第97話 百人を預ける
河原から運び出された負傷者が陣へ戻ると、龍之介は槍を置き、腿を切られた兵のそばへ膝をついた。
梶原の組の男だった。巻いた布の外まで血が滲んでいるが、呼びかければ返事はできる。歩こうとするのを梶原が押し留め、敷いた藁へ寝かせていた。
「組を抜けた分は、傷が塞がってから働いてもらう。今は、運ぶ者の手を借りてくれ」
龍之介が言うと、男は唇を噛んでから頷いた。
勝三郎の隊で四人、末森の隊で二人。今日の戦で戦列を離れた者は、この男を合わせて七人になる。那古野に残した留吉たちを呼び出して埋めることはできず、龍之介の五組は四十五人で動かさねばならなかった。
手当てをする者へ場所を譲ると、彦右衛門が土手から下りてきた。
「若がお呼びです。小坂殿も、川沿いを見て戻られました」
龍之介は水を飲み、槍を取り直した。肩には、打ち合った柄の重さがまだ残っている。
信長は陣の東端に立ち、戻ってきた小坂主馬の話を聞いていた。
「対岸の荷は、来た道へ戻しております。ただし、舟は二艘とも上流へ曳き始めました。負傷者を運ぶ者と、川沿いへ進む者が分かれております」
龍之介は、川の曲がる辺りへ目を向けた。
東岸の兵が一斉に帰るなら、負傷者も米も、同じ道を進むはずだった。舟だけを川上へ運ぶのは、別の場所でまだ働かせるつもりだからだろう。
「向こうも、荷揚げ場を変えれば済むと考えておるようだな」
信長の声に、苛立ちはなかった。相手が何を残し、何を動かしたかを確かめている。
龍之介は小坂へ向き直った。
「川上で荷を揚げるとして、西岸から鳴海へ出る道はどこにございますか。舟を着ける岸だけでなく、その先を知りたいのです」
「少し北に、川を見下ろす高みがございます。その裾を通れば西の道へ出られますが、外れると田と湿地が続きます。兵だけなら歩けても、荷を運ぶには難儀いたします」
龍之介は足元の土を指で均し、川と高み、その裾の道を引いた。
「ならば、舟を追い続ける必要はございませぬ。高みをこちらが押さえれば、敵は荷を揚げても先へ運べない。別の岸を探すなら、もっと川上まで戻らねばなりません」
「その高みへ、五十人を置くだけで足りるか」
信長は絵を見たまま尋ねた。
「四十五人では、道へ出る者と河原を見る者を分けると薄くなります。敵が川を越えた場合に備え、後ろへ回せる兵も要ります」
信長が勝三郎を呼んだ。
「末森の兵から、まだ戦える五十人を選べ。龍之介の五組と合わせ、この川筋の先手を任せる」
龍之介は顔を上げた。預かっている五十人に、もう五十人を加える命令だった。
「若様。末森の組頭への指図も、私がしてよろしいのでございますか」
「俺が全軍を預かっておる。この働きの間、組頭はお前の指図を受けよ。兵が動くたび、俺の使いを待たせるな」
信長は勝三郎にも聞こえる声で言い、土に引かれた高みを指した。
「ただし、こちらの陣を空にはできぬ。お前が百人を動かすなら、残りが何を守るかまで考えろ。高みを取っても、鳴海への道を奪われれば負けだ」
龍之介は両手をついた。
「ここから西へ戻れる道を確かめてから進みます。敵の姿と、陣を置ける場所は、その都度お知らせいたします」
◇
夕方までに、末森の五十人が龍之介の前へ並んだ。
五つの組がそれぞれの組頭に従っている。龍之介の五組も加えれば、傷を負って残る五人を除き、動かせる兵は九十五人だった。
槍の長さも、腰へ結んだ袋も揃ってはいない。朝の戦で働いた者もいれば、陣の守りに残っていた者もいる。ひとまとめにして、明朝から同じように走れと言える軍勢ではなかった。
「源太と梶原殿は、こちらの組をまとめてください。末森の組頭衆には、城戸殿と道を見てもらいます。今夜の見張りは、今日の守備で余力のある組から出したい」
