第90話 鳴海を試す兵
鳴海城の東で狼煙が上がった時、山口左馬助教継は、今川からの返事が届いたのだと思った。
だが、物見の兵が持ち帰ったのは文ではなかった。
「東の村へ武装した者が押し寄せております! 数は五十ほど。三河の方角から参りましたが、旗印は掲げておりませぬ!」
教継は、すぐに腰を上げた。
今川方へ返書を送り出してから四日目。
鳴海城と山口家の所領はそのまま認める代わりに、織田の援兵を拒み、今川との話し合いを信秀へ知らせぬよう求められた。
教継はその条件を断った。
ただし、今川との交渉そのものを拒んだわけではない。正式な筋を通すのであれば、争いを避けるための話は聞くと伝えてある。
それなのに、武装した五十人が国境近くの村へ現れた。
教継は嫌な予感を覚えた。
「九郎二郎はどこにおる。東の村から人を逃がし、敵の動きを確かめるよう伝えよ。ただし、村を守るために城兵を出し尽くしてはならぬ」
家臣が走る。
教継は城の東側を見下ろした。
田畑の向こうに薄い煙が上がっている。
秋の収穫を終えた畑と、まだ稲束の残る田が入り交じる土地だった。
あの村には、織田家の家臣も今川の武士も住んでいない。
ただ、土地を耕し、米を納めて暮らす者たちがいる。
そこへ五十人の武装集団が押し寄せたのである。
「左馬助様。那古野へも知らせますか」
家臣の一人が尋ねた。
教継は即座に頷いた。
「無論だ。三郎様との約束がある。鳴海の東で兵が動いたなら、那古野へ知らせを通す。山本龍之介にも伝えてくれ」
使いが馬へ飛び乗った。
教継は、遠ざかる蹄の音を聞きながら考えた。
今川が正式に兵を出したのか。
それとも、三河の国衆が独断で動いたのか。
まだ分からない。
だが、村が襲われている以上、その違いを確かめてから動くわけにはいかなかった。
◇
龍之介が知らせを受けたのは、那古野から鳴海へ続く道の途中だった。
源太と孫七の二組を使い、鳴海から来る使いの受け渡し場所を確かめていたところである。
兵は十九人。
先日傷を負った留吉は、まだ那古野で休ませている。
彦右衛門も同行していた。
鳴海からの使いは、馬を降りるなり報告した。
「東の村へ五十人ほどが押し寄せております。九郎二郎様が兵を率いて向かわれましたが、左馬助様は那古野へ援けを求めておられます」
龍之介はすぐに馬首を東へ向けた。
「源太は九人を率いて続け。孫七は十人をまとめ、道を外れずに来てくれ。村人が逃げてくるかもしれないから、見つけたら安全な方角を教えるんだ」
「承知しました!」
源太が兵へ声を掛ける。
龍之介は彦右衛門へ向き直った。
「信長様へ使いを出してもらいたい。鳴海東方へ五十人ほどの武装集団が現れ、九郎二郎殿が出ている。俺たちは鳴海側と合流し、村人を守ると伝えてくれ」
「心得ました。ただし、龍之介殿も無理はなさいますな。五十人を十九人で相手にするのは、少々骨が折れます」
「正面から全部を相手にするつもりはありません」
龍之介は、東の空を見た。
村から上がる煙は、まだ細い。
もし今川方が鳴海城を本気で攻めるつもりなら、五十人という兵数は中途半端だった。
城の周りを焼き払い、逃げ道を塞ぐには足りない。
しかし、城兵を誘い出すには十分な数である。
龍之介の頭に、ひとつの疑念が浮かんだ。
敵は村を奪いたいのではない。
鳴海が、どれほど素早く兵を出すかを見たいのではないか。
そう考えると、昨日までの物見の動きとも繋がる。
沢の深さ。
荷車の通れる道。
見張りの数。
そして、山口教継が織田の援兵を頼るかどうか。
今川方の使いが気にしていたことばかりだった。
龍之介は馬腹を蹴った。
まず、九郎二郎と合流しなければならない。
◇
東の村へ近づくと、道の脇を逃げる百姓たちが見えた。
荷を背負った老人。
子を抱えた女。
牛を引く男。
