第93話 五十人の旗
五十人の兵が揃った朝、山本龍之介に最初に異を唱えたのは、敵ではなく味方だった。
「失礼ながら、山本殿。五十人を五組に分けるというお考えには、賛同しかねます」
そう言ったのは、末森から送られてきた足軽頭、城戸弥三郎だった。
年は四十を少し越えた頃だろうか。左の眉から頬にかけて古い刀傷があり、槍を握る手には硬い胼胝ができている。
信秀のもとで長く戦ってきた男だった。
龍之介は、練兵場に並ぶ五十人を見渡した。
最初に預かった二十人。
末森から加わった十五人。
那古野の足軽から選ばれた十五人。
ようやく五十人が揃ったのである。
ただし、留吉は先日の矢傷が治りきっておらず、まだ実戦へ出せない。今すぐ槍を持って動けるのは四十九人だった。
「城戸殿は、五組に分けると何が困るとお考えですか。実際に兵を率いてこられた方の意見を聞かせていただきたい」
龍之介が尋ねると、城戸は少し意外そうな顔をした。
新参の若い武者から、経験を認められるとは思っていなかったのだろう。
「戦場では、五十人をまとめて動かした方が強い場合もございます。十人ずつに分ければ、それぞれが敵に押された時、助けるまでに手間が掛かりましょう」
「もっともです。私も五十人を常に離して使うつもりはありません」
龍之介は地面へ枝で線を引いた。
「ただ、敵がどこへ来るか分からない時まで、五十人を固めておくのは不便です。正面を守る者、横へ回る者、使いを通す者。それぞれに役が必要になります」
城戸は、しばらく線を見つめていた。
「組を分けても、戦う時には集めると」
「はい。五組を別々の軍勢にするのではありません。五十人を一つの隊として使うため、十人ずつに分けます」
龍之介は、兵たちへ目を向けた。
「それに、私一人の声で五十人すべてを動かすのは難しい。敵と槍を交えている間にも、別の場所では判断を下さねばなりません。その役を、組頭に任せたいのです」
城戸は、ゆっくり頷いた。
「なるほど。そういうお考えなら、まずは働きを見せていただきたい」
「もちろんです。城戸殿にも十人を預けます。これまでの経験を、存分に生かしてください」
龍之介が答えると、城戸は初めて小さく笑った。
「承知いたしました」
五十人は五組に分けられた。
源太、孫七、城戸弥三郎。
残る二組には、末森から来た梶原重八と、那古野で長く足軽を務めてきた矢田与四郎を組頭に据えた。
梶原は三十を過ぎた実直な男で、槍の扱いに優れている。
矢田は弓も使えるが、それ以上に道や村の位置をよく覚えていた。
龍之介は、五人の組頭を前へ呼んだ。
「今日から五十人で動く。ただし、最初に覚えてもらいたいのは敵を倒す方法ではない」
五人が顔を上げる。
「自分の組が、どこにいるかを知らせる方法だ」
龍之介は、彦右衛門へ合図した。
彦右衛門が小さな旗を五本持ってくる。
それぞれに異なる色の布が結びつけられていた。
「遠くでは声が届かない。だから組ごとに目印を持たせる。旗を高く上げれば待機、横へ振れば移動、地面へ下ろせば伏せる。撤退は笛を長く吹く」
源太が頷いた。
「これなら、敵と戦っていても隣の組の動きが分かりますな」
「そうだ。ただし、旗だけを見て動くな。旗を持つ者が倒れることもある。組頭が何をすべきか理解していれば、旗がなくとも働ける」
孫七が、自分の組の兵を見た。
「留吉が戻れば、笛の合図も任せられます。それまでは、各組から一人ずつ伝令役を決めておくのがよろしいかと」
「頼む。留吉には、傷が治るまで合図の教え役をしてもらおう」
龍之介は頷いた。
練兵場の端では、留吉が左腕を吊ったまま座っていた。
槍はまだ持てない。
だが、笛の合図なら教えられる。
留吉は自分の役が残されたことに、嬉しそうな顔をしていた。
龍之介は、それを見て少し笑った。
兵は、全員が同じ働きをする必要はない。
強い者が前へ出る。
周囲を見る者が後ろを守る。
知らせを伝える者が、離れた組を繋ぐ。
