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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第88話 鳴海の主

 鳴海城主、山口左馬助教継が那古野へ到着した時、供の武者はわずか四人だった。


 城を預かる武将が、これほど少ない供で織田信長のもとを訪れるのは珍しい。


 しかも、山口は城門をくぐるなり、迎えに出た池田勝三郎へ言った。


「三郎様には、すぐにお目にかかりたい。今川の物見を二度も退けた武者がいるそうだが、その者にも同席してもらえるとありがたい」


 その武者とは、山本龍之介のことだった。


 山口左馬助教継。


 鳴海城を預かり、尾張の東から迫る今川勢力に備えてきた武将である。


 信秀からの信頼も厚く、三河との戦では幾度も働きを見せている。


 龍之介は、その名を聞いた瞬間、前世の記憶が刺激されるのを感じた。


 山口教継といえば、史実では信秀の死後、信長から離れて今川義元へ通じる人物だったはずだ。


 だが、今は違う。


 信秀は健在であり、山口は織田方の城主として鳴海を守っている。


 しかも、自ら信長に会いに来た。


 史実を知っているからこそ、目の前の人物を先入観だけで判断してはならない。


 龍之介はそう考えながら、信長のいる広間へ向かった。


     ◇


「左馬助。わざわざ鳴海から来るとは、よほど急ぎの話らしいな」


 信長は、山口を庭に面した座敷へ迎えた。


 山口は長旅の疲れを見せず、丁寧に頭を下げた。


「三郎様。東の守りについて、ぜひともお伝えしたきことがございます」


 言葉遣いは礼を失っていない。


 ただし、必要以上にへりくだる様子もなかった。


 信秀から城を任された古参の武将として、若い信長にも言うべきことは言う。その気概が態度に表れている。


 同席したのは龍之介、平手、新五、勝三郎、そして前田又左衛門だった。


 山口は懐から二つの竹片を取り出した。


「こちらは鳴海の東で捕らえた物見が持っていたもの。そしてもう一つは、三郎様からお知らせいただいた沢の記録を写したものにございます」


 二つが並べられた。


 龍之介は身を乗り出した。


 刻まれている文字の癖こそ違うが、内容はよく似ている。


 沢の深さ。


 馬が通れる場所。


 荷車が詰まる坂。


 見張りの数。


 そして、鳴海から那古野へ続く道。


「同じ者が命じたとお考えですか」


 龍之介が尋ねると、山口は頷いた。


「その疑いが濃い。ただ、それだけなら使いを送れば済みます。私が参ったのは、敵の狙いが単なる道調べではないと考えたからです」


 山口は、もう一枚の紙を広げた。


 鳴海城の周辺を簡単に描いた絵図だった。


 城の東には今川方へ通じる道があり、西には那古野へ向かう道が延びている。南側には海へ通じる土地が広がり、北へ向かえば丘や村々の間を抜ける細道がある。


 山口は、そのうち西へ延びる道を指した。


「鳴海の城から那古野へ知らせを出すなら、この筋を通ります。大殿のおられる末森へ知らせる場合も、北西へ抜ける道を使うことが多い」


 龍之介は絵図を見つめた。


「敵は、その連絡路まで調べているのですね」


「ええ。城を攻めるための道だけではありません。こちらが助けを求める時、どこを通るかを見ているようなのです」


 信長の目が鋭くなった。


「鳴海を孤立させるつもりか」


「私は、そのように考えております」


 山口は続けた。


「城の正面へ兵を寄せれば、鳴海も備えます。ですが、那古野へ通じる道を押さえられれば、城が無事でも援軍の知らせが遅れる。敵が何をしているか分からぬまま、鳴海だけで判断せねばならなくなります」