皆、鳴海城の方角へ向かっている。
その後ろには、甲冑を着た武者が数人いた。
山口家の兵である。
龍之介が馬を寄せると、先頭の武者が顔を上げた。
「山本殿! 九郎二郎様は村の東で敵を押さえておられます!」
「村人は逃がせているか。こちらからも兵を出せるので、取り残された者がいるなら教えてくれ」
「村の大半は逃げました。ただ、東の畑にいた者が数人、まだ戻っておりませぬ」
龍之介は頷いた。
「孫七。お前の組から二人をこちらへ残せ。村人を西へ送る役だ。残る八人は俺に続いてくれ」
孫七が即座に兵を分けた。
龍之介は源太の組を先に進ませ、自分も村の東へ向かった。
やがて、槍を構えて立つ一団が見えてきた。
山口九郎二郎教吉が率いる兵だった。
その数は十二人ほど。
教吉は龍之介の姿を見ると、明らかに安堵した顔になった。
「山本殿。来てくださったか」
「左馬助殿から知らせを受けました。村人の大半は逃がせたと聞いております」
「はい。敵は村の入口まで押し寄せましたが、家へ火を放つ様子はありません。こちらが出てくると、東の川へ向かって下がりました」
龍之介は、教吉の指さした方角を見た。
浅い川が流れ、その向こうに低い丘がある。
敵の武者たちは丘の斜面に集まっていた。
遠目にも四十人以上はいる。
だが、全員がこちらを向いているわけではない。
半数ほどが川の近くで槍を構え、残る者は丘の向こうを気にしているようだった。
「九郎二郎殿。あの者たちは、村の米を奪おうとしましたか」
「いいえ。畑から逃げてきた者の話では、兵たちは家々へ近づいたものの、米や家畜を運び出してはいないそうです」
龍之介は眉を寄せた。
やはり妙だ。
五十人で村を襲うなら、食糧を奪うなり、家を焼くなり、何か目的があるはずだった。
ところが敵は、武器を振りかざして村人を脅しただけである。
そして鳴海の兵が現れると、川の向こうへ下がった。
郭嘉の知が、敵の動きを頭の中で組み立て始めた。
村を脅す。
鳴海の兵を引き出す。
川を越えて追わせる。
その後に何があるのか。
龍之介は周囲を見た。
川の北側には低い丘。
南側には葦の生えた湿地。
そして敵が集まる東の斜面には、もう一本、別の道が伸びている。
龍之介は教吉へ向き直った。
「九郎二郎殿。敵が下がった後、こちらから川を越えようとはなさいませんでしたか」
「私は追うつもりでしたが、家臣たちと相談し、村人を逃がすことを優先しました」
「それで正解だったと思います。敵は、こちらに川を越えさせたいように見えます」
教吉の目が鋭くなった。
「村を襲うことが目的ではないと」
「その可能性が高いでしょう。五十人もいながら米を奪わず、家も焼かない。鳴海の兵が来れば、わざわざ見える場所へ下がっております」
龍之介は丘の奥を見た。
「川を越えた先で、何かをするつもりなのだと思います」
教吉は、すぐに頷いた。
「ならば、こちらから追いかけるのは避けます。村を守るために出た兵です。敵の望む場所へ動かす必要はありません」
龍之介は、その判断を聞いて少し笑った。
山口教継の息子は、ただ父の命令を待つだけの若武者ではなかった。
鳴海の城を守る者として、自分で考えている。
◇
敵が動いたのは、それから間もなくのことだった。
川の向こうで角笛が鳴った。
すると、斜面にいた兵のうち十人ほどが川へ下りてきた。
その先頭には、馬に乗った武者がいる。
男は槍を掲げ、大声を張った。
「鳴海の兵よ! 我らは村の者へ手を出すつもりはない! そちらが兵を引けば、我らも退く!」
教吉が眉を寄せた。
「村へ押し寄せておきながら、よく言うものだ」
龍之介は相手の動きを見ていた。
馬上の武者は声を張っているが、後ろの兵は川を越えてこない。
むしろ、こちらが進むのを待っているようだった。