それぞれの働きが揃って、ようやく五十人の力になる。
そう考えていた時だった。
練兵場の入口から、一騎の早馬が駆け込んできた。
「山本様! 鳴海から急報にございます!」
龍之介は顔を上げた。
馬上の男は、息を切らしながら続けた。
「鳴海へ通じる道で、武装した者が橋を押さえようとしております! 数は百人を超えるとのことです!」
龍之介の表情が変わった。
今川方が、早くも次の手を打ってきたのである。
◇
那古野へ戻ると、信長はすでに平手、新五、又左を集めていた。
鳴海からの報告では、武装した一団が笠寺筋の古い橋へ向かっているという。
その数、およそ百二十人。
先日、倉田伊兵衛が率いた八十人よりも多い。
しかも、今回は村へ押し寄せるのではなく、鳴海と那古野を結ぶ道そのものを狙っているらしかった。
「龍之介。お前の五十人を使えるか」
信長が尋ねた。
「まだ全員の腕を確かめたわけではありません。ですが、源太と孫七の組は実戦を経験しております。城戸殿も古くから兵を率いてきた方です」
龍之介は続けた。
「残る二組を無理に前へ出さなければ、働けると考えます」
信長は頷いた。
「ならば任せる。ただし、敵は百二十人だ。五十人で正面から戦う必要はない」
「承知しております」
龍之介は地図を見た。
問題の橋は、鳴海へ通じる道の途中にある。
幅は広くない。
馬なら一列、荷車も一台ずつしか通れない木橋だった。
橋の西側には村があり、東側には低い丘が続いている。
橋を失えば、鳴海から那古野へ使いを通すには大きく迂回しなければならない。
敵がそこを押さえれば、山口教継との連絡が難しくなる。
「敵は橋を焼くつもりかもしれません」
龍之介が言うと、新五が頷いた。
「橋の近くで、油壺らしい荷を持つ者が見られたとの報告もあります」
又左が顔をしかめた。
「百二十人で橋一つを焼きに来たか。ずいぶん大げさな話だな」
「橋を守る兵を引きつけるためかもしれない」
信長は静かに答えた。
「橋へ兵を集めれば、ほかの道が薄くなる。逆に橋を捨てれば、鳴海への連絡が切れる」
龍之介は地図を見つめた。
敵は、こちらに選ばせようとしている。
橋を守るか。
橋を捨てるか。
どちらを選んでも、敵には都合のよいところがある。
だが、二つの選択肢しかないわけではない。
「若様。橋を守ります。ただし、橋の上では戦いません」
信長の目が動いた。
「考えがあるようだな」
「はい。敵が橋を焼くつもりなら、火を持って近づく者が必要です。その者たちだけを橋へ近づけず、残る敵は通れる道を使って動かします」
龍之介は地図の東側を指した。
「橋の手前には狭い道があります。敵をそこで止め、別の場所へ兵を広げさせなければ、百二十人いても一度には戦えません」
信長は、少し笑った。
「また、お前の得意な戦になりそうだな」
「今回は五十人で働きます。私一人が前へ出る戦にはいたしません」
信長は満足そうに頷いた。
「よし。行ってこい。鳴海の左馬助にも知らせてある。あちらの兵と無理に混ざらず、役を分けて守れ」
「承知しました」
龍之介は頭を下げた。
いよいよ、五十人を率いて実戦へ出る時が来た。
◇
古橋へ着いた時、敵はまだ東の丘にいた。
百二十人ほどの兵が、槍を持って道の両側へ広がっている。
その後ろには、荷車が三台。
荷車には藁束と木材が積まれ、油壺らしいものも見えた。
龍之介は、まず橋を確かめた。
西側には村人が二十人ほど残っている。
橋を渡って帰ろうとしていた商人や馬借もいたが、敵の姿を見て足を止めていた。
「源太。まず村人を西へ下げろ。橋の上に人が残っている間は、敵を誘い込むこともできない」
「承知しました」
源太の組が動く。
孫七には橋の西側から弓を構えさせた。
ただし、敵がまだ橋へ近づかないうちは射ない。
城戸の組は橋へ続く道の北側。
梶原の組は南側。
矢田の組には、村人の退く道と、荷を運ぶ馬借の誘導を任せた。