 龍之介は深く頷いた。


 筋が通っている。


 笠寺筋で捕らえた男たちも、城を攻めるほどの兵数ではなかった。


 二度とも十人前後の小勢だったが、道の深さや幅だけでなく、見張りの少ない場所まで調べていた。


 敵は大軍を通す道を探しているのかもしれない。


 同時に、織田方がどの道を使って兵を動かすかも知ろうとしている。


 戦が始まった時、相手の援軍がどこから現れるかを知っておけば、それだけで戦の仕方は変わる。


「左馬助殿。鳴海から那古野へ送った使いが、実際に襲われたことはありますか」


 龍之介が問うと、山口の顔が険しくなった。


「昨日、見張りを交替させるために出した二人が戻りませぬ。今朝になって馬だけが見つかりました」


 広間の空気が変わった。


「馬に傷は」


「ございません。ただ、手綱を切られた跡がありました。二人が逃がしたのか、何者かが馬だけ放したのかは分かりませぬ」


 山口は苦い顔で続けた。


「だからこそ、私自身が参りました。使いを重ねれば、また捕らえられる恐れがあります」


 信長は腕を組んだ。


「鳴海の城兵は、どれほど動かせる」


「城を空けるわけにはまいりませぬので、大きくは動かせません。息子の九郎二郎にも守りを任せておりますが、東の見張りを薄くするのは避けたいところにございます」


 九郎二郎。


 山口教継の子、教吉である。


 鳴海を預かる父のもとで、すでに兵を扱う立場にあるのだろう。


 信長は山口を見た。


「左馬助。わしに兵を出してほしいという話だな」


「その通りにございます」


 山口は隠さなかった。


「ただし、三郎様の兵を鳴海の城へ入れていただきたいわけではありません。那古野から鳴海へ通じる道を、双方で守りたいのです」


 龍之介は、その言葉に山口の慎重さを感じた。


 援軍は欲しい。


 だが、他家の兵を城内へ入れることには警戒がある。


 山口が信秀から預かった鳴海城には、山口自身の立場もある。信長の兵が大勢入れば、城の守りを任されている者としての面目に関わるだろう。


 それを無視して兵を押し込めば、山口と信長の間に余計な亀裂が生まれる。


 信長も、そこは理解していたらしい。


「よかろう。鳴海の城はお前が守れ。わしの兵は、那古野から鳴海へ通じる道を見よう」


 山口が顔を上げた。


「ありがたきお言葉にございます」


「ただし、二つの軍が別々に動いていては、敵に間を抜かれる。そこをどうするかは決めねばならんな」


 信長は龍之介へ向き直った。


「お前に任せる。左馬助と相談して、道を繋いでくれ」


「承知しました」


 龍之介は深く頭を下げた。


 すると山口が、少し意外そうな顔をした。


「三郎様。山本殿が兵を預かっているとは聞いておりますが、まだ二十人ほどではございませぬか」


「ああ」


 信長は笑った。


「二十人だ。だが、腕は確かだぞ」


「腕のことは、すでに聞き及んでおります。しかし、道を守るとなれば、武勇だけでは足りますまい」


「その通りだ」


 信長はあっさり認めた。


「だからこそ、お前の目でも確かめてもらいたい」


 山口は龍之介を見た。


 その目には、試すような光があった。


「山本殿。鳴海の兵と那古野の兵は、長く同じ組で働いてきたわけではありません。双方が勝手に動かず、道を守れると思われますか」


 龍之介は少し考えた。


「最初から大きな働きを求めるべきではないでしょう。互いに使いを通し、敵を見つけた場所と人数を知らせ合う。まずは、その仕組みを作るのがよいと考えます」


「なるほど」


 山口が頷く。


「では、敵が襲ってきた場合には、どちらが指図をするおつもりですか」


「那古野側の兵には私が命じます。鳴海側は左馬助殿のご指示に従っていただきたい。両方の兵を無理に一つの組へ入れるより、持ち場を分けた方が間違いは少ないでしょう」


