第89話 鳴海を売る一筆
今川から届いた文には、鳴海城を明け渡せとは書かれていなかった。
山口左馬助教継は、それがかえって恐ろしかった。
鳴海の城も、山口家の所領も、そのまま認めるという。
家臣を召し放つ必要もなければ、城へ今川の兵を入れるとも書かれていない。
ただし、三つの条件があった。
鳴海から三河へ通じる道で、今川方の使者と荷を妨げぬこと。
織田方の軍勢が鳴海へ入ろうとした場合、今川方へ知らせること。
そして、今川との話し合いについて、当面は末森の信秀へ知らせぬこと。
教継は文を読み終えると、静かに畳の上へ置いた。
「九郎二郎。お前にも読んでもらいたい」
傍らに控えていた息子の山口九郎二郎教吉が、文を受け取った。
鳴海城の広間には、夕暮れの光が差し込んでいる。
庭では兵たちが見回りの交替を進めていたが、父子のいる座敷だけは妙に静かだった。
教吉は最後まで読み、眉を寄せた。
「父上。城を明け渡せとは書いておりませぬが、これは鳴海を今川のために使わせよという話にございますな」
「そういうことだ」
教継は頷いた。
「鳴海に織田の援兵を入れず、今川の者は通す。そうなれば、城に掲げる旗が織田のままでも、城の働きは今川のものになる」
教吉は、文を父へ返した。
「しかも、大殿へ知らせるなとあります。これに従えば、今川へ降ったと見られても申し開きができませぬ」
「そのうえ、返書を三日以内に寄越せという」
教継は苦笑した。
「ずいぶん親切な文だ。こちらが何も失わずに済むように見せながら、断りにくい条件ばかり並べてある」
城を守る者として、今川との戦を避けたい気持ちがないわけではなかった。
鳴海は尾張の東に位置する。
今川方の兵が三河から押し寄せれば、最初に脅かされる城の一つだ。
援軍が間に合わなければ、城兵だけで敵を受け止めねばならない。
家臣にも家族がいる。
城下には田畑を耕す者がおり、戦が始まれば真っ先に暮らしを失う。
今川が鳴海を攻めぬという約束は、軽いものではなかった。
だが、その約束と引き換えに織田からの援軍を断てば、いずれ今川の命令を拒むこともできなくなるだろう。
「父上。使者は、まだ城に留めております」
教吉が言った。
「今川の名を使っておりますが、届けた文には義元殿ご自身の花押がありません。使者へ誰の命を受けたか、改めて確かめるべきと存じます」
「その通りだ。義元殿の意向だと言いながら、責任を負う者の名を曖昧にしている」
教継は立ち上がった。
「使者を呼べ。こちらが急いで返事をすると思わせる必要はない」
◇
今川方の使者は、玄俊と名乗る僧だった。
年は五十前後。
灰色の僧衣をまとい、言葉遣いは穏やかである。
ただし、教継が座敷へ入った時、その目は父子の表情を素早く確かめていた。
「左馬助殿。今川家よりの文、ご覧いただけましたでしょうか」
「拝見した。鳴海の城と領地をそのまま認めるとのお申し出、ありがたく存じる」
教継は礼を失わずに答えた。
「ただ、確かめておきたいことがある。この文は今川義元殿ご自身のお考えか。それとも、三河筋を預かる方々の意向なのか」
玄俊は、わずかに目を細めた。
「今川家の御意向とお考えいただいて差し支えございませぬ」
「それでは返事に困る」
教継は静かに言った。
「義元殿との正式な取り決めなら、私も相応の筋を通さねばならぬ。ところが、家中のどなたかが鳴海を案じてくださっただけなら、話は変わる」
「鳴海を戦から遠ざけたいというお心に、偽りはございませぬ」
「ならば、なぜ大殿へ知らせるなとある」
玄俊は、すぐには答えなかった。
教継は続けた。
「私は信秀様から鳴海を預かっている。城の守り方について考えるのは私の務めだが、織田からの援兵を断つ約束まで勝手に結ぶわけにはいかぬ」
「左馬助殿は、今川と争うことをお望みなのでしょうか」
「望んではおらぬ。私が望んでいるのは、鳴海の城下を戦場にせぬことだ」