「九郎二郎殿。こちらから返事をする必要はありません。相手が退くというなら、まず退くところを見ましょう」
教吉は頷いた。
敵の武者が再び叫んだ。
「鳴海の若君は、村を守るために出てきたのではないのか! 我らがここにいる限り、村人は戻れまい!」
龍之介の目が細くなった。
敵は教吉を知っている。
しかも、わざわざ若君と呼んだ。
これは偶然ではない。
鳴海の城主の息子が兵を率いて出てくることを、見込んでいたのかもしれない。
龍之介は教吉へ顔を向けた。
「敵は九郎二郎殿を川の向こうへ誘っております。ここで応じれば、鳴海の若君が先に兵を進めたことにされかねません」
教吉は、ゆっくり息を吐いた。
「なるほど。私が川を越えれば、向こうも戦う理由を得られるわけですな」
「ええ。しかも、川を渡る間は兵の列が乱れます。あの丘から矢を射られれば、危険でしょう」
教吉は兵へ命じた。
「槍を揃えよ。こちらから川へ下りるな。村人の逃げ道を守れ」
山口の兵たちが動いた。
龍之介も源太と孫七へ合図を送る。
こちらの兵は十九人だったが、二人を村人の護衛に残している。
現場にいるのは十七人。
山口の兵十二人と合わせても、三十人に届かない。
敵は五十人ほど。
正面から押し合えば、数では不利だった。
だが、敵がこちらに川を越えさせたいなら、渡らなければよい。
村を守るために出てきたのだから、敵を追いかける必要はなかった。
龍之介は、その判断を固めた。
ところが次の瞬間、背後から兵の叫び声が響いた。
「山本様! 南の葦原から敵が出ております!」
龍之介は振り返った。
村の南側。
葦の茂った湿地から、騎馬武者が六人現れていた。
川の向こうにいた五十人とは別の一団である。
そのうち二人が、まっすぐ教吉の方角へ馬を走らせていた。
龍之介の疑念が、そこで確信に変わった。
正面の五十人は、こちらの目を引きつける役だった。
本当に狙っていたのは、別の場所にいた。
「九郎二郎殿! こちらへ下がってください!」
龍之介は叫ぶと同時に駆け出した。
◇
六騎の動きには迷いがなかった。
村の家々には目もくれず、山口の兵へ向かってくる。
先頭の武者は、教吉を見つけると槍を構えた。
「九郎二郎殿とお見受けする! お命までは取らぬゆえ、大人しくしていただこう!」
その言葉で、狙いがはっきりした。
殺すためではない。
捕らえるためだ。
山口家の跡取りを捕らえれば、鳴海城の教継へ強い圧力を掛けられる。
今川方への返事を断ったばかりの山口家にとって、それは致命的になり得る。
教吉も理解したらしい。
「私を捕らえに来たか!」
刀を抜こうとする。
だが、龍之介が先に踏み込んだ。
「九郎二郎殿は兵をまとめてください! あの騎馬は私が止めます!」
龍之介は長槍を構えた。
六騎のうち、先頭の男が槍を突き出す。
馬の速さを乗せた突きだった。
普通の足軽なら、正面から受けるのは危険である。
だが、龍之介には相手の動きが見えていた。
馬の首の向き。
武者の肩の角度。
槍を突き出す瞬間に、右側へ重心が寄ることまで。
龍之介は半歩だけ身体を外した。
槍の穂先が肩先をかすめる。
その直後、龍之介の槍が下から跳ね上がった。
敵の槍を持つ腕へ柄を叩き込み、そのまま武者の身体を馬の横へ押し出す。
男は鞍から崩れ落ちた。
続く二騎が龍之介を挟もうとする。
だが、龍之介はすでに一騎目の馬の横へ入っていた。
馬を盾にするような位置で、次の敵の進路を狭める。
二騎が互いの馬を避けた瞬間、龍之介は地面を蹴った。
呂布の武が、若い肉体の奥で激しく脈打つ。
踏み込む足の力が、そのまま槍へ伝わった。
龍之介は二騎目の武者へ槍を突き出した。
穂先が胴丸の脇へ入る。
男が呻き、馬上で身体を折った。
龍之介は槍を引き抜き、すぐに三騎目へ向き直る。
相手は刀を抜いていた。
「化け物め!」