 山口は、しばらく龍之介を見ていた。


 やがて、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「三郎様。面白い男をお抱えになりましたな」


 信長は得意げに笑った。


「そうだろう。わしも拾い物をしたと思っておる」


「ただ、武勇のほどはまだ自分の目で見ておりませぬ」


「ならば、今日のうちに見ることになるかもしれんな」


 信長の言葉に、山口が眉を上げた。


 龍之介も顔を向ける。


 信長は庭の外を見た。


「左馬助の使いが戻らぬなら、敵はまだ道の近くにいるやもしれぬ。こちらで手を打つなら、早い方がよい」


     ◇


 龍之介が預かった二十人の兵は、すでに那古野の練兵場へ集められていた。


 最初に預かった十人に加え、新しく十人が加わっている。


 ただし、留吉は先日の矢傷が治りきっていない。


 兵の数としては二十人だが、実際に見回りへ出せるのは十九人である。


 龍之介は、その十九人を二組に分けた。


 源太の組は九人。


 孫七の組は十人。


 それぞれに経験のある足軽をつけ、新しく加わった者が勝手に前へ出ないようにする。


 彦右衛門は全体の補佐として同行することになった。


 山口からも、道を知る武者が六人つけられた。


 その中に、年若い男が一人いた。


 山口の家臣で、名を小坂主馬という。


 主馬は龍之介の顔を見るなり、真面目な口調で言った。


「左馬助様より、この道の案内を命じられました。鳴海へ通じる細道と、沢の位置は把握しております」


「頼りにしています。こちらの兵は土地に不案内ですので、危ない場所があれば遠慮なく教えてください」


 主馬は頷いた。


「承知しました。ただ、敵が現れれば私どもも戦います。案内だけをして下がるつもりはございません」


「それは心強い。ですが、鳴海の兵を勝手に使うつもりはありません。戦う必要が生じたら、まず主馬殿へお知らせします」


 主馬の表情が少し和らいだ。


 龍之介は、その変化を見ていた。


 相手の兵を預かったからといって、最初から自分の部下のように扱えば反発が出る。


 まして山口の家臣は、長年鳴海を守ってきた者たちだ。


 若い流れ者に指図されることを、快く思わない者がいても不思議ではない。


 龍之介は皆を集め、道の見取りを示した。


「今日は敵を探して討つことが目的ではない。鳴海と那古野の間で、使いが安全に通れるかを確かめる。敵に出会っても、無理に追うな」


 源太が頷く。


 孫七も弓を確かめた。


「ただし、捕らえられた者がいるなら助ける。敵がこちらへ向かってくるなら、迎え撃つ。そこは迷う必要がない」


 兵たちの顔が引き締まった。


 龍之介は、最後に一つだけ付け加えた。


「鳴海の兵と那古野の兵で、手柄を取り合うな。どちらかが危うくなれば、助けられる方が助ける。それだけは守ってほしい」


 小坂主馬が深く頷いた。


「心得ました」


 龍之介は、馬の手綱を取った。


 東の空には薄い雲が広がっていたが、雨の気配はない。


 道を歩くには、悪くない日だった。


     ◇


 異変を見つけたのは、小坂主馬だった。


 鳴海へ続く細道の途中、古い榎の下に差しかかった時である。


 主馬は急に足を止め、道端の草を見た。


「山本殿。この辺りは、昨日までは草が倒れておりませなんだ」


 龍之介は馬を降りた。


 道の片側に、背の低い草が広がっている。


 その一部が踏み倒され、土が新しく露出していた。


 人が通った跡だ。


 しかし、足跡は道へ続いていない。


 林の奥へ向かっている。


「人数は分かりますか」


「少なくとも五、六人は通っております。ここをよく使う猟師なら、もう少し草を避けるはずです」


 龍之介は頷いた。


 主馬は土地をよく見ている。


