第96話 信長の旗、動く
夜明けの河原に、濡れた槍の穂先が並び始めていた。
東岸から浅瀬を渡る者は、腰まで水に浸かっている。その南では、小舟が川を往復していた。人を乗せるためではない。舟底へ敷いた板の上に米俵を置き、弓と矢束を濡らさぬよう運んでいる。
龍之介は西岸の低い土手に伏せ、その動きを見ていた。
「舟二艘とも働いております。浅瀬へも、まだ兵が続いておりますな」
隣で小坂主馬が囁いた。後方に伏せている龍之介の兵は四十六人。留吉と、古橋で傷を負った三人は那古野に残したままだ。
夜半に末森の兵と見張りを交代し、今は五組を揃えている。源太は土手の南、梶原は北。孫七は弓を持つ者とともに、川面を見下ろせる位置にいた。
「先に渡った者は、百人を越えております」
孫七が目を細めた。
「列を二つに分けて数えました。今、岸へ上がった者までで百二十ほど。対岸には、まだ同じほどか、それ以上がおります」
水を滴らせる兵たちが河原を離れ、川から少し西へ進んでいた。槍を前へ向け、後ろに舟を着ける場所を空けている。浅瀬を渡ったばかりの兵も、そこへ加わっていった。
敵はもう、六人の物見を捕らえれば止まる相手ではない。
舟で運ばれた矢束を受け取った者が、河原の左右へ散った。西へ出る道を守り、その後ろで兵糧を揚げるつもりだろう。渡った兵をひとまとめにして待たせるほど、相手も不用心ではなかった。
やがて、浅瀬を渡る列が途切れた。東岸の武者が槍を横へ寝かせ、続こうとする兵を岸に留めている。西岸の百二十ほどを先に整え、その者たちに道を押さえさせてから、残りを渡すつもりらしい。
だが、西岸で使える弓はまだ少ない。
浅瀬を進む者の多くは槍を高く掲げ、弓を持つ者は舟の荷揚げを待っている。川を越えた人数が増す速さに、道具と兵糧が追いついていなかった。
龍之介は彦右衛門を呼び、敵の配置を伝えた。
「若様へ。敵は西岸へ百二十ほど。荷揚げ場を囲むように広がっております。今なら、西へ進む先手と、舟を守る者を分けて攻められます。ただし、長くは待てませぬ」
彦右衛門は最後まで聞いてから、土手の陰を戻っていった。
又左が、伏せたまま槍を引き寄せた。
「昨日は、こちらの荷駄を狙ってきた。今日は向こうが荷を守る番だな」
「敵の槍を正面から押すより、守らねばならぬ所を二つにする方が早い。若様が兵を動かすまで、こちらは姿を伏せておきましょう」
龍之介は、陣へ続く道の曲がりを見た。昨夕、信長が命じた通り、勝手に打って出るつもりはなかった。
◇
戻ってきた彦右衛門の後ろに、勝三郎の姿があった。
率いてきた百人は、土手から離れた窪地へ入っていく。組頭たちが兵を屈ませ、槍を寝かせる声が低く続いた。
「若も陣を出られた。末森の五十を連れ、こちらの北へ回られる。陣には残る百人を置き、荷と鳴海への道を守らせるとのことだ」
勝三郎は膝をつき、地面へ短い枝を置いた。
「私の百人で、河原から西へ出る敵を受ける。そなたの組は、南から荷揚げ場を衝け。敵が浅瀬から兵を呼び込もうとすれば、若がその口へ出られる」
龍之介は川を見直した。
敵は西へ進むため、乾いた場所へ兵を集めている。勝三郎の百人を見れば、そこへ槍を向けるはずだった。その横を抜いて荷揚げ場へ出れば、前へ進んだ敵は引き返さねばならない。
ただし、こちらが早く動けば、舟のそばで四十六人だけが敵を受けることになる。
「勝三郎殿の槍が敵と合うまで、動きませぬ。北の若様からもこちらが見えますか」
「川へ張り出した土手に立たれる。小坂殿が道を確かめてくださった。旗が上がったら私が前へ出る。そなたは、こちらの進み具合を見てくれ」
頭の中で、ばらばらだった味方の動きが繋がった。