教継は玄俊を正面から見た。
「そのために話し合うのであれば、私も耳を貸す。しかし、織田への知らせを止めよという条件は受けられぬ」
玄俊の表情が少し硬くなった。
「末森へ知らせれば、信秀殿は兵を動かされるやもしれませぬ。そうなれば、せっかくの話し合いも壊れましょう」
「信秀様が兵を動かされるかどうかは、文を見てお考えになることだ」
教継は言った。
「私が黙っている理由にはならぬ」
玄俊は、少し考えるように目を伏せた。
それから、懐から別の紙を取り出した。
「実は、九郎二郎殿にもお渡ししたい文がございます」
教吉が顔を上げた。
「私にも、でございますか」
「はい。左馬助殿が鳴海の守りを案じておられるなら、御子息のお立場も大切でございましょう。今川家は山口家の行く末まで考えております」
玄俊は文を差し出した。
そこには、教吉の名が記されていた。
父がどのような判断を下そうとも、九郎二郎の所領と家臣は守る。
そういう内容だった。
教継は黙っていた。
教吉は文を読み終えると、玄俊へ返した。
「今川方のお心遣いは承りました。しかし、父の判断を待たず私だけに約束をいただいても、家中を混乱させることになります」
玄俊は穏やかに笑った。
「父君と異なる考えをお持ちでも、咎められることはないと申し上げているのです」
「私が父と異なる考えを持つことはあります」
教吉は落ち着いて答えた。
「ですが、今川の使者から別々に文を受け取り、互いに隠して返事をするつもりはございませぬ」
教継は、息子の横顔を見た。
頼もしくなったものだ。
その感慨を表へ出さず、玄俊へ向き直る。
「お申し出は受け取った。三日以内に返書を届けよう。ただし、大殿へ知らせぬという約束はできぬ」
玄俊は、しばらく教継を見つめていた。
やがて、静かに頭を下げた。
「左馬助殿のお考え、承りました」
教継も礼を返した。
使者は客として遇する。
今川から来たというだけで捕らえるつもりはない。
しかし、織田へ黙って通じることもしない。
教継は、その線だけは譲らなかった。
◇
翌朝、那古野へ鳴海からの使いが到着した。
小坂主馬だった。
先日、龍之介とともに林の待ち伏せを破り、捕らえられていた鳴海の使者二人を救い出した武者である。
主馬は信長の前へ通されると、教継から預かった文を差し出した。
「左馬助様より、今川方の文についてお知らせにございます」
信長は文を開き、最後まで読んだ。
その顔から笑みが消える。
「龍之介。こちらへ来てくれ」
龍之介が近づくと、信長は文を渡した。
そこには今川方から示された条件と、教継父子の対応が詳しく記されていた。
鳴海の所領安堵。
今川方の使者と荷の通行。
織田の援兵を入れる場合の事前通告。
そして信秀へ知らせぬこと。
龍之介は、一度読んでから顔を上げた。
「若様。これは鳴海を攻めずに、鳴海を織田から切り離すための文にございます」
「わしもそう読んだ」
信長は頷いた。
「城をよこせと言えば左馬助は拒む。だが、城を守ってやると言われれば、少しは考えたくなるだろうな」
「左馬助殿が迷われるのは当然でしょう」
龍之介は、文を置いた。
「鳴海は東の境です。今川が攻めぬと約束するなら、城兵だけでなく城下の民も守れます。ただ、その約束と引き換えに織田の援兵を断てば、次に今川が別の条件を出してきた時、拒む力がなくなります」
信長は主馬を見た。
「左馬助は、どうしておる」
「今川方の使者には、正式な返事を三日以内に届けると申しております。ただし、信秀様へ知らせぬという条件は受けぬと」
信長は、少しだけ笑った。
「左馬助らしいな」
主馬は続けた。
「九郎二郎様にも、今川方から別の文が渡されました。しかし九郎二郎様は、父君と別々に返事をするつもりはないと、使者の前で明言されました」
龍之介は深く頷いた。
教継だけではない。