 龍之介自身も周囲へ目を走らせた。


 林の奥から鳥が飛び立った。


 一羽ではない。


 数羽が続けて飛ぶ。


 何かが動いている。


 龍之介は源太へ合図を送った。


「九人を連れて、道の手前で待て。孫七は林の縁を見てくれ。弓を持つ者がいれば、先に知らせろ」


 源太たちが足を止める。


 孫七の組も、林の外側へ広がった。


 龍之介は彦右衛門と主馬を伴い、林の入口へ近づいた。


 そこには、細い縄が一本張られていた。


 地面からわずかに浮いている。


 よく見なければ気づかない。


 龍之介は足を止めた。


「主馬殿。この縄は、鳴海の見張りが使うものですか」


 主馬は首を横に振った。


「このようなものは使いませぬ。足を取るために張ったのでしょう」


 龍之介は、縄の先を見た。


 木の根元へ結びつけられている。


 片方は落ち葉に隠されていた。


 林へ踏み込めば、足を引っかけられる。


 転んだところを襲うつもりか。


 龍之介は槍を持ち替えた。


 その時、林の奥から男の声が聞こえた。


「まだ来ぬのか」


「馬の足音はした。もうすぐだ」


 龍之介は目を細めた。


 待ち伏せだ。


 しかも、こちらが通ると知っていたような口ぶりだった。


 偶然ではない。


 鳴海と那古野を結ぶ道へ、何者かが先回りしている。


 龍之介は彦右衛門へ小声で言った。


「源太へ伝えてくれ。道の上に姿を残したまま動くな、と」


「承知」


「主馬殿は、鳴海の兵を林の外側へ回してください。こちらが動いた時、逃げる者がいれば道へ出さぬように」


 主馬は頷き、静かに後ろへ下がった。


 龍之介は、縄の先を槍で持ち上げた。


 そして、わざと少し大きな音を立てて切った。


 ぱん、と乾いた音が響く。


 林の奥で男たちが動く気配がした。


「気づかれたぞ!」


 誰かが叫んだ。


 龍之介は、その声を聞くより早く踏み込んでいた。


     ◇


 最初の男が刀を抜きかけた時、龍之介の槍がその手首を打った。


 刀が地面へ落ちる。


 続いて横から槍を突き出した男の穂先を払い、柄を握る手へ石突きを叩き込む。


 相手が槍を離した瞬間、龍之介はさらに一歩前へ出た。


 林の中は狭い。


 長槍を振り回すには向かない。


 だが、龍之介にとっては、敵が横へ広がれない分だけ動きやすかった。


 二人を倒したところで、奥から矢が飛んだ。


 龍之介は身体をひねり、木の陰へ入る。


 矢が幹へ突き立った。


 その射手を、林の外側から孫七が捉えた。


「射手を見つけました!」


 孫七の声と同時に矢が放たれる。


 敵の射手は肩を押さえて倒れた。


 龍之介はその隙に踏み込み、残る男たちへ迫った。


 男は全部で七人だった。


 うち二人がすでに倒れ、射手も動けない。


 残る四人は、互いに顔を見合わせていた。


 そのうち一人が叫ぶ。


「引け! ここで死ぬことはない!」


 男たちは林の奥へ逃げようとした。


 だが、出口には小坂主馬と鳴海の兵が待っていた。


「止まれ!」


 主馬が声を張る。


 先頭の男は、主馬の槍を見て足を止めた。


 後ろへ逃げようとした男も、龍之介の姿を見て動けなくなった。


 戦いは、そこで終わった。


 龍之介は、深く息を吐いた。


 敵は七人。


 こちらの兵に傷を負った者はいない。


 ただ、妙なことがあった。


 この七人は、荷を奪う様子でもなければ、道を調べる様子でもなかった。


 最初から誰かを待ち伏せしていた。


「主馬殿。この者たちが待っていたのは、鳴海からの使いではありませんか」


 龍之介が言うと、主馬は顔を曇らせた。


「昨日戻らなかった二人も、ここを通ったはずです」


 龍之介は捕らえた男たちを見た。


「二人の使いを捕らえた者が、この中にいるかもしれません。確かめましょう」