末森の組頭の一人が、揃えていた足を少し開いた。
「こちらは陣の守りに残っておりました。夜の前半を務めましょう。ただ、河原へ下りる道を知る者を一人つけていただきたい」
「矢田殿の組から出します。交代の者も、暗くなる前に一度通らせてください」
城戸が自分から脇へ寄り、末森の組頭たちを呼んだ。五組に分けることへ異を唱えた古参が、今は知らぬ兵の動かし方を、ほかの古参と摺り合わせている。
龍之介は孫七を伴い、小坂の案内で高みへ続く道を歩いた。
陣から北へ進むと、川が低い崖に沿って曲がっていた。崖の西側には刈田が広がり、その縁に、荷を担いで通れる道がある。高みへ上がる坂は緩く、陣から兵を回すのに大きく迂回する必要もなかった。
ただし、坂の下には古い木の囲いが残り、壊れた荷置き小屋が道へ倒れかかっていた。
「川が増えた折に傾いたまま、使わなくなった小屋です。人なら脇を抜けられますが、兵を揃えて通すには狭うございます」
小坂が説明すると、龍之介は道から足を外し、土の硬さを確かめた。
新たな道を作るより、小屋を退ける方が早い。川側から近づく敵にも見える仕事になるが、明るいうちに手をつけることはできる。
孫七が対岸を見た。葦の向こうに舟の舳先が見え、岸を歩く男たちが曳き綱を引いていた。
龍之介は小坂へ言った。
「若様へ。高みは陣から兵を回せます。明朝、ここを押さえます。今日は道を開き、日暮れには戻るとお伝えください」
◇
梶原と、末森から加わった二組が道へ出た。孫七は弓を持つ者を連れ、川を見通せる位置へ散らせている。残る者は城戸が陣で休ませ、翌朝に動く支度をさせた。
腐った囲いは、縄をかけて引くと崩れた。だが、小屋の太い横木は土へめり込み、柱ごと道を塞いでいる。
龍之介は梶原たちに屋根板を外させ、梁へ縄をかけ直した。
対岸から矢が飛んできたのは、その時だった。
土へ突き立つ音に、縄を引いていた足軽が身を縮める。孫七がすぐ射返し、川の向こうで人影が葦へ沈んだ。
「川側に立つな! 柱の陰へ入れ!」
龍之介は声を張り、道の端へ走った。柱の根元で一人が足を取られていた。崩れた板と、梁から垂れた縄が絡んでいる。
男が抜け出そうとした拍子に、傾いた柱が軋んだ。
龍之介は肩から柱を受け止めた。重みが鎧越しに食い込み、足が土へ沈む。屋根を支えていた横木までが動き、崩れ残った板が音を立てて滑った。
「梶原殿、そちらへ引き出してくれ。縄は切ってよい!」
短刀が走り、梶原が男の脇を抱えて引いた。すぐ横で二本目の矢が板を割る。
龍之介は歯を食いしばり、支えていた柱を川側へ押し返した。動き始めた重みにさらに力を加えると、根元の土が裂け、太い横木が道から外れて転がった。
土埃が上がり、川からの射線を崩れた木が遮った。
引き出された男を見てから、龍之介は深く息を吐いた。柱を抱えた手の皮が擦れ、鎧の肩紐もずれている。
末森の組頭が駆け寄った。
「助けていただきました。ですが、弓を向けられたまま仕事を続ければ、ほかにも傷を負う者が出ます」
「屋根板を重ねて道の東へ置いてください。川から見える所を塞ぎます。残りは明朝で構いませぬ。今日は、一組ずつ通れる幅ができればよい」
孫七の弓が再び鳴った。敵も舟を曳く者を止め、こちらの様子を窺っている。
龍之介は、その間に末森の兵を二列にして道へ通した。川から姿が見えない所で向きを変え、戻す。後ろの組とすれ違える場所も、城戸から借りた兵に確かめさせた。
退く時に詰まる道へ、九十五人を入れるわけにはいかなかった。
◇
翌朝、高みへ向かう列の先頭には、昨夜休ませた末森の組が立った。
龍之介の五組はその後ろにつく。孫七と小坂が先に道を見ており、彦右衛門は信長の陣との間を往復する役に回った。又左は龍之介と並び、前を行く兵の歩調に合わせていた。