息子の教吉まで別の条件で誘われている。
今川は山口家をまとめて取り込むつもりなのだろう。
場合によっては、父子の判断を分けることまで考えている。
「主馬殿。今川の使者が鳴海へ来るまで、道中で襲われたという話はありましたか」
龍之介が問うと、主馬は首を横に振った。
「ございません。三河から来た使者は、途中で何度か人を替えながら、滞りなく鳴海へ入っております」
「一方、鳴海から那古野へ向かった使者は、先日二人も捕らえられました」
「はい」
主馬の顔が険しくなった。
龍之介は信長へ向き直った。
「若様。敵が狙っているのは、鳴海城だけではありません。誰の文が先に届くか、その順番まで押さえようとしているように見えます」
信長は目を細めた。
「今川の文は鳴海へ届く。だが、鳴海からわしや父上への文は、途中で止められる」
「その通りです。左馬助殿が今川の文を受け取った後、相談する相手がいなければ、ご自身と城兵だけで判断するしかありません」
龍之介は続けた。
「その状態で三日以内に返事を求められれば、たとえ降るつもりがなくとも、条件の一部を受け入れたくなるでしょう」
信長は、文を畳んだ。
「ならば、返事を急がせる必要はない。こちらから先に、左馬助へ返そう」
龍之介は頷いた。
信長は平手を呼ばせた。
「爺。父上へ、この文を届けたい。今川の条件を隠さず送る」
平手は文を受け取り、目を通した。
そして深く頷く。
「大殿も、ご覧になるべきことでございます。左馬助殿が自らお知らせくださったことも、忘れずに添えましょう」
「頼む」
信長は主馬へ向いた。
「左馬助へ伝えてくれ。今川の文を隠さず送ったこと、わしはありがたく思っている。鳴海の城は左馬助が預かる城だ。わしが勝手に兵を入れることはせぬ」
主馬は、ほっとしたように頭を下げた。
「そのお言葉、必ずお伝えいたします」
「ただし、敵が来た時には話が別だ。鳴海が助けを求めるなら、わしもできる限り兵を動かす。そのために今、道を守らせている」
信長は龍之介を見た。
「お前の二十人にも、もう一つ役を与える」
「承知しました」
「鳴海と那古野の使いが、途中で消えぬようにしろ」
◇
龍之介は、その日のうちに源太と孫七を呼んだ。
二十人のうち、留吉はまだ腕の傷を治している。
実際に動ける十九人を、二つの組に分けていた。
源太には九人。
孫七には十人。
どちらも、先日の見回りで実戦を経験している。
龍之介は地面へ簡単な道筋を描いた。
「これからは、敵を探して歩くだけではない。鳴海から来る使いと、那古野から向かう使いを途中で受け渡す」
源太が頷く。
「鳴海の兵と、決まった場所で会うのでございますな」
「ああ。だが、一箇所だけに決めると敵もそこを狙いやすい。普段の受け渡し場所を定めたうえで、道が危ない時の別の場所も用意しておく」
孫七が言った。
「使いが来ない時は、こちらから確かめに出るべきでしょう。待ち続ければ、その間に敵が動く恐れがあります」
「その通りだ」
龍之介は頷いた。
「朝に来るはずの使いが来なければ、昼まで待たずに様子を見に出る。ただし、全員で追いかけるな。片方の組は必ず道を守れ」
源太は少し考えた。
「道を守る兵と、知らせを確かめる兵を分けるわけですな」
「そうだ。使いが一人捕らえられたからといって、残る者まで全員敵の林へ入ってはならない」
龍之介は孫七へ向いた。
「鳴海側の小坂主馬殿とも話しておきたい。どこまでが那古野の見回りで、どこから鳴海の見回りになるか、互いに分かるようにする」
孫七は頭を下げた。
「承知しました」
源太は、少しだけ笑った。
「龍之介様。兵を二十人預かられたばかりだというのに、もう鳴海の道まで守ることになるとは思いませなんだ」
「俺も、最初はそう思っていなかった」
龍之介は笑った。
「だが、那古野だけを守っていても、鳴海から知らせが届かなければ敵の動きが分からない。道は繋がっているからな」
