第86話 十人の初陣
十人の兵を預かった翌朝、山本龍之介は、そのうち三人に槍を捨てさせた。
「源太は槍を持て。孫七は弓だ。残る者も、それぞれ普段使っている武器を構えてくれ」
那古野の練兵場に集められた足軽たちは、互いの顔を見合わせた。
昨日まで、それぞれ別の組で働いていた男たちである。戦場へ出た経験のある者もいれば、城の警固や荷の護衛ばかりを務めてきた者もいる。
龍之介は一人ずつ名を確かめ、槍を持たせ、短い距離を走らせた。
それから、わざと意地の悪い命令を出した。
「今から俺へ向かってこい。十人まとめてでも構わない。ただし、俺の身体に一度でも触れられたら、お前たちの勝ちだ」
源太が困ったように笑った。
「龍之介様。十人掛かりでございますか」
「遠慮はいらん。俺を敵の将だと思えばよい」
源太は、以前から龍之介の近くで働いていた足軽である。
腕力はあり、槍の扱いにも慣れている。だが、突出する癖があり、敵が下がると追いかけたがるところがあった。
孫七は対照的だった。
口数は少ないが、周囲をよく見ている。弓を持たせると姿勢が落ち着き、狙いを定めるまで余計な動きをしない。
残る八人も、少しずつ得手不得手が違っていた。
龍之介は、それを知りたかった。
「では、始めよう」
源太が最初に踏み込んだ。
長槍を水平に構え、正面から突いてくる。
龍之介は穂先を横へ払った。
源太が体勢を立て直す前に、別の二人が左右から迫る。
悪くない。
少なくとも、ただ一列に並んで突っ込んでくるわけではなかった。
だが、三人目が龍之介へ近づこうとした時、源太の槍がその進路を塞いだ。
味方同士が邪魔になったのである。
龍之介は、空いた場所へ踏み込んだ。
木槍の石突きを源太の胸元へ軽く当て、その身体を押し返す。源太は後ろの二人とぶつかり、三人まとめて尻餅をついた。
反対側から来た二人も、槍の長さを持て余している。
龍之介は木槍を短く持ち替え、相手の手元を続けて打った。
乾いた音が二つ響き、槍が地面へ落ちる。
そこで孫七が動いた。
弓を構えたまま龍之介の背後へ回り、逃げ道を塞ぐ位置についたのである。
矢を放たなかったのは、訓練だからだろう。
龍之介は孫七へ向き直った。
「そこで俺が下がれば、お前の射線に入るな」
「はい。源太たちが押してくれれば、逃げる先へ射られるかと」
「よく見ている。だが、味方が追いすぎれば、お前の前へ入り込むぞ」
孫七は足元を見た。
確かに、源太が追撃すれば、孫七は味方の背を射る位置になる。
「そこまでは考えておりませなんだ」
「今気づけばよい」
龍之介は木槍を置いた。
十人のうち、最後まで落ち着いていたのは三人だった。
源太は勇敢だが前へ出すぎる。
孫七はよく見るが、味方を動かす声が足りない。
若い足軽の留吉は、槍の腕こそ未熟だが、仲間が倒れた時に周囲を確かめていた。
残る者も、決して役立たずではない。
ただ、十人が十人とも、自分の目の前だけを見て戦えば、部隊にはならない。
龍之介は全員を集めた。
「今のままでは、十人で戦っても五人分の働きしかできない」
源太が悔しそうに顔を伏せる。
「申し訳ございませぬ」
「謝る必要はない。今日、直せばよい」
龍之介は地面へ木の枝で線を引いた。
「五人ずつ二組に分ける。源太は一組を預かれ。孫七はもう一組を見ろ。留吉は孫七の側について、後ろへ伝える役をする」
源太が顔を上げた。
「私が五人を預かるのでございますか」
「ああ。ただし、敵が退いたからといって勝手に追うな。お前の後ろには四人いる。お前が突っ込めば、四人もつられる」
「承知しました」
「孫七は、敵を射ることだけ考えるな。源太の組が見えなくなったら知らせろ。敵が横へ回った時も同じだ」
孫七は深く頷いた。
龍之介は最後に留吉を見た。
「お前には、笛を持たせる」
「笛、でございますか」
「合図を伝えるためだ。短く一つなら止まる。二つなら集まる。長く一つなら退く。難しい合図は増やさない」
