第92話 呂布の槍、敵将を砕く
敵が今川の旗を掲げたのは、鳴海東方の村で刈り入れを再開してから三日目の朝だった。
「敵勢、およそ八十! 三河の方角より進んでおります!」
物見の報告を受けた山本龍之介は、東の土手へ駆け上がった。
川向こうの街道に、槍の穂先が並んでいる。
先頭には騎馬が六騎。その後ろを足軽が続き、さらに荷駄らしい一団が見えた。
今までの物見とは違う。
兵は整然と進み、先頭には今川方を示す旗まで掲げられていた。
もっとも、それが今川義元の正式な命令による軍勢なのか、三河の国衆が今川の名を借りて動かしている兵なのかは分からない。
だが、八十人もの武装集団が鳴海の村へ向かっている事実は変わらなかった。
龍之介は、土手の下にいる源太へ声を掛けた。
「鳴海城へ知らせろ。九郎二郎殿にも、敵がこれまでより大きな兵を動かしてきたと伝えてくれ」
「承知しました!」
源太が兵を走らせる。
龍之介は再び敵勢へ目を向けた。
今川方の旗の下に、鎧を着た武者がいる。
馬上で槍を掲げ、兵の動きを指図していた。
その男が何者かは知らない。
だが、兵たちが従う様子から、今回の指揮官であることは間違いなさそうだった。
敵の先頭が川岸へ近づく。
そして、龍之介のいる土手を見つけた。
馬上の武者が笑い声を上げる。
「鳴海の兵か! わずかな人数で、我らを止めるつもりか!」
龍之介は答えなかった。
こちらにいるのは、留吉を除く十九人。
源太の組が九人、孫七の組が十人である。
鳴海から兵が来れば数は増えるが、今はまだ間に合っていない。
敵は八十人前後。
正面からぶつかれば、どれほど龍之介の武が優れていても、兵たちを守りきるのは難しい。
だからこそ、戦う場所を選ぶ必要があった。
龍之介は、川と周囲の田を見渡した。
収穫を終えた田が広がっている。
まだ刈り入れの残る田も二枚あったが、庄屋の話では、そこは数日置いてから鎌を入れる予定だった。
村人たちは昨夜のうちに、刈り取った稲束の多くを村の西側へ移している。
今、東の土手に残っているのは、荷車二台と、空になった稲掛けの木組みだけだった。
龍之介は、その位置を見て考えた。
敵は、川を越えたところで二つの道に分かれる。
北は荷車が通れる広い道。
南は収穫を終えた田の間を抜ける細道。
どちらも村へ続いているが、北側の道は途中で狭くなる。
荷車が二台並べば、馬は横を抜けられない。
南側の道も、足場の悪い畦が続く。
敵が八十人いたとしても、全員が一度に攻め込めるわけではなかった。
「源太、孫七を呼んでくれ。敵が川を越える前に、兵の置き方を決める」
龍之介は、地面へ枝で線を引いた。
戦うなら、ここだ。
ただし、村人の田を踏み荒らして勝つつもりはなかった。
◇
三河から来た軍勢を率いていたのは、倉田伊兵衛という武者だった。
今川方に従う三河の地侍で、兵を率いて尾張の境へ出た経験もある。
今回、伊兵衛は鳴海東方の村を脅かし、山口家の兵を引き出すよう命じられていた。
前に村を襲った者たちは、鳴海の若君を捕らえ損ねた。
しかも那古野から現れた山本龍之介という武者に、騎馬まで打ち倒されたという。
その報告を聞いた伊兵衛は、鼻で笑った。
「馬上の武者を三人落としただと。よほど出来の悪い者ばかりだったのであろう」
側近は何も言わなかった。
伊兵衛は、川向こうにいる龍之介の小勢を見た。
「今度は八十人だ。二十人そこらの兵を連れた若造に、好き勝手させるものか」
先手の足軽たちへ命じる。