源太も頷いた。
龍之介は、二人の顔を見た。
最初に十人を預かった時は、まともに槍を揃えることさえ難しかった。
それが今では、源太が前を押さえ、孫七が後ろを見る。
留吉は傷を負って休んでいるが、笛による合図も残った。
その働きを、二十人へ広げ始めている。
まだ小さな隊だった。
だが、確かに成長していた。
◇
夕刻、末森から信秀の返書が届いた。
信長はすぐに開き、龍之介と平手にも見せた。
文は短かった。
山口左馬助が今川からの話を隠さず知らせたこと、よし。
鳴海城の守りは、これまで通り山口父子に任せる。
今川の使者を害するな。
ただし、織田からの援兵を断つ約束は認めぬ。
今川方が真に争いを避けたいのであれば、鳴海一城の城主へ秘密の約束を求めるのではなく、織田家へ正式に申し入れるべし。
信長は読み終えると、満足そうに頷いた。
「父上は、さすがだな」
平手も微笑んだ。
「鳴海の立場を守りながら、今川の条件を受けぬと明らかにしておられます」
龍之介は、文を見つめた。
信秀は、山口を疑っていない。
少なくとも、今川の文を受け取っただけで裏切り者とは見ていない。
それは、山口にとって何より重いことだろう。
もし信秀が怒り、鳴海へ兵を入れようとすれば、山口は今川と織田の間で身動きが取れなくなる。
逆に、今川との話を山口任せにすれば、孤立した城主が一人で判断せねばならない。
信秀は、そのどちらも選ばなかった。
龍之介は頭を下げた。
「この文は、早く左馬助殿へ届けるべきと存じます」
「そうだな」
信長は頷いた。
「龍之介。明日の朝、お前が直接届けてくれ。二十人を全部連れていく必要はない。主馬と合流し、鳴海へ向かえ」
「承知しました」
「それから、左馬助に伝えてほしいことがある」
信長は少し考え、続けた。
「わしは鳴海の城を奪いたいのではない。今川が攻めてくるなら、共に戦いたい。それだけだとな」
龍之介は深く頷いた。
「必ず、お伝えします」
◇
翌朝、龍之介は源太の組を連れ、鳴海へ向かった。
孫七の組は、那古野側の見回りに残している。
途中で小坂主馬と合流し、鳴海城へ入った。
山口教継は、龍之介が信秀の返書を持ってきたと聞くと、すぐに迎えた。
広間には教吉もいる。
龍之介は文を差し出し、二人が読み終えるのを待った。
教継は最後まで読むと、しばらく黙っていた。
それから深く息を吐いた。
「大殿は、鳴海をこれまで通り私に任せると……」
「はい」
「今川の文を受け取ったことを、責めてはおられぬのだな」
「そのように伺っております」
教継は、文を息子へ渡した。
教吉も読み、深く頷いた。
「父上。これで、今川へも筋を通して返事ができます」
「ああ」
教継は龍之介へ向き直った。
「山本殿。三郎様には、礼を申し上げていただきたい」
「承知しました」
「それから、大殿にも。私は鳴海の城を預かった者として、織田の援兵を拒む約束は結ばぬ。今川の使者を害することもせぬ。戦を避ける話があるなら、正式な筋で進めていただくよう申し伝える」
龍之介は頭を下げた。
「それがよろしいと存じます」
教継は、少しだけ苦笑した。
「今川は、次にもっと厳しい条件を出してくるやもしれぬな」
「その可能性はございます」
「だが、今日の返事だけは迷わずに済む」
教継は立ち上がり、庭へ目を向けた。
「鳴海の兵も、城下の民も、私が守らねばならぬ。だからこそ、目先の約束だけで城を明け渡すような真似はできぬ」
龍之介は、その横顔を見た。
この男は、史実では信長から離れていく。
だが、今は違う。
信秀は健在であり、山口を信じている。
信長も、山口の立場を認めている。
そして山口自身も、今川の誘いを隠さず知らせた。
歴史は、まだ決まっていない。
◇
昼過ぎ、今川方の使者玄俊が再び広間へ通された。