 男たちは、互いに顔を見合わせた。


 龍之介はその反応を見て、さらに警戒を強めた。


 知らないという顔ではない。


 何かを隠している。


     ◇


 使いの二人が見つかったのは、林の奥にある小さな窪地だった。


 両手を縛られ、木の根元に座らされている。


 一人は額に傷を負い、もう一人は右足を痛めていた。


 だが、二人とも生きていた。


「主馬殿!」


 縛られていた男が顔を上げる。


 主馬はすぐに駆け寄った。


「無事だったか!」


「申し訳ございませぬ。途中で賊に襲われ、馬を逃がすのが精一杯でございました」


 主馬は二人の縄を解き、傷の具合を確かめた。


 龍之介も近づいた。


「鳴海からの使いですね。左馬助殿が心配しておられました」


 二人は深く頭を下げた。


「助けていただき、ありがとうございます」


 龍之介は首を振った。


「礼は後で構いません。まず、お二人を捕らえた者が何を聞こうとしたか、教えてください」


 男の一人が顔を上げた。


「鳴海城へ兵が何人いるか。それから、那古野の三郎様は、鳴海へ助けを出してくださるかと」


 龍之介は、目を細めた。


「ほかには」


「山口左馬助様が、今川と戦うおつもりかとも聞かれました」


 主馬の顔が険しくなる。


「そのようなことまで」


 男は続けた。


「答えなければ、二度と鳴海へ帰れぬと言われました」


 龍之介は、しばらく黙った。


 敵が知りたいのは、道だけではない。


 鳴海の兵数。


 那古野から援軍が来るかどうか。


 そして、山口教継が今川と戦う意思を持っているか。


 そこまで調べている。


 単なる物見とは言い切れなくなってきた。


「主馬殿。この二人を鳴海へ送り届けてください。捕らえた者たちは那古野で預かり、左馬助殿にも調べへ立ち会っていただくようお願いします」


 主馬は深く頷いた。


「承知しました」


 龍之介は捕らえた男たちへ視線を向けた。


 この者たちは、今川方の者かもしれない。


 あるいは、その命令を受けた三河の者たちかもしれない。


 まだ名前は分からない。


 だが、聞いていたことから、狙いの一部は見えてきた。


 鳴海を守る山口教継。


 その山口が、どこまで織田家を頼りにできるか。


 敵は、そこを見ている。


     ◇


 山口左馬助が那古野へ戻ってきたのは、夕暮れ前だった。


 鳴海へ送られた二人の使いが助かったという知らせを受け、すぐに引き返してきたらしい。


 龍之介は信長の前で、改めて状況を報告した。


 林に七人の待ち伏せがいたこと。


 鳴海の使い二人を救い出したこと。


 敵が鳴海の兵数と、那古野からの援軍について聞いていたこと。


 そして、山口教継が今川と戦う意思を持っているかまで探っていたこと。


 山口は最後まで黙って聞いていた。


 やがて、深く息を吐く。


「助けていただいたこと、礼を申し上げます」


 龍之介は頭を下げた。


「無事にお戻しできて、何よりです」


「それだけではありません」


 山口は信長へ向き直った。


「三郎様。今日の一件で、鳴海と那古野の道が繋がることは分かりました。私どもが長く守ってきた城とはいえ、鳴海だけで今川の動きを見続けるには限りがございます」


 信長は静かに頷いた。


「左馬助。鳴海の守りが重いことは分かっている」


「はい」


「だが、わしの兵も好きに動かせるわけではない。父上の軍勢を勝手に約束することもできぬ」


「それも承知しております」


 山口は、少しだけ笑った。


「だからこそ、山本殿の二十人がありがたいのです。大軍を寄越せと言ったところで、今すぐ城へ入れていただけるわけではありません。ですが、使いが安全に通れるようになれば、鳴海にとっては大きな助けになります」