振り下ろされた刀を柄で受け、龍之介はその手首を強く打った。
刀が飛ぶ。
続いて槍の石突きを胸へ叩き込むと、男は馬から落ちた。
ここまで、ほんのわずかな間だった。
残る三騎は、完全に足を止めていた。
龍之介は槍を構え直した。
「九郎二郎殿を捕らえるつもりなら、まず俺を倒してからにしてもらおう」
声を荒らげる必要はなかった。
三騎のうち、一人が馬を下げた。
もう一人も、龍之介の槍を見て動けなくなっている。
最後の男だけが、歯を食いしばって刀を構えた。
だが、その男へ源太の組が横から迫った。
「龍之介様! こちらで押さえます!」
源太たちは槍を揃え、三騎が教吉の方へ向かえないよう道を塞いだ。
一人が強引に抜けようとしたが、源太が槍を突き出すと、馬を引いて後退した。
龍之介はその動きを見て、すぐ命じた。
「追わなくてよい! 九郎二郎殿の兵と合流し、村の入口を守れ!」
源太は頷いた。
「承知しました!」
敵の三騎は、仲間を助けることもできず、南の葦原へ退いていった。
龍之介は深く息を吐いた。
六騎のうち三騎を止めた。
その間に、教吉は兵をまとめ直していた。
敵が本当に狙っていたものは、もう見えている。
この戦は、村の米をめぐる争いではない。
鳴海城主の息子を捕らえ、山口家を揺さぶるための襲撃だった。
◇
正面の敵も、こちらの異変に気づいたらしい。
川の向こうで角笛が鳴る。
すると、斜面にいた兵たちが一斉に動き始めた。
だが、こちらへ押し寄せてくるのではない。
東へ下がっていく。
龍之介はその動きを見て、戦の形を理解した。
六騎が教吉を捕らえれば、正面の兵が川を越えて助けに来る。
そうなれば、鳴海側は数で押される。
反対に、六騎が失敗すれば、正面の兵を無理に動かす理由はない。
敵は、最初から勝てるところだけで勝つつもりだったのだろう。
「九郎二郎殿。正面の敵が退き始めました。こちらから追わず、村へ戻りましょう」
教吉は頷いた。
「村人の安全を確かめます。山本殿は、捕らえた者から事情を聞いていただきたい」
「承知しました」
二人は短く言葉を交わし、それぞれの役へ戻った。
教吉は村へ向かい、山口の兵へ逃げ遅れた者がいないか確かめさせた。
龍之介は落馬した三人の様子を見た。
一人は腕を痛め、もう一人は脇腹に深い傷を負っている。
残る一人も胸を打たれて息が荒かったが、意識はあった。
龍之介は、まず傷の手当てを命じた。
敵であっても、すぐに死なせる理由はない。
何より、この者たちが誰の命令で動いていたのかを確かめたかった。
「お前たちは、九郎二郎殿を捕らえるよう命じられていたんだな」
腕を痛めた男が、顔を背けた。
龍之介は続けた。
「村を襲うなら、わざわざ若君だけを狙う必要はない。正面の兵も、こちらが動かなければ川を越えてこなかった。お前たちの狙いは、最初から山口家の跡取りだったのだろう」
男はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で答えた。
「……九郎二郎を押さえれば、鳴海は動けぬと聞いた」
「誰に聞いた」
「三河筋の武者だ。名は知らん」
「今川の命令か」
男は、ゆっくり首を横に振った。
「俺は今川の直臣ではない。銭で雇われた。誰がその上にいるかまでは聞いておらん」
龍之介は頷いた。
六郎たちの話と似ている。
三河の者から雇われ、尾張へ入っている。
だが、今川義元から直接命じられたとは誰も言わない。
今川の名を使いながら、正式な軍勢であることは隠しているのか。
それとも、三河の国衆が勝手に動いているのか。
どちらにしても、鳴海の東で起きたことは軽く扱えなかった。
◇
日が傾く頃、山口教継が自ら村へ現れた。
城を空けるわけにはいかないため、兵の一部を残してきたという。
教継はまず息子の無事を確かめた。
「九郎二郎。怪我はないか」