山口教継は、息子の教吉を傍らに置き、返書を差し出した。
「今川方のお申し出について、返事を用意した」
玄俊は丁寧に受け取った。
文面を読むうち、その表情がわずかに硬くなる。
「左馬助殿。これは、今川との話し合いをお断りになるということでしょうか」
「話し合いを断るつもりはない」
教継は落ち着いて答えた。
「ただし、織田へ知らせずに援兵を断つ約束はできぬ。鳴海の城を守るための話なら、織田家へ正式に申し入れていただきたい」
「それでは、話が大きくなりすぎます」
「城一つの扱いを変えるのだ。もともと小さな話ではない」
玄俊は黙った。
教継は続けた。
「鳴海へ今川の使者が来たことは、大殿へ知らせた。大殿からも返書をいただいている」
その言葉に、玄俊の目が動いた。
「信秀殿から、すでにお返事が」
「ああ。鳴海の守りは、これまで通り私に任せると仰せだ」
教継は、玄俊を見た。
「今川方が本当に争いを避けたいのであれば、私はその話を聞こう。ただし、私を織田から切り離すための文には応じぬ」
玄俊は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げる。
「左馬助殿のお考え、今川方へ伝えます」
「頼む」
使者が退出した後、教吉が父へ向き直った。
「父上。これで今川が諦めるとは思えませぬ」
「私もそう思う」
教継は頷いた。
「だが、少なくともこちらの考えは示した。次に何を言ってくるかは、向こう次第だ」
龍之介は、そのやり取りを聞いていた。
今川は、鳴海を攻めずに従わせようとした。
山口は、それを拒んだ。
しかし、今川との戦を避けたいという気持ちまで捨てたわけではない。
その慎重さは、城主として当然のものだった。
◇
鳴海から那古野へ戻る道で、龍之介は源太たちの足取りを見ていた。
道の途中には、孫七の組が交替で見回る場所もある。
これで、鳴海から那古野へ文を運ぶ道が少しずつ整ってきた。
今川の使者だけが鳴海へ入り、織田の使いは途中で捕らえられる。
そんな状態を、放置するわけにはいかない。
源太が馬を寄せてきた。
「龍之介様。左馬助殿は、今川へ降らずに済みましたな」
「今日のところはな」
龍之介は答えた。
「ただ、今川がこれで諦めるとは限らない。次はもっと強い条件を出すかもしれないし、実際に兵を動かしてくるかもしれない」
源太は頷いた。
「ならば、私どもも備えねばなりませぬ」
「ああ。鳴海の城へ大軍が押し寄せた時、二十人だけで止められるとは思わない。だが、敵が動いたことを那古野へ知らせ、援軍が通る道を守ることならできる」
源太は、少しだけ笑った。
「我らにも、役があるということですな」
「そうだ」
龍之介は前方へ目を向けた。
道は穏やかだった。
田畑では農夫が働き、遠くには小さな村が見える。
この景色を守るために、山口教継は今川の文を受け取った。
そして信秀は、山口の立場を認めながら、織田との繋がりを残した。
信長は、その間を結ぶ役を引き受けた。
それぞれが自分の立場で判断した結果、鳴海は今川へ渡らずに済んだ。
龍之介は、馬の手綱を握り直した。
呂布の武なら、押し寄せる敵を倒すことはできる。
郭嘉の知なら、敵がどの道を使うかを読むこともできる。
だが、戦わずに城を守るには、相手の立場を認め、信じられる約束を積み重ねる必要がある。
今日の山口教継は、その約束を選んだ。
史実では信長から離れる男が、今は信長と同じ側に立っている。
それがどれほど大きな変化なのか、龍之介にはよく分かっていた。
ただし、これで安心できるわけではない。
今川義元は、まだ何も失っていない。
鳴海が文で動かぬと分かれば、次は別の手を使うだろう。
龍之介は、東の空を見た。
今川の使者は、すでに三河へ向かっている。
鳴海からの返書を受け取った者が、次に何を命じるのか。
その答えは、遠からず尾張へ届くはずだった。