龍之介は五人の組頭を集め、城戸と矢田に土手の南を確かめさせた。荷揚げ場へ向かう道には葦が残り、その裏を通れば、敵の弓から身を隠して近づける。
源太と梶原が先に出て、城戸が続く。孫七は土手の肩から援護し、矢田の組は背後の道を繋ぐ。荷揚げ場へ着いても、五組すべてを狭い岸辺へ詰め込むつもりはなかった。
北の土手に、人影が現れた。
信長が馬を降り、川と西岸を見渡している。そばに立つ旗持ちが竿を起こすと、勝三郎が静かに立ち上がった。
「那古野の者、進め。槍を揃えたまま土手を越えよ」
百人の兵が、敵の正面へ現れた。
◇
河原に怒号が走った。
敵の先手が槍を揃え、西へ向きを変える。すでに荷を揚げた者も前へ呼ばれ、二つの槍の列が、刈り跡の残る草地でぶつかった。
勝三郎は押し込みすぎず、左右へ兵を広げた。敵も後れを取らぬよう列を伸ばし、舟の周りからさらに人を送っている。
龍之介は、その動きを見届けてから立った。
「南へ回る。声は、岸へ出てから上げろ」
葦の葉が頬を擦った。水気を含んだ地面に足を取られぬよう歩を選び、最後の土手を越える。荷揚げ場までは、槍を持って走れる平らな河原が残っていた。
舟から米俵を下ろしていた男が、こちらを見た。
「南だ、南から来るぞ!」
敵の弓が持ち上がったが、それより先に孫七の矢が飛んだ。狙われた弓兵が荷の陰へ身を縮め、その間に龍之介は地面を蹴った。
呂布から受け継いだ力が、足元の砂を深く抉る。
岸辺を守る三本の槍が、目前へ突き出された。龍之介は左の一本を外へ払い、その柄を隣の槍へ叩きつける。開いた隙へ踏み込み、正面の男の喉を突いた。
引き抜く動きから柄を返し、右の敵を脇腹ごと打ち倒す。又左の槍が肩越しに伸び、起き上がろうとした別の男を地面へ縫い止めた。
「源太、岸へ寄りすぎるな! 梶原殿は荷の裏を押さえてくれ!」
龍之介は舟へ走らず、西から戻ってくる敵へ槍を向けた。船頭を相手にしている間に、背中を突かせるわけにはいかない。
源太の組が横へ並び、梶原の組が矢束と米俵の間を抜ける。荷揚げ場を守っていた者たちは、川へ下がるほかなくなった。
舟の一艘が岸を離れた。まだ荷を抱えた兵が飛び乗ろうとして、膝まで水へ落ちる。櫂を握る男はそれを待たず、流れへ舟首を向けていた。
敵の前列から、怒鳴り声が上がった。
荷揚げ場を取り返そうと、二十人ほどが槍を引いて戻ってくる。龍之介は城戸に左を任せ、又左とともにその正面へ出た。
相手も、こちらの槍の長さを見ていた。二人が穂先を押さえ、別の者が刀を抜いて潜り込む。
龍之介は槍を引かず、前へ押し出した。
敵二人の足が滑った。その胸元を押し崩すまま半歩横へ動き、迫る刀を柄で受ける。斜めに流した刃が肩の脇を抜け、龍之介の膝が相手の腹へ食い込んだ。
折れ曲がる身体を押し退け、石突きを後ろの敵の顔へ叩き込む。
「ここから先へは通さぬ!」
又左が横から槍を突き、源太たちも穂先を揃えた。龍之介が崩した所へ味方の槍が重なり、戻ってきた敵の足が止まる。
その背後で、勝三郎の声が響いた。
「前が空いたぞ。組ごとに進め!」
敵は引き返すために、勝三郎と向き合っていた列から人を抜いていた。空いた場所へ那古野の兵が踏み込み、河原の敵を川へ押し始める。
龍之介は、味方の槍の列へ背中を預けた。目の前の敵を倒すたびに追う必要はない。岸辺を渡さずにいれば、勝三郎の百人がここまで来る。
川の北側で、再び声が上がった。
◇
浅瀬へ入った後続の兵が、西岸へ急いでいた。
先手の崩れを見て、助けに入ろうとしたのだろう。水を蹴り上げ、槍を肩へ担いで岸へ駆け上がろうとする。
その前へ、信長の率いる五十人が進み出た。
弓を持つ者が先に射て、槍を持つ者は水際から少し離れて構える。信長は抜いた太刀を下げたまま、濡れた石を越える敵を見据えていた。