「まず二十人を渡せ。鳴海の兵が出てくるなら受けて立つ。騎馬は南の道へ回り、敵の後ろを押さえよ」
伊兵衛の考えは、単純ではあったが間違ってはいなかった。
少数の守備兵に正面から圧力を掛け、騎馬で側面へ回る。
その間に残る兵が川を越えれば、鳴海側は数で押される。
ただし、伊兵衛はひとつ見落としていた。
龍之介が、最初から川を守りきろうとしていないことだった。
◇
龍之介は、源太に九人を預け、北側の道を守らせた。
孫七には十人を率いて南側の土手へ回るよう命じる。
「源太。敵が川を越えても、最初から押し返そうとするな。北の道へ入るまで待て」
源太は地形を見た。
「荷車のある場所まで引きつけるのでございますな」
「そうだ。敵は数が多い。開けた場所で戦えば、こちらが不利になる」
龍之介は続けた。
「ただし、荷車を壊されるまで待つ必要はない。敵が北の道へ入り、左右へ広がれなくなったところで槍を揃えろ」
「承知しました」
孫七には別の役を与えた。
「南へ回る騎馬を見てくれ。畦へ入る前に止める必要はない。ただし、馬が田へ下りようとしたら射る。村人の稲を踏ませるな」
孫七は頷いた。
「馬ではなく、騎乗の者を狙います。味方が射線へ入らぬようにも気をつけます」
「頼む」
龍之介は最後に、二人へ念を押した。
「俺が敵の頭を押さえる。だが、それを見て全員が前へ出れば、後ろが空く。お前たちは持ち場を守ってくれ」
源太と孫七は深く頭を下げた。
その直後、川向こうから角笛が鳴った。
敵の足軽が渡り始めたのである。
先頭の二十人は長槍を持ち、川の浅い場所を選んで進んでくる。
水は膝ほどまでしかない。
歩兵なら渡れる。
だが、足元の石は滑りやすく、槍を構えたまま素早く動ける場所ではなかった。
龍之介は、敵が渡る様子を見ていた。
先頭の兵が西岸へ上がる。
その後ろから、二列目が続く。
敵は、龍之介たちが川岸まで出てこないことを見て、少し勢いづいたらしい。
「織田の兵は怖じ気づいたぞ!」
誰かが叫んだ。
龍之介は口元を緩めた。
そう思ってくれるなら都合がよい。
こちらは、戦う場所を決めている。
あとは敵がそこへ入ってくるのを待つだけだった。
◇
北側の道へ入った敵の先手は、途中で足を止めた。
道の両脇には刈り取った稲を運ぶための荷車が置かれ、通れる幅が狭くなっていたのである。
源太たちは、その奥で槍を構えている。
敵の足軽は十数人が前へ出たが、一度に槍を並べられるのは四、五人ほどだった。
「荷車をどけろ!」
敵の組頭が叫ぶ。
二人の足軽が荷車へ近づいた。
その瞬間、源太の声が響いた。
「槍を揃えろ!」
長槍が一斉に突き出される。
荷車へ手を伸ばした二人は、慌てて後退した。
後ろから進んでいた者とぶつかり、道が詰まる。
源太は追わなかった。
敵を倒したい気持ちはあったが、龍之介から命じられた役を守った。
北の道を通さない。
それが、今の自分の仕事だった。
一方、南側へ回った騎馬は、孫七の組に進路を塞がれていた。
騎馬は六騎。
だが、田の畦は狭く、一度に走れるのは二騎ほどである。
孫七は土手の上から弓を構えた。
「まだ射るな。田へ下りようとする者を見ろ」
敵の騎馬は、しばらく道を探していた。
そのうち一騎が、収穫を終えた田へ踏み込もうとする。
孫七は矢を放った。
矢は武者の肩へ突き立った。
男が呻き、馬上で身体を傾ける。
続く騎馬が慌てて手綱を引いた。
馬は狭い畦で向きを変えられず、後ろの騎馬まで動けなくなった。
「今だ。二本目を構えろ!」
孫七の声が飛ぶ。
敵はそれ以上、田へ踏み込もうとしなかった。