留吉は笛を受け取り、真剣な顔で頷いた。
「覚えました」
龍之介は十人を見渡した。
「敵を一人倒すことより、味方が何をしているか分かる方が大事な時もある。今日からお前たちは、俺の部下だ。だが、俺だけを見て動くな。隣の仲間を見ろ」
練兵場の空気が変わった。
十人は、もう互いに顔を見合わせていなかった。
それぞれ、自分の役を確かめ始めていた。
◇
訓練を始めて半刻ほど経った頃、新五が練兵場へ現れた。
背後には、泥のついた草鞋を履いた男がいる。
笠寺筋から来た樵だという。
「龍之介殿。少々、気になる知らせがございます」
龍之介が木槍を置くと、樵は深く頭を下げた。
「昨日から、鳴海へ続く山道で見慣れぬ男が出ております。木を伐るわけでも、荷を運ぶわけでもなく、道の幅や沢の深さを調べているようで」
「人数は分かるか」
「私が見たのは二人です。ただ、林の奥にも人の気配がございました」
新五が続ける。
「末森へ届いた今川方の探りとも、時期が重なります。大軍が動いている様子はありませんが、道を調べる者がいるなら放っておけません」
龍之介は少し考えた。
兵十人を預かったばかりである。
本来なら、数日は顔と腕を確かめ、役を決めてから見回りへ出したい。
だが、敵はこちらの都合を待ってくれない。
「若様には知らせましたか」
「はい。まず道を見てこいとのことです。ただし、今川方の者と決めつけて斬るな、敵地へ深追いするな、と」
龍之介は頷いた。
信長らしい判断だった。
この時期、三河との境は常に落ち着かない。小競り合いの報せもあれば、和睦の話もある。
見慣れぬ者が道を調べていたからといって、すぐ今川の兵と断じるわけにはいかない。
まして、鳴海には織田方の山口左馬助教継がいる。
あの辺りの動きは、山口の耳にも入れておくべきだろう。
「新五殿。山口左馬助殿へも知らせをお願いします。こちらは十人で道を見てまいります」
「その十人を、もう使われるのですか」
新五の声には、わずかな心配があった。
龍之介は練兵場の兵たちを見た。
「戦を仕掛けるつもりはありません。道を確かめ、怪しい動きがあれば戻って知らせます。ただ、いざという時には、訓練より実際の働きで見えることもあるでしょう」
新五は、しばらく龍之介を見ていた。
やがて頷く。
「承知しました。どうか深追いだけはなさらぬように」
「心得ております」
龍之介は十人へ向き直った。
「これから笠寺筋の道を見に行く。槍と弓を持て。飯も忘れるな。今日は歩くだけで帰れるとは限らん」
源太が真っ先に返事をした。
「はっ!」
孫七も弓を背負い、留吉は笛を腰へ結び直した。
龍之介は、ようやく兵を預かった実感を覚えた。
練兵場で木槍を振るうのとは違う。
今から、この十人を連れて危険のある道へ入る。
誰かが判断を誤れば、命を落とす。
その判断を下すのは、自分だった。
◇
笠寺へ向かう道は、那古野の町を離れると次第に細くなった。
田畑の間を抜ける道から、低い丘の裾へ入る。ところどころに雑木林があり、雨の後だけ水が流れる浅い沢が幾つもあった。
樵の話では、見慣れぬ男がいたのはその沢の一つだという。
龍之介は、道の途中で兵を止めた。
「源太。五人を連れて、あの林の西側を見てくれ。ただし、沢へは下りるな。俺の合図があるまで、道の上で待つ」
「承知しました」
「孫七は、残る五人を連れて南側の斜面へ。弓が使える場所を探せ。木が邪魔なら、無理に射ようとするな」
孫七は頷き、留吉へ声を掛けた。
五人ずつが分かれて進む。
龍之介は、その中央を少し遅れて歩いた。
沢の近くには、見慣れた樵道がある。
しかし、その脇に新しい足跡が残っていた。
四、五人ではない。
少なくとも八人ほどは通っている。
龍之介はしゃがみ、土を指先で崩した。
草鞋の跡に混じって、踵の形が違う足跡がある。