倒れた小屋の前を通る時、昨日助け出された足軽が頭を下げた。打ち身はあったが足は動き、組頭が見張りの交代に使うと申し出ていた。
龍之介は頷き、板を重ねた川側を見た。矢は飛んでこない。
高みへ上がった孫七が、姿を低くしたまま手を振った。
「舟は曲がりの下です。こちらの岸にも、敵が二十人ほど上がっております」
敵は、夜のうちに足場を探していたらしい。舟を着ける場所から、荷を運べる道へ出るため、葦の間を踏み分けている。
龍之介は城戸を呼んだ。
「末森の三組を、道から見える位置へ。こちらの源太と梶原の組も並べます。残りは高みの裏で待たせてください。全員を河原へ下ろす必要はありません」
「敵が掛かってきた時も、坂の下では受けませぬな」
「ここを越えねば道へ出られません。上がってくる所を押さえます」
声が重なり、槍の列が高みの縁へ進んだ。
敵の一人がこちらを見上げた。そのすぐ後ろに、さらに槍が現れる。先頭に立つ龍之介を見た者が、葦の奥へ何かを叫んだ。
龍之介は、河原へ追い下りなかった。
末森の三組と、自分の二組だけでも、敵が今いる人数を大きく上回る。しかも高い所から、道へ出る口を塞いでいる。舟の二艘を何度往復させても、槍を揃えて斜面を登る兵を一度には運べない。
敵は弓を二度射たが、こちらが板を立て、孫七たちが狙いを定めると、それ以上は近づかなかった。
小坂が西側へ回り、裾の道にも兵がいることを確かめた。高みを避けて抜ける余地はない。
やがて、川の向こうで曳き綱を持つ者たちが立ち止まった。
舟が下へ戻ってくる。西岸へ上がっていた敵は、まだ荷を運び込んでいなかった。櫂を持つ者に急かされ、二艘へ分かれて乗り込むと、高みから離れるように岸を蹴った。
龍之介は、最後の一人が舟へ入るまで見ていた。
「孫七、帰る舟は射なくてよい。対岸で兵が動き直したら知らせてくれ」
源太は川を見たまま、槍を地面へ立てた。城戸は末森の組頭へ声をかけ、斜面の上に置く見張りを決め始める。
九十五人を前へ出した結果、敵の二十人を討つために槍を振るう必要はなくなった。
◇
昼前には、高みの西から水と飯が届いた。
板の陰へ交代で座る兵たちを見ながら、龍之介は陣へ戻す者と残す者を分けた。槍を持たせて立たせ続ければ、夕方には誰も動けなくなる。道が開いていれば、信長の本隊から交代を受けることもできる。
見回りに来た信長は、河原へ下りず、裾の道から高みへ上がった。勝三郎も同行している。
「舟は、まだ川上へ行く支度をしておりますか」
龍之介が尋ねると、勝三郎は首を振った。
「曳き綱を解き、負傷者を乗せて下へ戻した。米も東の道へ運び直しておる。今すぐ別の岸から入り直す動きは見えぬ」
信長は、昨日の荷揚げ場へ続く川筋を振り返った。
「一つ岸を取られても、次へ逃げれば済むと思わせぬ。それを、お前の先手に任せた」
龍之介が頭を下げると、信長は末森の組頭たちを呼んだ。
「この川筋を守る間は、引き続き龍之介の指図を受けよ。勝三郎との交代は俺が決める。そなたらが高みを守れば、俺は鳴海へ兵と荷を通せる」
組頭たちが揃って応じた。龍之介が振り向くと、昨日、柱のそばで意見を述べた組頭も、まっすぐこちらを見ていた。
信長は小坂に、教継へ送る言葉を伝えた。
「北の渡り口はこちらで押さえた。明日、荷を連れて鳴海へ参る。左馬助には、城を空けて迎えに出るには及ばぬと申せ」
小坂が坂を下っていく。龍之介はその背を見送り、組頭たちを手招いた。
河原と道、それぞれへ兵を動かす順番を、自分の口で伝えなければならない。五組だけの時には城戸へ任せれば済んだ交代も、今は十人の組頭へ届く形にする必要があった。
末森の組頭が一人、兵を坂の途中で止め、龍之介の合図を待っていた。龍之介は槍を横へ倒し、休みを終えた組を東の斜面へ進ませた。