龍之介は、少し離れた場所からその動きを見ていた。
源太も孫七も、役を果たしている。
敵は八十人いる。
だが、今実際にこちらへ槍を向けられるのは、北の道の数人と南の騎馬だけだった。
残る兵は川の向こうにいる。
この形を崩される前に、敵将を押さえる。
龍之介は、倉田伊兵衛へ目を向けた。
伊兵衛は川の東岸で、先手の動きを見ていた。
味方が思うように進まないことに気づいたらしい。
側近へ何か命じ、さらに兵を川へ入れ始める。
龍之介は、その動きを見て決断した。
「彦右衛門!」
近くで控えていた彦右衛門が顔を上げる。
「ここから先は、俺が前へ出る。敵が俺を追っても、源太たちの持ち場は動かすな」
「承知しました。ですが、龍之介殿も深追いはなさらぬように」
「ああ。敵将のところまでだ」
龍之介は槍を握り直した。
いよいよ、呂布の武を振るう時が来た。
◇
龍之介が川へ下りた時、倉田伊兵衛は驚いた。
こちらには、まだ五十人近い兵が残っている。
それなのに、敵の若い武者がたった一人で川を渡ってくる。
「馬鹿め。手柄を焦ったか!」
伊兵衛は笑い、側近へ命じた。
「槍を並べろ! あの男を討ち取れ!」
五人の足軽が前へ出た。
長槍を構え、川から上がってくる龍之介を待ち受ける。
だが、龍之介は足を止めなかった。
最初の槍が突き出される。
龍之介はその穂先を外へ払い、踏み込んだ。
次の瞬間、槍の石突きが敵の胸へ叩き込まれる。
男は息を詰まらせ、後ろへ倒れた。
続く二人が左右から槍を突き出す。
龍之介は身体を沈め、片方の槍をかわしながら、もう一方を柄で受け流した。
そのまま踏み込み、二人の間へ入る。
長槍は、懐へ入られると扱いにくい。
龍之介は片方の男の顎へ石突きを打ち込み、もう一人の膝を払った。
二人がほとんど同時に倒れる。
残る二人が、思わず後ずさった。
伊兵衛の顔から笑みが消えた。
「何をしておる! 相手は一人だぞ!」
叫んだ直後、龍之介が動いた。
敵の槍を一本奪い、力任せに横へ払う。
長い柄が唸りを上げ、残る二人の武器をまとめて弾き飛ばした。
木と鉄がぶつかる激しい音が響く。
男たちは手の痺れに顔を歪め、槍を落とした。
龍之介は、その間を抜けた。
伊兵衛まで、あと十歩ほど。
伊兵衛は馬上で槍を構えた。
「小僧! その武を見せてもらおう!」
馬が動く。
伊兵衛は、速度を乗せて槍を突き出した。
ただの足軽とは違う。
長く戦場を歩いてきた者の突きだった。
穂先は龍之介の胸を正確に狙っている。
だが、龍之介には見えていた。
槍の動きだけではない。
伊兵衛の肩が動く前に、馬の首がわずかに左へ寄る。
その動きから、槍が来る角度が分かった。
郭嘉の知が、相手の次の動きを読ませる。
龍之介は踏み込んだ。
槍の穂先が胸の横を抜ける。
その瞬間、龍之介の槍が下から跳ね上がった。
伊兵衛の槍を持つ腕へ、強烈な一撃が入る。
鈍い音がした。
伊兵衛の右腕が折れ曲がり、槍が手から離れる。
「ぐあっ!」
叫び声が上がった。
龍之介は、そこからさらに踏み込んだ。
逃がすつもりはない。
伊兵衛が左手で刀へ伸ばそうとする。
その前に、龍之介は槍の柄を横へ払った。
伊兵衛の胴へ、重い一撃が叩き込まれる。
馬上の身体が大きく傾いた。
続いて龍之介が馬の横へ回り、足を払うように槍を振るう。
伊兵衛は鞍から放り出され、地面へ叩きつけられた。
鎧が土を削り、馬が驚いて後ろへ下がる。
龍之介は伊兵衛の前へ立った。
槍先を喉元へ向ける。
「ここまでだ。これ以上、兵を死なせる必要はない」