龍之介自身は、橋の西端から少し下がった場所に立った。
敵が橋を焼くなら、ここへ来る。
橋を渡って攻めるつもりなら、やはりここへ来る。
だが、橋の上は幅が狭い。
十人ずつ組を分けた兵でも、十分に守れる場所だった。
城戸が近づいてきた。
「山本殿。敵は百二十人おります。こちらの五十人では、橋を守りきれぬ恐れもございます」
「その通りです。だから、敵を全員橋へ向かわせるつもりはありません」
龍之介は東の丘を見た。
敵の兵は、少しずつ動き始めている。
先頭の三十人が槍を構え、橋へ向かってきた。
その後ろから、荷車が一台続く。
龍之介は城戸へ言った。
「城戸殿。敵が橋へ入りかけても、北側の持ち場を離れないでください。敵がこちらの主力を橋へ引きつけたところで、北から回ろうとする可能性があります」
城戸は、少し考えた。
「山本殿が橋で危うくなっても、でございますか」
「私が危うくなれば、源太と孫七が助けます。城戸殿には別の役をお願いしたいのです」
龍之介は、相手の目を見た。
「五十人を預かっている以上、私一人を守るために隊を崩すわけにはいきません」
城戸は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「承知しました。北側は私の組が守ります」
龍之介は頷いた。
その時、東の丘から角笛が鳴った。
敵の先手が、橋へ向かって走り始めたのである。
◇
敵の先頭が橋へ足を掛けた時、龍之介は動かなかった。
三十人のうち、最初に橋を渡れるのは四、五人ほど。
その後ろには槍を持つ兵が続いているが、狭い橋の上では横へ広がれない。
龍之介は源太へ目を向けた。
源太が頷く。
五人の槍が、橋の出口へ向けられた。
敵は勢いよく進んできたが、橋の西端に槍が揃っているのを見て足を止めた。
「押せ! 相手はわずかだ!」
東側から怒声が飛ぶ。
敵の先頭が長槍を突き出した。
源太の兵が、槍の柄で受ける。
もう一人が横から突き返す。
狭い場所で槍がぶつかり、乾いた音が何度も響いた。
龍之介は、その様子を見ながら後方の荷車を確かめていた。
油壺を積んだ車が、まだ橋へ近づいていない。
その護衛らしい兵が十人ほどついている。
橋で戦いが始まれば、敵はその隙に火を持つ者を近づけるだろう。
そこが狙いだった。
「孫七。敵の荷車から目を離すな。火を持つ者が橋へ近づいたら知らせろ」
「承知しました」
孫七は弓を構えたまま、敵の後方を見ていた。
やがて荷車が動き始める。
橋の東側から、油壺を持った男たちが降りてきた。
数は四人。
その後ろに弓兵がつく。
「龍之介様! 火を持つ者が来ます!」
孫七の声が響く。
龍之介は、すぐに合図を出した。
「橋の上の敵だけ見ているな! 油壺を持つ者を通すな!」
孫七の弓が鳴った。
矢は油壺を持った男の足元へ刺さる。
男が驚いて立ち止まった。
続く二射目が、護衛の弓兵の肩へ当たる。
敵は慌てて荷車の陰へ下がった。
龍之介は、その隙を逃さなかった。
「梶原! 南から出ろ! 敵の荷車を押さえろ!」
梶原重八が、十人を率いて動いた。
橋の南側には、川岸へ下りる小さな道がある。
水は浅いが、足元には石が多い。
事前に確かめておいた場所だった。
梶原の組は、そこから川を渡って東側へ回り込む。
敵は橋の上に注意を向けている。
南から十人が現れるとは思っていなかったらしい。
「敵だ! 南から織田の兵が来るぞ!」
荷車の護衛が叫んだ。
梶原は先頭に立ち、槍を構えた。
「火を持つ者から離れろ! 荷車を押さえる!」
十人の足軽が、声を揃えて前へ出る。
油壺を持った男たちは慌てて逃げようとした。
だが、荷車が狭い道に詰まり、思うように動けない。
梶原の兵が槍を向けると、男たちは壺を置いて後退した。
龍之介は、その動きを確認した。
敵は橋を焼くための荷を失いかけている。
だが、まだ百人近い兵が残っている。
ここからが本当の勝負だった。
◇
