では、山口左馬助教継が待っていた。
「三郎様。城を空けずに迎えよとの仰せ、ありがたく頂戴いたしました」
「左馬助が守る城だ。俺を迎えるために、守りの薄い所を作られては困る」
信長は馬を降り、教継と並んで門をくぐった。後ろでは荷を受ける声が上がり、米俵を担ぐ者が蔵へ向かっている。
教継は、その列を一度見てから信長へ向き直った。
「川で敵を退けたうえ、荷まで届けていただいた。これで城の米を外の見張りへ回せます。村々から、急いで集め直さずとも済みまする」
龍之介は、荷駄馬から外された鞍が地面へ置かれるのを見た。城へ入った米は、蔵を満たすためだけのものではない。兵を城の外で働かせ、村の収穫を取り上げずに備えを続ける余地になる。
信長が求めていたのも、その余地だった。
「北を守る兵は置いた。次は、鳴海の東を見たい。左馬助の物見が見た道と、こちらの兵が通れる道を、同じ場所で確かめる」
「九郎二郎と小坂をつけます。ただ、東の兵を皆、城へ集めるようなことはいたしたくありませぬ。村に旗がなくなれば、敵の物見が入り込みます」
「集めるために来たのではない。外の備えを繋ぐために来た」
信長は、まだ米俵を運んでいる門へ顔を向けた。
「その相談を、荷が届かぬままする気はなかった」
教継が、ゆっくり頭を下げた。
◇
龍之介が教吉、小坂と東へ出たのは、兵たちが食事を取った後だった。
龍之介の隊から二十人。源太の組を軸に人数を整え、孫七も加えている。残る七十五人は城戸と梶原が城外の荷駄溜まりで休ませ、信長の指図に備えた。
教吉の供も二十人で、小坂が先を案内する。双方が別々に道を進むのでなく、先頭と後ろへ鳴海の者を置き、その間に那古野と末森の兵を入れた。
教吉は、田の向こうにある林を指した。
「あの先へ出れば東の道を見渡せます。以前なら、物見を二人ずつ置けば足りました。今は追われることもあり、留まらせる人数を増やしております」
龍之介は道から林までの地面を見た。刈り終えた田の縁には、踏み固められた畦が続いている。荷を運ぶ道はその間を曲がり、小さな尾根の南を回っていた。
尾根の上にいた山口家の兵が、こちらへ手を振った。
東の遠くには、人の列が見えた。槍を立てた者が道を進み、その後ろを荷駄が追っている。こちらへ一直線に押し寄せているのではなく、林の東側へ集まりつつあるようだった。
「川を渡れなかった者が、城の正面へ回ってきたか」
教吉の声に、龍之介はすぐには頷かなかった。
「同じ兵かどうかは、まだ分かりませぬ。川から戻った者に、別の兵が合流したことも考えられます。見える旗と、荷の進む先を確かめましょう」
孫七は槍の列より後ろを見ていた。
「荷は林へ入っております。道を引き返してはおりませぬ。あそこで飯を炊き、兵を置く支度かと」
敵は川を諦めても、鳴海そのものを諦めてはいなかった。
龍之介は尾根を少し南へ歩き、城との間を振り返った。ここを取られても、すぐに城が落ちるわけではない。だが、敵は城下と東の村を見下ろせるようになる。畑へ出る者も、荷を運ぶ者も、その目の前を通らねばならなかった。
教吉が供の兵へ顔を向けた。
「川から逃げた者なら、支度ができぬうちに追い散らしたいところだ。だが、向こうの林の奥までは見えんな」
「ここをこちらの備えに変える方が先です。相手が陣を整えてから追い払うより、今ここで止める方が少ない兵で済みます」
龍之介は尾根の北側へ下り、馬借の使う道を見た。水の溜まる低地を避け、城へ戻れる地面が続いている。
「この道から水と矢を上げられます。反対の斜面は敵から見え、北には深い溝がある。守る側が場所を選ぶなら、使えます」
小坂が溝の底を覗き込んだ。
「雨が降れば水が流れます。向こう側から大勢で越えるには、渡る場所を探さねばなりますまい」
龍之介は教吉を見た。
「父上へ、ここを守るために必要な人数を尋ねていただけますか。若様にも同じことを伝えます。山口家だけで抱えず、川の備えと兵を分け合いたい」
教吉は供の一人を呼び、自分で伝える言葉を選んだ。
◇
使いの返りを待つ間に、龍之介は二十人へ尾根の幅を確かめさせた。
源太は敵に姿を見せすぎぬ位置へ槍を置き、孫七は射線を選んだ。教吉の兵は小坂とともに戻る道を見て、井戸を使っている近くの村へ、人を送っている。