伊兵衛は、痛みで顔を歪めながら龍之介を睨んだ。
「貴様……何者だ……」
「織田三郎信長様の家臣、山本龍之介」
龍之介は名乗った。
「お前たちが調べていた道を守る者だ」
伊兵衛の顔色が変わった。
「山本……龍之介……」
その名に、覚えがあるらしい。
龍之介は続けた。
「兵を退かせろ。お前が命じれば、まだ退ける」
伊兵衛はしばらく龍之介を睨んでいた。
だが、周囲の兵たちはすでに動きを止めている。
指揮官が落馬し、槍を向けられている。
しかも、そこまでの間に五人もの足軽が打ち倒された。
誰も、次に踏み込もうとはしなかった。
伊兵衛は、ついに目を伏せた。
「……退け」
側近が慌てて兵へ声を掛ける。
角笛が鳴った。
川へ渡りかけていた兵たちが引き返す。
北の道にいた足軽も、南の騎馬も、それぞれ後退し始めた。
龍之介は槍を下ろさなかった。
敵が完全に退くまで、伊兵衛を見張り続けた。
やがて、川の向こうから槍の列が消えた。
敵は退いたのである。
龍之介は、ようやく深く息を吐いた。
八十人を相手に、十九人で村を守り切った。
しかも、敵将を生け捕りにした。
◇
山口九郎二郎教吉が兵を率いて到着したのは、敵が退き始めた頃だった。
教吉は、川岸に残された槍と、捕らえられた倉田伊兵衛を見るなり言葉を失った。
「山本殿。すでに戦は終わったのでございますか」
「ひとまず敵は退きました。ただ、まだ残る者がいるかもしれません。九郎二郎殿の兵には、村の周囲を見ていただけると助かります」
龍之介は、落ち着いて答えた。
教吉は頷き、すぐ家臣たちへ命じた。
龍之介は源太と孫七を呼んだ。
二人とも、汗と泥にまみれている。
だが、目はしっかりしていた。
「よく守ってくれた。源太の組が北を塞ぎ、孫七の組が南を押さえたから、俺は敵将へ向かえた」
源太は、少し照れくさそうに笑った。
「龍之介様が敵将を討ち取ってくださると信じておりました」
「討ち取ったのではない。捕らえたんだ」
龍之介は笑った。
「それに、俺が敵将へ向かっている間、お前たちが勝手に前へ出れば、村の道は空いてしまった。持ち場を守ったことの方が大きい」
孫七も深く頭を下げた。
「南の騎馬を通さずに済みました。敵を一人射ましたが、それ以上は追っておりませぬ」
「それでよい」
龍之介は、二人の肩を軽く叩いた。
最初に十人を預かった時は、互いの槍が邪魔になることさえあった。
それが今では、兵が役を理解し、指揮官が動くための場所を作ってくれる。
龍之介は、確かな手応えを感じていた。
◇
捕らえた倉田伊兵衛は、鳴海城へ送られた。
山口教継は、伊兵衛の顔を見るなり眉を寄せた。
「倉田伊兵衛。三河の者とは聞いておったが、今川方に従っていたか」
伊兵衛は、腕を吊ったまま教継を睨んだ。
「左馬助殿。鳴海の城を守りたいなら、織田だけを頼るのは危ういぞ」
教継は、静かに答えた。
「今川からの文は受け取った。争わずに済む道があるなら、正式な筋で話を進めると返したはずだ」
「その返事では足りぬと思う者もいる」
「だから村へ兵を出したのか」
伊兵衛は黙った。
教継は続けた。
「稲を刈る者を脅し、九郎二郎を捕らえようとし、今度は八十人を動かした。そこまでして鳴海を揺らす理由を、今川義元殿ご自身が知っておられるのか」
伊兵衛は答えなかった。
龍之介は、その様子を見ていた。
伊兵衛は今川方の兵を率いている。
だが、今川義元から直接命令を受けたとは言っていない。
その違いは、まだ大きい。
教継は龍之介へ向き直った。