敵の指揮官は、三河の武者、松井右馬允と名乗った。
今川方に従う地侍で、兵をまとめて鳴海へ通じる橋を押さえるよう命じられていた。
松井は南へ回り込んだ梶原の兵を見ると、顔を険しくした。
「橋の向こうにいるだけではなかったか」
側近が答える。
「南の浅瀬から十人ほど渡ってまいりました。火を持つ者が退いております」
松井は、すぐに兵へ命じた。
「南へ二十人を回せ! 荷車を奪われるな!」
だが、そこで別の声が上がった。
「北からも織田の兵が!」
松井が振り向く。
城戸弥三郎の組が、北側の道から現れていた。
十人の槍が揃い、東の丘へ向かって進んでくる。
松井は、一瞬迷った。
正面の橋には源太と孫七。
南には梶原。
北には城戸。
西へ逃げた村人を守る矢田の組は、まだ姿を見せていない。
実際には五十人しかいない。
だが、松井から見れば、三方から別々の兵が現れている。
しかも、それぞれの動きが揃っている。
松井は、口元を引き結んだ。
「敵は五十人だけではないのかもしれぬな」
側近が言った。
「那古野から、さらに兵が来ているのでございましょうか」
松井は答えなかった。
龍之介は、その反応を少し離れた場所から見ていた。
敵は、兵の数を読み違え始めている。
実際の数より多く見せる必要はない。
敵が確かめられない場所へ兵を置けば、それだけで判断は鈍る。
郭嘉の知が、戦場の形をはっきり示していた。
敵は橋を焼くために来た。
その橋を守る兵を押し込み、火を持つ者を通せば勝ちだった。
だが、今は火を持つ者が南へ逃げ、北からも兵が現れた。
橋の正面だけ見ていては、敵将自身が危うくなる。
松井は、ついに後方の兵を動かした。
「橋の攻めを弱めろ! 南と北を押さえる!」
その命令で、橋へ向かっていた兵が少しずつ下がり始める。
龍之介は、それを待っていた。
「源太! 橋の敵が下がったら、出口を押さえ直せ! 追いかける必要はない!」
源太が声を返す。
「承知しました!」
龍之介は、橋の西側から走り出した。
目指すのは、敵将のいる東の丘だった。
◇
松井右馬允が龍之介の姿に気づいた時、すでに距離は近かった。
龍之介は橋へ戻らず、梶原が通った南の浅瀬を使って川を渡っていた。
そこから丘の斜面を駆け上がる。
松井の前には、槍を持った足軽が六人いた。
「止めろ! あの男を通すな!」
松井が叫ぶ。
六人が槍を構える。
龍之介は、足を止めなかった。
最初の槍を払い、踏み込む。
相手の肩へ槍の柄を叩き込み、身体を横へ押し出した。
続く二人が左右から突いてくる。
龍之介は一方をかわし、もう一方の槍を手元で受け流した。
そのまま石突きを返し、相手の胸を打つ。
男が倒れる。
横から斬りかかってきた足軽は、龍之介の踏み込みについていけなかった。
刀が振り下ろされる前に、龍之介の槍が相手の膝を払う。
男が崩れたところを越え、さらに前へ出た。
松井の顔が変わった。
ただの足軽ではない。
この男こそ、倉田伊兵衛を捕らえた山本龍之介ではないか。
松井は、馬上から槍を構えた。
「山本龍之介だな!」
龍之介は、槍を持ち直した。
「その通りだ。橋を焼くつもりなら、ここで止めてもらおう」
松井は歯を食いしばった。
「こちらは百二十人だぞ! 五十人で何ができる!」
「橋を守るには十分だったようだな」
龍之介は、少し笑った。
松井の顔が赤くなる。
馬が踏み込む。
松井は長槍を突き出した。
力の乗った一撃だった。
龍之介は、その穂先を見切った。
馬の首がわずかに右へ寄る。
松井の肩が動く。
槍が来る角度は、すでに読めていた。
龍之介は半歩踏み込み、敵の槍を外へ流す。
そのまま自分の槍を持ち上げ、松井の右腕へ柄を叩き込んだ。
鈍い音が響く。
松井の槍が手から離れた。
「ぐっ!」
龍之介は、そこで止まらなかった。
馬の横へ入り、松井の胴へ槍の石突きを打ち込む。
松井は鞍から身体を浮かせ、地面へ落ちた。
龍之介は槍先を向けた。