「ございませぬ。龍之介殿が敵の騎馬を止めてくださいました」
教継は、龍之介へ深く頭を下げた。
「山本殿。礼を申し上げる」
「私は役を果たしただけです。九郎二郎殿も、敵を追わず村人を守る判断をなさいました」
教継は息子を見た。
教吉は、少し照れくさそうに頭を下げる。
「父上。敵は私を川の向こうへ誘おうとしておりました。山本殿が気づかれなければ、追いかけていたかもしれませぬ」
「それで、お前は止まった」
「はい」
教継は頷いた。
「よく止まった。城を預かる者は、勇ましく敵を追うことより、守るべき場所を失わぬことが大切だ」
教吉は深く頭を下げた。
龍之介は、二人のやり取りを見ていた。
山口家は、今川の誘いを断った。
その直後、城主の息子を狙う兵が現れた。
これだけを並べれば、今川の圧力だと考えたくなる。
だが、証はまだ足りない。
教継も同じことを考えているようだった。
「山本殿。捕らえた者は今川の兵と名乗りましたか」
「いいえ。三河筋の者から雇われたと申しておりますが、今川の正式な命令を受けたとは認めておりません」
「そうか」
教継は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「ならば、この件を今川義元殿の命令と決めつけるわけにはいかぬな」
「その通りと存じます」
「しかし、鳴海を試した者がいることは確かだ」
教継は村の方角を見た。
逃げていた百姓たちが、少しずつ戻り始めている。
家は焼かれていない。
田畑も、大きく荒らされてはいなかった。
それでも、村人たちは怯えている。
武装した五十人が突然押し寄せたのだ。
また来るのではないか。
次は家を焼かれるのではないか。
そう思うのは当然だった。
「山本殿。今後も、この道を守るために力を貸していただけますか」
教継が言った。
龍之介は頷いた。
「若様から預かった兵は二十人です。大軍を相手にするには足りませんが、鳴海と那古野の連絡路を守ることならできます」
「それで十分だ」
教継は答えた。
「鳴海の城兵は私が預かる。だが、村と村の間まで常に見回るには手が足りぬ。那古野と連絡を取り、互いの見張りを重ねず、空いた場所を減らしたい」
龍之介は、すぐに周囲の地形を見た。
川の渡り場。
村へ向かう道。
南の葦原。
そして、教吉を狙った六騎が現れた場所。
「左馬助殿。まずは南の葦原を見張る場所が必要でしょう。今日、敵はそこから回り込みました。川の正面だけを見ていても、同じ手を使われます」
教継は頷いた。
「村の者と相談し、番所を置く場所を決めよう。鳴海の兵で守るが、那古野へも知らせが届くようにしたい」
「承知しました」
教継は、もう一度龍之介へ頭を下げた。
「今日、お前が来てくれなければ、九郎二郎が敵の手に落ちていたかもしれぬ」
龍之介は、少しだけ笑った。
「九郎二郎殿が無理に追わなかったからこそ、間に合いました」
教継も笑みを返した。
その表情には、今朝までの重苦しさとは違うものがあった。
今川からの誘いを断った後、山口家は孤立するかもしれない。
そういう不安があったはずだ。
だが、実際に敵が現れた時、那古野から龍之介が駆けつけた。
その事実は、どれほど立派な約束の文よりも重かった。
◇
那古野へ戻った龍之介は、信長の前で戦の経緯を報告した。
村へ押し寄せた五十人ほどの兵。
敵が村人を脅しながらも、米を奪わず、家を焼かなかったこと。
教吉を川の向こうへ誘おうとしたこと。
そして、南の葦原から六騎が現れ、教吉を捕らえようとしたこと。
信長は、最後まで黙って聞いていた。
「左馬助の息子を捕らえるつもりだったか」
「はい。そのように考えております。捕らえた者も、九郎二郎殿を押さえれば鳴海は動けなくなると聞いたと申しておりました」
信長の目が鋭くなる。