足軽が履く草鞋にもさまざまな作りはあるが、ここを通った者たちは同じ組のように歩いていた。
しかも、沢の前で足を止めている。
向こう岸へ渡るためだけなら、これほど同じ場所を踏み固める必要はない。
龍之介は顔を上げた。
沢の水は浅い。
幅も狭い。
歩兵なら簡単に越えられる。
だが、馬は一列にならざるを得ない。
その先は緩やかな坂になっており、荷車を通すには少し手間が掛かる。
敵が知りたいのは、水深だけではないのかもしれない。
龍之介は林の向こうを見た。
鳥の声が途切れている。
風は吹いているのに、枝の揺れ方が一箇所だけ不自然だった。
誰かが潜んでいる。
龍之介は小さく息を吐いた。
郭嘉の知が、地形と人の動きを重ね始めていた。
敵が二人だけなら、わざわざ林へ隠れる必要はない。
二人を見せ、こちらを沢へ誘い込む。
沢へ下りたところで、斜面から矢を射る。
そうすれば、少人数の見回りなら簡単に崩せる。
もっとも、それは相手がこちらを敵と考えている場合だ。
龍之介は、源太へ合図を送った。
「沢へ下りるな。西側の道を押さえて待て」
源太は黙って頷いた。
その時、向こう岸の木立から二人の男が現れた。
樵の姿に見える。
だが、腰の刀は使い込まれており、歩き方も山仕事の者とは違った。
一人がこちらに気づき、わざと大きく声を上げた。
「織田の兵か。こんなところまで見回りとは、ご苦労なことだ!」
龍之介は沢の手前で立ち止まった。
「那古野の山本龍之介だ。この辺りで道を調べている者がいると聞いた。お前たちは何をしていた」
男は笑った。
「樵が道を歩くのに、いちいち武士の許しがいるのか」
「樵なら、木を見に来たのだろう。沢の深さばかり確かめる理由を聞かせてもらいたい」
男の顔から笑みが薄れた。
背後のもう一人が、わずかに足を引く。
逃げる準備だ。
龍之介は、二人よりも林の奥を見ていた。
その瞬間、木々の間で弓弦が鳴った。
「伏せろ!」
龍之介の声と同時に、一本の矢が飛んだ。
源太の足元へ突き立つ。
続いて二本目が放たれたが、龍之介は槍の柄で打ち払った。
乾いた衝撃が掌へ伝わる。
沢の向こうにいた二人が刀を抜いた。
同時に、林の奥から武装した男たちが現れる。
数は六人。
そのうち二人が弓を持っていた。
「源太、前へ出るな! 道の上で槍を揃えろ!」
龍之介は声を張った。
「孫七、右の林を押さえろ! 弓を持つ者から目を離すな!」
孫七の組が斜面で動く。
留吉の笛が、短く一つ鳴った。
止まれの合図だ。
源太の組はその場で槍を構え、沢から駆け上がってくる敵に備えた。
敵の一人が叫ぶ。
「数は少ないぞ! 押し潰せ!」
龍之介は、思わず笑みを浮かべた。
敵は十人の姿を見て、勝てると思ったのだろう。
無理もない。
こちらの兵は、まだ一つの組として戦った経験がない。
だが、敵は一つ見落としている。
十人の後ろにいる男が、どれほどの武を持つかを。
◇
最初に沢を越えた敵は、長槍を構えて源太へ突っ込んだ。
源太は踏み止まり、槍を水平に出した。
敵の槍先がその横を抜けようとする。
源太は一瞬、相手を追って前へ出かけた。
だが、龍之介の声が飛ぶ。
「源太、足を止めろ! 後ろの四人と槍を揃えろ!」
源太は、はっとして踏み止まった。
その横から二本の槍が突き出される。
敵は思わず後退した。
一人の長槍なら払える。
だが、三本が違う角度から出てくれば、簡単には近づけない。
源太は、そこで初めて自分の役を理解したようだった。
自分が敵を倒す必要はない。
五人で道を塞げばよい。
一方、斜面では孫七が弓を引いていた。
敵の射手がもう一度矢を放つ。
それを見た孫七は、すぐ射返さなかった。
相手が木の陰から身を出すのを待ち、射線が開いた瞬間に矢を放った。
矢は敵の肩へ突き立った。
男が悲鳴を上げ、弓を落とす。
「当たりました!」
留吉が声を上げた。
「見ているだけでは駄目だ。もう一人の射手を探せ!」
孫七の声が飛ぶ。