「まだ戦うなら相手をする。だが、橋は渡さない」
松井は、痛みに顔を歪めながら龍之介を見上げた。
周囲の兵も、動きを止めている。
北では城戸の組が槍を揃え、南では梶原が荷車を押さえていた。
正面の橋には源太と孫七。
敵は、どこへ進んでも織田方の兵にぶつかる形になっていた。
松井は、ついに目を伏せた。
「……退け」
側近が慌てて角笛を吹く。
橋へ向かっていた兵が下がり始める。
北と南へ分かれた兵も、東の丘へ集まり直した。
龍之介は、深く息を吐いた。
敵は百二十人。
こちらは五十人。
だが、戦った場所では、敵はその数を生かせなかった。
そして、敵将を押さえたことで戦は終わった。
◇
橋は焼かれなかった。
油壺を積んだ荷車も、梶原の組が押さえていた。
村人に怪我はなく、馬借たちも無事だった。
龍之介の兵には、軽い傷を負った者が三人いたが、命に関わるほどではない。
ただし、初めて実戦へ出た者の中には、震えが止まらない兵もいた。
龍之介は、まずその者たちを休ませた。
勝った直後だからといって、全員が元気なわけではない。
戦場で初めて人の血を見た者もいる。
自分の槍が相手へ当たった感触を、まだ手に残している者もいるだろう。
龍之介は、五人の組頭を集めた。
「よく働いてくれた。源太と孫七は橋を守り、梶原は火を持つ者を押さえた。城戸殿は北から敵を動かし、矢田殿は村人の退く道を守った」
城戸が深く頭を下げた。
「山本殿。先ほどは失礼なことを申し上げました」
「兵を五組に分ける話のことですか」
「はい。私は五十人をまとめて動かす方がよいと考えておりました。しかし、今日の戦では組ごとに役がありました。私が北を守ったことで、敵は橋へ兵を集めきれなかったようです」
龍之介は頷いた。
「城戸殿が持ち場を離れずにいてくださったからこそ、私は敵将へ向かえました」
城戸は、少しだけ笑った。
「それならば、今後も遠慮なくお命じください。信秀様から預かった兵として、しっかり働かせていただきます」
「頼りにしております」
龍之介は、城戸の肩を軽く叩いた。
梶原も近づいてきた。
「山本殿。油壺は六つございました。敵は橋を焼くつもりで間違いなさそうです」
「そうか。ならば、橋を守れたことは大きいな」
龍之介は東の丘を見た。
敵は退いた。
だが、逃げた兵がまた戻ってこないとは限らない。
橋を守るには、今日の勝利だけでは足りない。
今後も見張りを置き、鳴海と那古野の使いが安全に通れるようにする必要がある。
「矢田殿。村人へ伝えてください。今日のところは橋を使えます。ただし、明日からも見張りを置くので、危ない時には無理に渡らぬようにと」
「承知しました」
龍之介は、ようやく槍を置いた。
五十人を預かって初めての戦。
すべてが思い通りだったわけではない。
だが、兵はそれぞれの役を果たした。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
鳴海城で報告を聞いた山口左馬助教継は、しばらく言葉を失っていた。
「百二十人を、五十人で退けたのか」
龍之介は頭を下げた。
「はい。ただし、橋の幅と周囲の道に助けられました。平地で正面から戦っていれば、こうはならなかったでしょう」
教継は、ゆっくり頷いた。
「それでも、橋を守り切ったことは大きい」
山口九郎二郎教吉も、傍らで目を輝かせている。
「山本殿。私も出るつもりでおりましたが、間に合わず申し訳ございませぬ」
「お気になさらず。鳴海の城を空けるわけにはいきません。九郎二郎殿には城を守っていただくことも必要です」
教吉は頷いた。
教継は、龍之介を見つめた。
「山本殿。今川方の者は、鳴海の城を攻めるよりも、こちらの道を切ることを考えているようですな」
「そのように見えます」
龍之介は答えた。
「鳴海が那古野や末森へ助けを求めても、道が通れなければ援軍は来られません。今回の橋は、そのために狙われたのでしょう」