「山本殿。此度は、本当に世話になりました」
「私は若様から預かった兵で働いただけです。鳴海の村を守れたのであれば、何よりです」
教継は、ゆっくり頷いた。
「今日の働きは、大殿にも三郎様にも、私からお伝えします」
龍之介は深く頭を下げた。
教吉も、父の隣で笑みを浮かべていた。
龍之介は、その顔を見て思った。
この父子は、今川へ降る道を断ったわけではない。
だが、少なくとも今は織田を頼ることを選んでいる。
しかも、ただ口約束だけではない。
実際に兵が来て、村を守った。
その積み重ねが、山口家の判断を変えていくのだろう。
◇
那古野へ戻った龍之介を、信長は庭で迎えた。
報告を聞くより先に、又左が声を上げた。
「龍之介! 敵八十人を相手に、敵将を生け捕りにしたそうだな!」
龍之介は苦笑した。
「又左。話が大きくなっている。八十人全員と戦ったわけではない。川を越えてきた先手を止め、その間に敵将へ向かったんだ」
「それでも十分すぎる働きだろう!」
又左は楽しそうに笑った。
信長も笑みを浮かべている。
「龍之介。詳しく聞かせろ。お前が敵将を捕らえたところまで、全部だ」
龍之介は、戦の経緯を説明した。
敵が八十人ほどいたこと。
先手を北の道へ誘い、源太の組に押さえさせたこと。
騎馬を南の畦へ回した敵に対し、孫七の組が進路を塞いだこと。
そして、敵の残る兵が川を越える前に、自分が敵将へ向かったこと。
信長は最後まで聞くと、深く頷いた。
「なるほど。八十人を一度に相手にせず、戦える人数を減らしたわけだな」
「はい。開けた場所で正面から戦えば、こちらの兵に大きな被害が出たでしょう」
龍之介は続けた。
「源太と孫七が、それぞれの道を守ってくれました。そのおかげで、私は敵将へ向かえました」
信長は、少しだけ目を細めた。
「お前一人の武ではないということか」
「はい」
「よい」
信長は、満足そうに頷いた。
「それでこそ、兵を預けた甲斐がある」
平手も、傍らで静かに笑った。
ただし、信長はそこで表情を引き締めた。
「敵は今川の旗を掲げたのだな」
「はい。ただし、伊兵衛自身が義元殿の正式な命令を受けたかどうかは、まだ明らかになっておりません」
「ならば、父上へそのまま報告する。今川方の旗を掲げた三河の軍勢八十人が鳴海東方へ進み、龍之介の兵と戦った。敵将を捕らえ、敵を退けた。そこまでだ」
平手は深く頷いた。
「承知しました」
信長は、龍之介へ向き直った。
「よくやった。だが、今度は八十人だった。次は二百人かもしれぬ」
「その可能性はございます」
「その時、お前の二十人だけでは足りぬ」
信長は、静かに続けた。
「父上にも、兵を増やすことを願い出よう。鳴海の道を守るだけなら二十人でも働ける。だが、今川方がまとまった軍勢を動かすなら、もっと大きな備えが要る」
龍之介は深く頭を下げた。
「ありがたく存じます」
信長は笑った。
「お前には、まだまだ働いてもらうぞ」
「望むところでございます」
龍之介は顔を上げた。
久しぶりに、胸の奥から戦場の熱が湧いてくる。
呂布の武は、敵将を打ち倒す力を与えた。
郭嘉の知は、八十人の敵を分けて戦う道を見せた。
だが、今日の勝利はそれだけではない。
源太と孫七が、持ち場を守った。
十九人の兵が、敵の数に怯えず動いた。
そして、村の稲を踏み荒らすことなく、敵を退けた。
龍之介は、そのすべてを誇らしく思った。
◇
その夜、末森城では信秀が報告を読んでいた。
鳴海東方へ現れた敵勢、八十人。
今川方の旗を掲げた三河の武者、倉田伊兵衛。