留吉は顔を引き締め、すぐ林へ目を戻した。
龍之介は、二つの組が動き始めたことを感じ取った。
まだ粗い。
だが、命令が届いている。
敵を見て慌てるだけだった兵たちが、自分の持ち場を守っている。
ここで相手を崩せば、勝てる。
龍之介は沢へ踏み込んだ。
向こう岸では、最初に現れた二人が刀を構えている。
一人が叫びながら斬りかかった。
龍之介は槍を短く持ち、相手の刀を柄で受け流した。
そのまま踏み込み、槍の石突きで顎を打つ。
男は膝から崩れた。
もう一人は横へ回ろうとしたが、龍之介の足が先に動いた。
踏み込んできた相手の手首を槍で打ち、刀を落とさせる。
続いて肩へ体当たりを入れると、男は後ろの木へ叩きつけられた。
ここまでは、ほとんど抵抗にもならなかった。
だが、林の奥から現れた男は違った。
背の高い武者で、長槍を扱う手つきに無駄がない。
胴丸は古いが、手入れされている。
龍之介を見る目にも、先ほどの男たちのような侮りはなかった。
「お前が山本龍之介か」
男は槍を構えたまま言った。
「その名を知っているなら、こちらの素性は調べてきたようだな」
「織田の若に、妙な武者がついたと聞いている」
男は口元を歪めた。
「腕を見せてもらおう」
言い終わるより早く、槍が突き出された。
速い。
しかも、ただ一直線に突くのではない。
最初の突きを受けられると見るや、穂先をわずかに下げ、龍之介の膝へ向きを変えた。
実戦を知る槍だった。
龍之介は身体をひねり、穂先を外した。
槍の柄が腕をかすめる。
痛みはない。
だが、敵が強いことは分かった。
男は続けて踏み込み、今度は龍之介の胸を狙う。
龍之介は穂先を左へ払った。
その瞬間、男の重心がわずかに前へ出る。
そこが隙だった。
郭嘉の知は、相手が次にどこへ足を置くかを見せる。
呂布の武は、その一瞬を逃さない。
龍之介は敵の槍を外へ絡め取りながら、右足を一歩踏み込んだ。
相手が引こうとした時には、もう遅い。
槍の石突きが男の胸へ突き込まれた。
衝撃で男の身体が浮く。
後ろへ倒れかけたところへ、龍之介はさらに踏み込んだ。
「これで終わりにしてもらおう!」
槍の柄を返し、男の肩へ叩きつける。
骨の折れる音がした。
男は槍を落とし、膝をついた。
それでも腰の刀へ手を伸ばす。
龍之介は容赦しなかった。
槍の穂先を向け、相手の腕が刀へ届く前に突き込んだ。
男の身体が崩れる。
赤い血が、沢の石へ広がった。
龍之介は、浅く息を吐いた。
相手は本気で殺しに来た。
戦場では、手加減できる時ばかりではない。
その事実を、改めて胸に刻んだ。
◇
頭目らしい武者が倒れたことで、敵の動きが乱れた。
沢のこちら側へ渡ろうとしていた男たちも、攻め続けるか退くかで迷い始めている。
源太は槍を構えたまま、龍之介を見た。
「追いますか!」
「追うな! 持ち場を守れ!」
龍之介は即座に返した。
その時、林の奥から一本の矢が飛んだ。
狙われたのは源太だった。
しかし、源太の横にいた留吉が矢に気づき、思わず身を投げ出した。
矢は留吉の左腕をかすめ、布と皮膚を裂いた。
「うっ!」
留吉が膝をつく。
源太が振り返る。
その隙を見て、敵の一人が槍を突き出した。
龍之介は走った。
沢を蹴り、滑る石の上を一息で抜ける。
源太へ迫る槍の穂先を横から叩き落とし、そのまま相手の顔へ槍の柄を打ち込んだ。
男は鼻血を散らして倒れた。
「源太! 留吉を下げろ!」
「はっ!」
源太は槍を捨てず、仲間へ声を掛けた。
二人が前へ出て道を塞ぎ、残る一人が留吉を後ろへ引く。
孫七が斜面から最後の一矢を放った。
敵の足元へ突き立った矢に驚き、残っていた男たちは林の奥へ退き始める。
龍之介は追わなかった。
相手の逃げ道が、尾張の側へ続いているとは限らない。
このまま敵地へ入り込めば、十人の兵を危険に晒す。
それに、こちらにも傷を負った者がいる。