教継は、深く息を吐いた。
「ならば、これからも橋を守らねばならぬ」
「はい。若様から預かった五十人を、鳴海と那古野の道へ使いたいと考えております」
教継は頷いた。
「ありがたい。鳴海からも兵を出しましょう。互いの持ち場を決め、橋を守ることにいたします」
龍之介は深く頭を下げた。
山口父子と那古野の繋がりは、また一つ強くなった。
それは、今川にとって望ましくない変化だった。
◇
那古野へ戻った龍之介を、信長は笑顔で迎えた。
「龍之介! 五十人で百二十人を退けたそうだな!」
「はい。橋を焼かせずに済みました」
信長は、報告を最後まで聞くと満足そうに頷いた。
「お前の武だけではない。五組それぞれが働いたのだな」
「その通りでございます。兵たちが命令を守ってくれました」
信長は笑った。
「よい。これで、お前に五十人を預けたことを父上へ胸を張って報告できる」
平手も、傍らで静かに頷いた。
又左は少し不満そうだった。
「若。龍之介は百二十人を相手に戦ったというのに、私は留守番ばかりですぞ」
信長は声を立てて笑った。
「安心しろ。お前の槍が必要になる時も、遠からず来る」
「それは楽しみでございます」
龍之介も笑った。
ただし、信長はそこで表情を引き締めた。
「敵は、橋を焼きに来たのだな」
「はい。油壺を六つ持っておりました」
「ならば、今度はもっと大きな軍勢で道を押さえに来るかもしれぬ」
「その可能性はございます」
信長は、東の空を見た。
「龍之介。五十人の働きはよく分かった。だが、今川が二百、三百と兵を出してくるなら、五十人だけでは足りぬ」
龍之介は頷いた。
「はい。私も、そう考えております」
「ならば、今度は五十人を使うだけでなく、ほかの兵とどう動くかも考えておけ」
信長は静かに続けた。
「わしが兵を出す時、お前の五十人がどこへ入り、何をするか。それを考えられるようになってほしい」
龍之介は、深く頭を下げた。
「承知しました」
呂布の武は、一人で敵を打ち倒す力を与えた。
郭嘉の知は、百二十人の動きを読み、五十人で勝つ道を見せた。
だが、これからはさらに大きな軍勢を動かすことになるかもしれない。
五十人を一つの隊として使えるようになった今、次に必要なのは、ほかの隊と力を合わせることだった。
龍之介は、そのことを強く意識していた。
◇
三河の陣では、松井右馬允が捕らえられたという報告が届いていた。
百二十人の兵は退いた。
橋は焼けなかった。
しかも、織田方の山本龍之介は五十人を率い、五組に分けて戦ったという。
報告を受けた武者は、しばらく黙っていた。
「倉田伊兵衛に続き、松井右馬允まで捕らえられたか」
傍らの男が頭を下げる。
「はい。いずれも山本龍之介という武者に敗れております」
「その男、ただの豪傑ではないようだな」
武者は、苦々しく笑った。
「一人で槍を振るうだけなら、いずれ囲んで討てばよい。だが、五十人を使って百二十人を退けるとなれば、話は違う」
男は、机の上の地図を見た。
鳴海。
那古野。
末森。
それぞれを結ぶ道が描かれている。
「鳴海を孤立させるつもりが、かえって那古野との繋がりを強めてしまったか」
武者は、ゆっくり息を吐いた。
「今川方へ報告せよ。鳴海の山口左馬助は、織田との繋がりを断たぬ。那古野の三郎も兵を出す。山本龍之介は五十人を率いて、百二十人を退けたとな」
控えの男が頭を下げた。
「承知しました」
「それと、ひとつ付け加えておけ」
武者は、地図の鳴海を指した。
「次に鳴海を動かすなら、小勢で道を脅すだけでは足りぬ。織田家そのものと戦うつもりで備えねばならぬ、と」
その言葉に、控えの男の顔が引き締まった。
武者は、静かに続けた。
「山本龍之介。覚えておくべき名だな」
文は、その日のうちに今川方へ送られた。
鳴海と那古野を結ぶ橋は守られた。
五十人の兵は、それぞれの役を果たした。
そして、龍之介の名は、尾張の外へも確かに届き始めていた。