山本龍之介、兵十九人を率い、源太と孫七の二組を使って敵の進路を塞ぐ。
龍之介自身が敵将へ突入し、伊兵衛を生け捕り。
敵勢は退却。
村への被害は軽く、味方の兵に死者なし。
信秀は、最後まで読み終えると小さく笑った。
「三郎め。随分と面白い男を拾ったものだ」
傍らの重臣が頭を下げる。
「山本龍之介なる者、武勇は相当なものと聞き及んでおります」
「武だけではない」
信秀は答えた。
「八十人を相手に、十九人を無駄に使わなかった。そこがよい」
信秀は報告を置いた。
「三郎へ伝えよ。龍之介には、兵を増やして預けることを許す。まずは五十人を使えるようにせよ、と」
重臣が顔を上げた。
「五十人にございますか」
「うむ。いきなり百人を預けるには、まだ早い。だが、二十人では今川方の動きに対応しきれぬだろう」
信秀は、少し考えて続けた。
「鳴海と那古野を繋ぐ道を、山口左馬助とともに守らせよ。清洲の内争いに兵を使わせるな。東の備えのためだ」
「承知いたしました」
重臣が下がると、信秀は再び報告へ目を向けた。
今川方の旗。
三河の軍勢。
鳴海東方への進出。
これまでは物見や小勢の揺さぶりで済んでいた。
だが、今回は八十人がまとまって動いた。
戦の気配は、確かに濃くなっている。
信秀は、静かに息を吐いた。
「義元め。尾張の東へ、少しずつ手を伸ばしてくるか」
その声に答える者はいなかった。
◇
翌朝、那古野の練兵場には、新たに集められた足軽たちの姿があった。
龍之介が預かる兵を、五十人へ増やす。
その話は、すでに信長から伝えられていた。
源太と孫七は、顔を見合わせていた。
「五十人とは、ずいぶん増えますな」
源太が言う。
孫七は、少し考えて答えた。
「人数が増えるなら、今までのように龍之介様の声だけで全員を動かすのは難しくなります。組を分け、指図を伝える者も増やさねばなりますまい」
龍之介は、その会話を聞いて頷いた。
「その通りだ。だから、お前たちにもこれまで以上に働いてもらう」
源太が顔を上げる。
龍之介は続けた。
「五十人を十人ずつの五組に分ける。源太と孫七には、それぞれ一組を預ける。残る三組については、腕と経験を見て組頭を決めよう」
源太は深く頭を下げた。
「承知しました」
孫七も頷いた。
龍之介は、集まった兵たちを見渡した。
まだ五十人すべてが揃ったわけではない。
新しく預けられる兵の中には、実戦経験の浅い者もいるだろう。
武具も、足並みも、考え方も違う。
だが、最初に十人を預かった時も同じだった。
そこから二十人になり、今は五十人になる。
龍之介は槍を手に取った。
「まず全員の顔と名を覚えるところからだ。自分の隣に立つ者が誰か分からぬまま、戦へ出るつもりはない」
兵たちが、一斉に頭を下げた。
龍之介は、東の空を見た。
今川は、鳴海をまだ諦めていない。
次に来る敵は、八十人では済まないかもしれない。
だが、こちらも同じ場所に留まっているつもりはなかった。
預かった兵を鍛え、道を守り、鳴海と那古野を繋ぐ。
そして、今川が本気で兵を動かしてきた時には、その先手を打ち破る。
龍之介は、槍を地面へ立てた。
「さて、始めよう。五十人で戦うなら、五十人全員が働ける隊を作るぞ」
兵たちの返事が、練兵場へ響いた。
呂布の武と郭嘉の知を授かった流れ者は、ついに五十人の兵を預かる立場へ進み始めていた。
鳴海の東では、今川方の軍勢が退いた。
しかし、その戦が終わったわけではない。
むしろ、尾張と三河をめぐる争いは、これから本格的に動き出そうとしていた。