「留吉の傷を見ろ! ほかに怪我をした者はいないか!」
龍之介は大きく声を張った。
源太がすぐに答える。
「留吉の左腕だけです! ほかは無事にございます!」
孫七の組からも、怪我人はいないと声が返った。
龍之介は、ようやく槍を下ろした。
十人は生きている。
留吉は傷を負ったが、歩けないほどではない。
敵は一人が倒れ、数人が傷を負い、残りは逃げた。
捕らえた者も二人いる。
だが、何より大きいのは、敵の不意打ちを受けても十人が勝手に逃げなかったことだった。
源太は、息を切らしながら龍之介へ近づいた。
「龍之介様。私は、また追いかけそうになりました」
「見ていた」
「ですが、留吉が傷を負った時、仲間を下げる方が先だと分かりました」
龍之介は頷いた。
「それでよい。敵を倒すことだけが、兵の仕事ではない」
源太は深く頭を下げた。
孫七も弓を下ろし、近づいてくる。
「敵の射手を一人射ました。ですが、もう一人を見失い、留吉が傷を負いました」
「敵は木を使って動いていた。見失うこともある。次は一人で見ようとするな。留吉や周りの者にも目を使わせろ」
「はい」
留吉は左腕を押さえながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
「私がもっと早く笛を吹いていれば」
「矢が来ると分かった時点で十分だ。傷を負ってまで知らせたことは、無駄ではない」
龍之介は布を取り出し、留吉の腕へ巻いた。
傷は浅い。
出血も多くない。
ただし、矢傷である以上、汚れを落として手当てする必要があった。
「那古野へ戻ったら玄庵殿に診てもらおう。今日は無理に腕を使うな」
留吉は頷いた。
龍之介は、十人の顔を順に見た。
疲れている。
緊張で唇が乾いている者もいる。
初めて敵を射た孫七は、弓を握る手がわずかに震えていた。
それでも、誰も持ち場を捨てなかった。
龍之介は、胸の奥で小さく安堵した。
十人の初陣としては、上出来だった。
◇
倒した敵の持ち物を確かめると、興味深いものが出てきた。
短い竹片である。
細い文字と印が刻まれ、ところどころに墨が付いている。
龍之介はそれを持ち上げた。
沢。
坂。
馬二列ならず。
荷車は一台ずつ。
そして、もう一つ。
北へ抜ける道、見張り少なし。
それは、道を歩く者の覚え書きだった。
ただし、樵のものではない。
木を伐る場所でも、薪を運ぶ道でもなく、兵と荷車が通れるかどうかを記している。
龍之介は他の持ち物も確かめた。
兵糧らしい握り飯。
砥石。
替えの草鞋。
小さな銭袋。
武具は三河方面でも使われるありふれた作りで、これだけで今川の兵だと断じることはできない。
だが、竹片の記録は明らかに軍の目だった。
龍之介は捕らえた男の一人へ声を掛けた。
「お前たちは、この道を通ってどこへ行くつもりだった」
男は顔を伏せた。
「……知らぬ」
「では、誰に道を調べろと命じられた」
「それも知らぬ」
龍之介は、無理に答えを求めなかった。
今ここで脅しても、都合のよい嘘を聞かされるだけだ。
ただ、相手が何を持っていたかは残せる。
「源太。竹片と持ち物をまとめてくれ。捕らえた二人は別々に歩かせる。留吉は孫七の組で守れ」
「承知しました」
龍之介は、もう一度沢を見た。
敵は二人を見せ、隠れた者たちでこちらを射ようとした。
もし十人をまとめて沢へ下ろしていれば、狭い場所で混乱しただろう。
弓を持つ敵に上から狙われ、数人は倒れていたかもしれない。
だが、敵の狙いを読めた。
こちらの十人も、命令を守った。
郭嘉の知で勝ち筋を見つけ、呂布の武で決める。
久しぶりに、その二つを一つの戦で使った気がした。
しかし、龍之介は勝った喜びよりも、竹片に書かれた文字が気になっていた。
北へ抜ける道、見張り少なし。
敵は尾張の奥へ入る道を調べていた。
しかも、那古野へ向かう荷の道と重なる。
もし今川方の者なら、狙っているのは城だけではない。