「今川が命じたかどうかは分からぬのだな」
「はい。そこはまだ確かめられておりません」
信長は頷いた。
平手が、すぐに筆を取る。
「大殿へは、今川方と断定せず、三河筋の武装集団として報告いたしましょう」
「それでよい」
信長は答えた。
それから龍之介へ向き直った。
「お前の兵はどうだった」
「源太の組は村の入口を守り、孫七の組は逃げる村人を護衛しました。留吉を除く十九人を動かしましたが、今回、こちらに死傷者は出ておりません」
信長は、深く頷いた。
「よくやった」
龍之介は頭を下げた。
「九郎二郎殿も、敵の誘いに乗らず、村人を守る判断をなさいました」
「そうか」
信長は少し笑った。
「勘十郎といい、九郎二郎といい、若い連中がずいぶん頼もしくなってきたものだな」
又左が横から口を開いた。
「若。龍之介の方も、敵の騎馬六騎を相手に三人叩き落としたそうですな」
信長が笑った。
「それは聞き捨てならんな。龍之介、詳しく聞かせろ」
龍之介は苦笑した。
「三人を相手にしたところで、残る者は下がりました。源太たちが道を塞いでくれたおかげです」
「それでも、馬上の武者を三人落とすのは尋常ではない」
又左は、楽しそうに笑った。
「次は俺も連れていけ。お前ばかり腕を振るっていては、俺の槍が錆びる」
「又左を連れていけば、敵が逃げる前に追いかけてしまいそうだ」
「そこまで信用がないか」
又左が笑う。
信長も声を立てて笑った。
だが、その笑みは長く続かなかった。
「龍之介。今川が鳴海を試したとすれば、次はもっと大きな手を使うだろう」
「私もそう考えております」
「だが、今日の働きで左馬助は知ったはずだ。困った時、那古野から助けが来るとな」
龍之介は頷いた。
信長は続けた。
「そこが大事だ。鳴海の城を守るのは左馬助だが、左馬助が一人で戦わねばならぬわけではない」
その言葉を聞いて、龍之介は少し胸が熱くなった。
史実では、山口教継は信長を見限り、今川へ通じる。
その男が、今は織田との繋がりを守ろうとしている。
今川の誘いを断った直後に襲われた村へ、那古野から援けが来た。
しかも、息子の教吉まで救われた。
この出来事が山口家の判断へ与える影響は、小さくないはずだった。
◇
その日の夜、鳴海城では山口教継が息子と二人で話していた。
教吉は、昼の戦で見た龍之介の動きを説明していた。
六騎のうち三騎を短い間に止めたこと。
それでも残る三騎を深追いせず、村と味方の兵を守ることを優先したこと。
そして、川の正面へ誘い出されなかったこと。
教継は最後まで聞き、深く息を吐いた。
「山本龍之介という男、ただの豪傑ではないな」
「はい。武だけでなく、敵の狙いを見る目もございます」
「三郎様が側へ置く理由も分かる」
教継は、庭の向こうへ目を向けた。
月明かりが城の土塁を薄く照らしている。
「九郎二郎。今川からの文を受け取った時、私は迷った」
教吉は父を見る。
「鳴海の城下を戦場にしたくなかった。今川の兵が押し寄せれば、城兵だけでは支えきれぬかもしれぬ。その恐れは今も消えておらん」
「父上のお考えは分かります」
「だが、今日のことではっきりした」
教継は息子へ向き直った。
「鳴海は、まだ一人ではない」
教吉は深く頷いた。
「はい」
「信秀様は我らを信じてくださっている。三郎様も、那古野から兵を出してくださった。山本龍之介は、お前を助けるために命を懸けてくれた」
教継は、ゆっくり続けた。
「それならば、こちらも軽々しく織田を見限るわけにはいかぬ」
教吉は、父の言葉を噛みしめるように聞いていた。
「父上。私は鳴海を守りたいと存じます。ただし、城に籠もって待つだけではなく、城下の村も守りたい」
「よい考えだ」
教継は頷いた。
「今日の村には、明日から番を置こう。山本殿とも相談し、南の葦原を見張る場所を決める」