「水の中へ追うな。上がってくる者だけを止めよ!」
先頭の敵が岸へ足をかけ、突き出された槍に押し返された。後ろの兵とぶつかり、浅瀬の列が乱れる。対岸から弓を射る者もいたが、西岸の味方を前にして、狙いを選ばねばならなかった。
川を渡れば加われるはずだった戦列が、そこにはもうない。
先に渡った百二十ほどの兵は、勝三郎の百人と龍之介の四十六人に押されていた。荷揚げ場も失い、後ろへ下がれば川へ入らねばならない。
龍之介には、相手の槍先が揺れ始めたのが分かった。
敵を一人残らず川へ落とそうとすれば、逃げ場を失った者たちが、こちらへ死に物狂いで食らいつく。崩れ始めた今、長く岸辺で斬り合う必要はなかった。
「勝三郎殿! 荷は押さえました。退く敵は追わず、川から離すな!」
勝三郎はすぐに組頭へ命じ、兵を一度止めた。穂先を向けられたまま、敵の一人が水へ後ずさる。それに数人が続き、やがて槍を捨てて川へ入る者が増えた。
龍之介は、川上へ回ろうとする敵だけを押し戻した。信長の五十人の背後へ、武装した集団を走らせてはならない。
渡河を助けようとしていた後続も、逃げ戻る味方を見て足を止めた。水の中で揉み合う人影を前に、対岸から引き返せと叫ぶ声が重なっていく。
龍之介は源太の肩を掴んだ。
「そこまでだ。水へ入らず、槍を並べろ」
源太は歯を食いしばったまま足を止め、組の者たちを呼び戻した。
もう一艘の小舟も、岸を離れていた。両岸に張り渡せる縄も橋もなく、逃げる兵をいちどきに運べる舟ではない。敵が苦労して作りかけた西岸の陣は、わずかな間に人を失っていった。
◇
川向こうへ退いた敵は、そのまま姿を消したわけではなかった。
負傷者を運び、流れ着いた者を引き上げ、東岸で槍を立て直している。龍之介はそれを見ながら、味方にも川の縁から下がるよう命じた。
こちらの兵にも、矢傷や槍傷を負った者がいた。勝三郎の隊で四人、末森の隊で二人。龍之介の五組では梶原の組の一人が腿を切られ、歩かせずに陣へ運ぶことになった。死者はなかったが、無傷の勝利ではない。五組のうち、引き続き戦える者は四十五人となった。
又左は腕についた血を拭い、河原へ座り込もうとした兵に、水を飲んでから下がれと声をかけた。
残された米俵と矢束は、城戸と矢田が人を割り振って運び出している。龍之介はその護衛を孫七に任せ、信長のもとへ向かった。
「西岸の敵は退きました。舟二艘は対岸へ戻っております。追ってはおりませぬ」
「それでよい。川を越えてまで追えば、向こうの兵と一度に戦うことになる」
信長は土手の上から、奪い取った荷揚げ場を見た。
「ここへ兵を渡し続ける支度を潰した。左馬助も、城の北を気にして兵を割かずに済む」
敵はまだ大勢いる。それでも、鳴海の背後へ拠点を作ろうとしていた手は、目に見える形で折れた。
信長は勝三郎を呼び、陣に残した兵と交代しながら西岸を見張るよう命じた。負傷者を運び戻す者には、末森へ送る戦の報せも託す。
「龍之介。敵が上陸する場所を見つけるだけなら、物見で足りる。お前は、その先を読め。次に俺が兵を動かす場所を探しておけ」
龍之介は頭を下げ、川向こうを見た。
東岸では、敵が舟のそばから米俵を遠ざけ始めていた。運び込むはずだった荷を、兵が来た道へ戻している。
敵にも、こちらを見たうえで考え直させた。
河原では、源太が組の者たちに槍の柄を確かめさせていた。戦いの最中に割れた一本を脇へ置き、代わりを受け取るため城戸に声をかけている。龍之介はその前へ出て、川の見張りを残し、疲れた者から順に陣へ戻すよう命じた。
龍之介は槍を担ぎ直した。次は、向こうが動き直すより早く、その行き先を掴まねばならなかった。