兵が動く道。
兵糧が通る道。
その両方だ。
龍之介は、竹片を懐へ収めた。
急いで信長へ知らせなければならない。
◇
那古野へ戻ったのは、日が傾く頃だった。
十人は疲れ切っていたが、隊列は崩れていなかった。
源太が先頭。
孫七が後ろを見ている。
留吉は左腕を吊り、仲間に支えられながら歩いていた。
捕らえた二人は、彦右衛門たちへ引き渡された。
龍之介は留吉を玄庵のもとへ送らせると、その足で信長へ報告に向かった。
庭では信長が待っていた。
新五と又左もいる。
「戻ったか!」
信長は龍之介を見るなり、立ち上がった。
「敵とやり合ったそうだな」
「はい。沢の近くで、武装した者たちに襲われました」
龍之介は、人数と戦いの経緯を説明した。
十人のうち一人が負傷。
敵は一人が戦死し、二人を捕縛。
残る者たちは林の奥へ退いた。
信長は最後まで聞き、深く頷いた。
「十人を連れて出て、十人を連れて帰ったか」
「留吉が腕を負傷しました。玄庵殿に診てもらっております」
「怪我は戦では避けきれぬこともある。だが、部下を置き去りにしなかったのはよい」
信長は龍之介の懐へ目を向けた。
「それで、敵は何をしていた」
龍之介は竹片を取り出した。
信長は受け取り、刻まれた文字を読んだ。
沢の深さ。
坂の具合。
馬の通り方。
荷車の幅。
そして、北へ抜ける道。
「ただの物盗りではないな」
「はい。敵は道を調べておりました。軍勢を通すための覚えと見てよいかと」
信長は竹片を裏返した。
「今川か」
「その可能性は高いと考えております。ただ、捕らえた者はまだ口を開いておりません。武具にも明らかな印はありませんので、現時点では断定できませぬ」
信長は頷いた。
「よい。決めつけるな」
それから新五へ向いた。
「この竹片を父上へ送れ。山口左馬助にも知らせよ。鳴海の近くで道を調べていた者たちだ。あの辺りの地形と人の動きは、山口の方が詳しい」
「承知しました」
又左が腕を組んだ。
「若。今川の探りなら、早めに一度叩いておいた方がよいのでは」
信長は首を横に振った。
「まだ相手が今川だとは決まっておらぬ。こちらから大軍を動かせば、かえって相手の思う壺になることもある」
龍之介も頷いた。
「敵が知りたかったのは、道を通せるかどうかです。ならば、こちらがどれほど兵を出せるかも見たかったのかもしれません」
信長は目を細めた。
「お前は、それを見せずに帰った」
「はい。十人で受け、十人で戻りました。こちらの大きな備えまでは見せておりません」
信長が笑った。
「よくやった」
その声には、先ほどまでの軽さがなかった。
龍之介は深く頭を下げた。
信長は続けた。
「明日から、お前の十人を二組に分けて見回らせろ。ただし、今日のような武装した者が出れば、無理に討ち取ろうとするな。見たことを持ち帰る方が大事な時もある」
「心得ております」
「源太と孫七は使えそうか」
「二人とも、よい働きをしました。源太は前へ出すぎる癖がありますが、命令を受けて踏み止まりました。孫七は敵の射手を押さえ、留吉も合図を伝えております」
信長は満足そうに頷いた。
「お前一人が強くても、十人が働かねば兵を預けた意味はない。今日の働きなら、まず合格だな」
龍之介は思わず笑った。
「ありがとうございます」
又左が横から言った。
「龍之介。次は俺も連れていけ。敵の槍を奪って戦ったと聞けば、黙っておられん」
「お前が来れば、見回りではなく戦になりそうだ」
「それはひどい言い草だな」
又左が笑う。
信長も声を立てて笑った。
久しぶりに、那古野の庭へ戦の話が戻ってきた。
荷を守り、商人を守り、道を守る。
それも大切だ。
だが、乱世では最後に武力を向けられることがある。
その時に立てる兵がいなければ、どれほど正しい仕組みも守れない。
信長は、そのことをよく理解していた。
◇
夜、龍之介は留吉の様子を見に行った。