 信長は龍之介へ目を向けた。


「お前の働きが、ちゃんと伝わったようだな」


 龍之介は、少しだけ照れくさくなった。


「兵たちがよく動いてくれました。源太も孫七も、昨日より持ち場を守れるようになっております」


 山口は頷いた。


「私の兵も、小坂主馬から報告を受けております。山本殿が勝手に鳴海の兵を動かさず、こちらの役を残してくださったと」


「双方で守る道ですから」


 龍之介が答えると、山口は満足そうに笑った。


 その時、信長が言った。


「左馬助。今後、那古野から鳴海へ使いを出す時には、龍之介の兵が道の途中まで送る。鳴海からはお前の兵が迎える。場所を決めておけば、使いも迷わぬだろう」


「ありがたきお申し出にございます」


「ただし、どちらかが困れば、すぐ知らせろ。城を守ることと、知らせを通すことは別だ。両方要る」


 山口は、深く頭を下げた。


「承知しました」


 龍之介は、そのやり取りを見ていた。


 山口教継。


 史実では信長を見限り、今川へ通じる男である。


 だが、今は違う。


 信秀は健在。


 信長も、山口をただの古参家臣として扱っていない。


 鳴海の城を守る者として、その役を認めている。


 その関係が、この先どう変わるかは分からない。


 しかし、今は確かに、同じ敵を警戒し、同じ道を守ろうとしている。


 龍之介は、そこに小さな希望を感じた。


     ◇


 山口が鳴海へ戻ろうとした時だった。


 城門から、鳴海の早馬が駆け込んできた。


 馬は汗をかき、使いの男は泥だらけだった。


「左馬助様!」


 山口は、すぐに顔を上げた。


「鳴海で何かあったか。落ち着いて話せ」


 男は息を整える暇も惜しみ、頭を下げた。


「九郎二郎様より、急ぎお知らせにございます」


 山口の顔が険しくなった。


「息子が、何と申した」


「今川方より、使いが参りました」


 広間の空気が変わった。


 信長も目を細める。


 使いは続けた。


「鳴海城へ文を届け、左馬助様のお返事を待つと申しております」


 山口は、しばらく黙っていた。


 その顔には、驚きと警戒が混じっている。


「文の中身は」


「九郎二郎様は、左馬助様ご自身がお読みになるべきだと仰せでした。ただ、今川方の者は、鳴海と今川が争わずに済む道があると申しております」


 信長は、山口を見た。


 山口も信長を見る。


 互いに、すぐには言葉を出さなかった。


 今川が鳴海を攻めるのではなく、使いを寄越した。


 しかも、争わずに済む道があるという。


 それがどのような条件なのか、まだ分からない。


 ただ、今日まで道を調べていた者たちが、山口の戦う意思まで探っていたことを考えれば、偶然とは思えなかった。


 山口は、ゆっくり息を吐いた。


「三郎様。私は鳴海へ戻ります」


「そうするがよい」


 信長は答えた。


「今川の文については、お前の城へ来たものだ。まずお前が読め」


 山口は、少し意外そうな顔をした。


「三郎様は、中身を先にお知りになりたいとは思われませぬか」


「知りたいとも。だが、鳴海の城主はお前だ。お前が読んで、どう考えたかを聞きたい」


 山口は、信長をじっと見つめた。


 やがて、深く頭を下げる。


「承知しました。鳴海へ戻り、文を確かめたうえでお知らせいたします」


 信長は頷いた。


「左馬助。今川から使いが来たことを、父上にも知らせておく。返事は急ぐな」


「はい」


 山口は、もう一度深く礼をした。


 その姿を見ながら、龍之介は胸の内で考えた。


 今川が鳴海へ使いを送った。


 これは、ただの国境の小競り合いでは済まない話になる。


 史実を知る自分には、その先に何が起こり得るか分かっている。


 だが、この時代の人間にとって、まだ何も決まってはいない。


 山口が何を選ぶか。


 信長が何を示すか。


 信秀がどのように動くか。


 そして、今川がどのような条件を突きつけてくるか。


 それらによって、鳴海の未来は変わる。


 山口は立ち上がり、龍之介へ向いた。


「山本殿。今日助けていただいた二人は、私のもとで長く働いてきた者たちです。改めて礼を申し上げます」


「お気になさらず。私も兵を預かる身です。部下が無事に戻ることの重さは、少しばかり分かるようになりました」


 山口は頷いた。


「兵を率いる者として、良い言葉です」


 そのまま山口は広間を辞した。


 鳴海の使いも後に続く。


 龍之介は、遠ざかっていく足音を聞いていた。


 信長が隣へ立つ。


「龍之介。今川は、左馬助を揺らしに来たようだな」


「その可能性が高いと考えます」


「鳴海の城を攻めるより、城主を動かした方が早い。そう考える者がいても不思議ではない」


 龍之介は頷いた。


 信長は、少しだけ笑った。


「だが、わしも黙って見ているつもりはない」


 その声には、若い武将らしい強さがあった。


「左馬助には、今日の働きを見せた。鳴海と那古野の道も繋いだ。次は、今川が何を差し出してくるかを見る」


「はい」


「龍之介。お前の二十人には、引き続きあの道を守らせろ。左馬助が鳴海へ戻っている間も、使いが通れぬようなことにはするな」


「承知しました」


 信長は東の空を見た。


「今川の軍勢が来るなら、槍で迎える。だが、文が先に来るなら、まず文の中身を聞こう」


 龍之介は、その横顔を見ながら思った。


 信長は、以前よりもずっと慎重になった。


 ただし、それは弱くなったということではない。


 戦うべき場所と、まだ戦うべきではない場所を選ぶようになったのだ。


 龍之介は、深く頭を下げた。


「若様。鳴海の道は、お任せください」


 信長は頷いた。


「ああ。頼んだぞ」


 山口左馬助教継は、今川から届いた文を読むために鳴海へ戻った。


 那古野と鳴海を繋ぐ道には、龍之介の兵が残る。


 その二つの動きが、これからの尾張東部の情勢を大きく変えることになるかもしれなかった。


 龍之介は、庭を吹き抜ける風を感じながら東を見た。


 鳴海城。


 今川義元。


 そして、山口教継。


 前世で知っていた歴史は、まだ何も決まっていない。


 少なくとも、この時代では。




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