教吉は頭を下げた。
「承知しました」
教継は、今川の使者が残していった文へ目を向けた。
あの文には、鳴海の城と所領を守ると書かれていた。
だが、実際に村が脅かされた時、駆けつけたのは那古野の兵だった。
その違いを、教継は重く受け止めていた。
◇
一方、三河の境に近い陣では、武装した男たちが集まっていた。
村を脅した一団のうち、戦わずに退いた者たちである。
指揮を執っていた男は、戻ってきた騎馬の三人から報告を聞いていた。
九郎二郎を捕らえることはできなかった。
しかも、山本龍之介という武者が現れ、馬上の者を三人も落としたという。
男は、しばらく黙っていた。
「鳴海からは、どれほど兵が出た」
「九郎二郎が十二人ほど。那古野から山本龍之介が二十人近くを連れて参りました」
「三郎の兵が、もう鳴海へ通っておるのか」
「はい。知らせを受けて、すぐ駆けつけたようです」
男は苦い顔をした。
鳴海を揺さぶるには、織田の援兵が間に合わぬことを見せればよい。
そう考えていた。
ところが、実際には那古野から兵が来た。
しかも、山口家の跡取りを助けてしまった。
「これでは、山口はますます三郎を頼るだろうな」
男は、低く呟いた。
傍らの武者が尋ねる。
「次は、いかがいたしますか」
男は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「今日の働きは、上へ報告する。鳴海が簡単には動かぬことも、那古野から兵が通ることもな」
「今川方へ、でございますか」
「その名を軽々しく口にするな。俺たちは、まだ正式な軍勢として動いておるわけではない」
男の声が鋭くなった。
武者は口を閉じる。
指揮官は、遠く尾張の方角を見た。
「山口左馬助が織田を頼るなら、次はその繋がりをどう断つか考えることになる」
月明かりの下、武者たちは黙っていた。
鳴海の村を脅すだけでは、山口家を動かせなかった。
その事実が、三河側にも重くのしかかっていた。
◇
翌朝、龍之介は那古野の練兵場に立っていた。
源太と孫七が兵を整えている。
留吉も、ようやく腕の傷が癒え始め、軽い仕事ならできるようになっていた。
まだ槍を振るわせるつもりはない。
だが、笛を持って合図を伝える役なら、少しずつ戻せるかもしれない。
龍之介は二十人を見渡した。
最初に預かった時とは、顔つきが違う。
戦の経験を積み、自分の役を理解し始めている。
源太は仲間を見ながら槍を構えるようになった。
孫七は射手だけでなく、兵の動きも見ている。
留吉は、自分が戦えない間も隊の役に立とうとしていた。
龍之介は、全員へ声を掛けた。
「昨日はよく働いてくれた。村の者を守り、九郎二郎殿も無事だった。だが、敵はまた来るかもしれない」
兵たちの顔が引き締まる。
「今日から、見回りの場所を少し変える。鳴海と那古野の連絡路だけでなく、村へ回り込める道も確かめよう。敵を探して戦うためではない。村人が安心して田畑へ戻れるようにするためだ」
源太が深く頷いた。
「承知しました」
孫七も弓を握り直した。
龍之介は、東の空を見た。
今川方からの誘いは、山口家を動かせなかった。
武装した者たちによる襲撃も、目的を果たせなかった。
だが、それで今川が諦めるとは思えない。
むしろ、こちらの力を知ったことで、次はもっと大きな手を用意してくるかもしれなかった。
信長も、信秀も、そのことを理解しているだろう。
龍之介は、預かった二十人へ目を戻した。
まだ小さな隊だ。
しかし、この二十人は、鳴海と那古野を結ぶ道を守り始めている。
そして、その道が残っている限り、鳴海は孤立しない。
龍之介は槍を手に取った。
「では、出るぞ。今日も全員で帰ってこよう」
兵たちは揃って返事をした。
那古野の門が開く。
東へ続く道には、朝の光が差し込んでいた。