玄庵の手当てを受け、傷は洗われていた。
深くはないが、数日は無理に槍を使わぬ方がよいという。
留吉は寝床から起き上がろうとしたが、龍之介が止めた。
「休んでいろ。今日はよく働いた」
「龍之介様。私は、敵を一人も倒しておりませぬ」
「それで構わない」
留吉は、少し悔しそうな顔をした。
「ですが、源太殿たちは槍を構え、孫七殿は敵を射ました。私は笛を吹き、最後には傷まで負ってしまいました」
龍之介は寝床の脇へ腰を下ろした。
「留吉。お前が笛を吹かなければ、源太たちは沢へ下りていたかもしれない。止まる合図が届いたから、五人の槍を揃えられた」
留吉は顔を上げた。
「私の笛が、役に立ったのでございますか」
「ああ。戦場で大切なのは、敵を何人倒したかだけではない。十人が同じ命令で動けたことも、十分な働きだ」
留吉は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「ならば、次も笛を持たせてください」
「もちろんだ。ただし、腕が治ってからだぞ」
「承知しました」
龍之介は立ち上がった。
寝床を出る前に、留吉がもう一度声をかけてきた。
「龍之介様。源太殿も孫七殿も、帰り道で私のことを気遣ってくださいました」
「そうか」
「十人で帰ってきたのが、嬉しゅうございました」
龍之介は振り返り、頷いた。
「俺もだ」
それだけ答え、部屋を出た。
廊下の外には、夜の冷たい空気が流れていた。
龍之介は歩きながら、昼の戦を思い返した。
敵を倒すこと自体は難しくなかった。
呂布の武があれば、多少腕の立つ者でも押し切れる。
だが、十人を動かし、互いの命を守らせることは、別の難しさがある。
今日の勝ちは、自分一人の武だけで得たものではなかった。
源太が踏み止まり、孫七が射手を押さえ、留吉が合図を伝えた。
その働きがあったからこそ、十人は帰ってこられた。
龍之介は、夜空を見上げた。
郭嘉の知は、戦の形を読む。
呂布の武は、勝つための力を与える。
だが、人を率いることは、そのどちらとも少し違う。
兵を信じること。
自分だけで戦おうとしないこと。
そして、勝った後に何を守ったのかを忘れないこと。
ようやく、その入口へ立てた気がした。
◇
同じ頃、鳴海の山口左馬助教継のもとにも、那古野からの知らせが届いていた。
使いの男は、沢で敵を退けたことと、見つかった竹片の内容を伝えた。
山口は最後まで聞くと、しばらく黙った。
「那古野の三郎様が、流れ者の武者へ兵十人を預けたと聞いておったが……」
山口は、静かに笑った。
「初めての見回りで、そこまで見たか」
使いの男が頭を下げる。
「山本龍之介と申す者にございます」
「覚えておこう」
山口は、鳴海の周囲を知り尽くした男だった。
どこに沢があり、どの道を通れば馬が抜けられるか。
どの村がどの城へ荷を運ぶか。
そのようなことを、地図を広げずとも語れる。
だからこそ、竹片の内容が気になった。
「沢の深さを測り、荷車の幅まで記したか……。ただの物見ではないな」
山口は、少し考えてから言った。
「三郎様へ返事を出せ。鳴海の方でも道を確かめる。怪しい者がいたなら、こちらも見ておくとな」
「承知しました」
使いが下がると、山口は再び竹片の写しへ目を落とした。
今川方が本当に動いているのか。
それとも、境の者たちが勝手に探りを入れているだけなのか。
まだ分からない。
だが、道を調べる者が現れたことは確かだった。
山口は小さく息を吐いた。
「三郎様の周りも、変わり始めたようだな」
その言葉が誰へ向けられたものなのか、答える者はいなかった。
尾張の東では、まだ大きな軍勢は動いていない。
しかし、兵が通る道を調べる者たちは、確かに現れ始めていた。
そして那古野では、山本龍之介が預かった十人の兵が、初めて実戦を経験した。
わずか十人の小さな隊である。
だが、その十人は、もう昨日までの十人ではなかった。