尾根の東端には、古い畑の木柵が残っていた。風で外れた横木が斜面へ落ち、先の尖った杭だけが何本も立っている。
龍之介はその間隔を見て、教吉へ言った。
「ここへ新しい柵を並べるなら、先にこの杭を退けましょう。こちらの兵が前へ出る所に残すと、足を取られます」
二人がかりで引いても抜けぬ杭を、龍之介は根元から揺すった。土へ深く打たれた木が軋み、やがて泥をまとった先端が抜ける。続けて横木を運び、槍を構える兵の足元を空けた。
教吉も袖を括り、供の者と石を運び始めた。見張りの兵へ任せて立っているだけではなく、自分の足で斜面を踏み、どこから槍が届くかを確かめている。
日が傾き始めた頃、西からまとまった足音が聞こえた。
先頭に立つ信長を見て、教吉が姿勢を正した。その後ろには、城で休ませていた龍之介の七十五人がいる。さらに、山口家の旗を掲げた兵も続いていた。
「左馬助が、四十人を出した。九郎二郎が率いる」
信長は尾根へ上がると、まず東の林を見た。
「父は城を守ります。城門と、村へ出している見張りを残したうえでの四十人です。ここへ来た二十人も、その中に含めております」
教吉が告げる。山口家の兵が勝手に龍之介の配下へ入るわけではない。教吉がその兵を率い、龍之介の九十五人と、隣り合って持ち場を守る。
信長は小坂に水を運ぶ道を示させ、龍之介に北側の溝を見せるよう命じた。歩いて一巡した後、尾根の中央へ立つ。
「右は九郎二郎、左は龍之介。後ろへ戻す兵を、それぞれ二組ずつ決めておけ。矢が減ったからと、全員を下へ走らせるな」
教吉と龍之介が、それぞれ組頭を呼んだ。
木柵は一度には揃わない。まず槍を持つ兵が立ち、その後ろで横木を運ぶ。龍之介は来たばかりの末森の組に北側を任せ、源太たちを一度下げた。先に働いていた者をそのまま最前へ置けば、暗くなる前に足が鈍る。
川の高みで覚えた命令を、新しい場所でも同じように通す必要があった。
東の林から、敵の物見が現れた。
数人がこちらを見て足を止める。鳴海の旗だけでなく、信長の旗が尾根に立ち、左右に槍が並ぶのを確かめると、林へ引き返していった。
龍之介は追わせず、槍を置く兵をもう一列増やした。
◇
夕暮れの尾根へ、城から水桶と飯が届いた。
教継は城を空けなかった。その代わり、息子の兵と、ここで夜を越すための物を送ってきたのである。
水を受け取った末森の兵が、隣の山口家の兵へ桶を回した。互いに名も知らぬ者同士だったが、暗くなる前に済ませる仕事は同じだった。
龍之介は西の道を確かめに下り、荷を運び終えた藤吉郎と行き合った。空いた馬を率いる馬借について、城からここまで来たという。
「向こうから上がる者と、城へ戻る者がぶつかっておりましたので、曲がりの手前で分けてもらいました。けれど、暗くなれば人を一人立たせた方がよろしいかと」
龍之介は矢田に知らせるよう頼み、藤吉郎自身は馬借とともに城へ戻らせた。思いつきを述べるだけでなく、誰に頼めば人が動くかまで見ていたことが、龍之介には嬉しかった。
尾根へ戻ると、信長が城の方角を見ていた。
「左馬助は、九郎二郎をここへ出した。俺の旗の隣へ、山口の旗を立てたわけだ」
「城を守ったまま、外でもともに戦えるようになりました」
「父上へは、そう知らせる。荷を届けただけではなく、鳴海の兵と陣を繋いだとな」
信長は、東へ向けた柵の間を歩き、兵たちの顔を見て回った。
龍之介は教吉と、暗くなってからの交代を決めた。城への使いは西へ下ろし、東の林へ近づく物見は双方から一人ずつ出す。片方だけが見たものを、もう片方が知らぬままにはしない。
川の渡り口は勝三郎が押さえ、道の分かれ目には末森の兵がいる。その先に、山口家の兵とともに立つ尾根が加わった。
教吉が自分の旗の位置を確かめ、龍之介の隣へ戻ってくる。
「右の斜面は、こちらで受け持ちます。敵が左へ回れば知らせますので、そちらの兵を先に動かしてください」
「承知しました。こちらも、右へ移れる道を空けておきます」
龍之介は柵の外へ一歩出て、二本の旗を見上げた。川を守ってきた兵と、鳴海を守り続けた兵が、今夜から同じ尾根で眠る。
龍之介が槍の列へ戻る頃には、東の林に敵の炊く火が増え始めていた。




