第85話 清洲への初荷
最初の矢が飛んできた時、米商人の善兵衛は、自分がまた清洲で何かを疑われたのだと思った。
矢は米俵の縁に突き立ち、乾いた藁を散らした。
続いて街道脇の雑木林から男たちが飛び出し、先頭の馬へ長柄の鉤を突き出す。
馬が甲高く嘶いた。
「荷を置いて下がれ! 命まで取ろうとは思わん!」
怒鳴った男は、革紐で継ぎ合わせた胴丸を着けていた。
ただの物盗りではない。
龍之介は、その男が槍を構えるより早く、街道の左右へ目を走らせた。
前方に五人。
雑木林の奥に三人。
後ろの道にも足音がある。
相手は最初から、荷を挟み込むつもりだった。
善兵衛が那古野から運んできた米は六俵。馬三頭に二俵ずつ載せている。
清洲北蔵の扱いが改められてから、初めて清洲の商人へ直接売ることになった荷だった。
その初荷が、清洲へ届く前に襲われたのである。
「又左! 後ろを頼む!」
龍之介が叫ぶと、前田又左衛門はすでに槍を構えていた。
「承知した! 彦右衛門、馬を土手側へ寄せろ!」
古参足軽の彦右衛門が馬借たちへ声を飛ばす。
龍之介は先頭の馬へ迫った鉤を払い落とし、踏み込んできた男の胸元へ槍の石突きを叩き込んだ。
男が息を詰まらせて倒れる。
その背後から、別の男が刃を振り下ろした。
龍之介は身体をひねり、刃を槍の柄で受け流した。腕へ伝わった衝撃は軽い。相手の踏み込みが浅いことも、刃の重さを持て余していることも分かった。
だが、今は目の前の男を倒すことが目的ではない。
守るべきは、馬と荷主だ。
龍之介は槍を返し、男の膝裏を払った。
崩れた相手を越えて前へ出ると、雑木林の奥で弓を引いていた男が目に入った。
狙いは龍之介ではない。
善兵衛だった。
「善兵衛殿、伏せてください!」
龍之介が声を張る。
善兵衛が地面へ身を投げた直後、矢がその頭上を飛び、後ろの木へ突き立った。
龍之介は地を蹴った。
若い肉体の奥で、呂布の武が激しく脈打つ。
目の前の敵を打ち倒し、道をこじ開けようとする力だった。
だが、頭の奥では別のものが働いている。
後ろの男たちは米を奪う役ではない。馬借が逃げようとした時に、退路を塞ぐ役だ。
前の五人を倒すだけでは、善兵衛たちが挟み撃ちになる。
ならば、先に敵の囲みを崩す。
龍之介は弓を持つ男へ向かうと見せかけ、急に進路を変えた。
雑木林から抜ける細い道へ飛び込み、後方の三人の前へ回り込む。
男たちは、龍之介がそこへ現れるとは思っていなかったらしい。
「なっ……!」
先頭の男が槍を突き出した。
龍之介は穂先を左へ払い、槍の柄を握った手を打った。男の指が開いたところで槍を奪い、身体を入れ替えるようにして背後の二人へ向き直る。
一人が刀を抜いた。
もう一人が逃げようとする。
龍之介は奪った槍を地面と平行に振り、刀を持つ男の胴へ叩きつけた。
男は脇腹を押さえて倒れた。
逃げかけた男は、槍の穂先を背へ向けられて足を止める。
「武器を捨てろ。命を惜しむなら、これ以上荷へ近づくな」
龍之介の声に、男は刀を落とした。
街道の向こうでは、又左が敵二人を相手に槍を振るっている。
若いが、前田利家の武は荒削りなだけではない。長い手足を生かして間合いを保ち、敵が馬へ近づけないようにしていた。
「龍之介! こっちは持つぞ!」
「すぐ戻る!」
龍之介は倒した男たちを彦右衛門に任せ、再び街道へ飛び出した。
米俵の脇では善兵衛が身を起こそうとしている。
頬に浅い切り傷ができ、血が顎へ伝っていた。
馬借の与八が、暴れかけた馬の手綱を必死に握っている。
龍之介は善兵衛の無事を確かめると、街道の中央へ立った。
「これ以上やるなら、今度はこちらから行く!」
声が、木立の間へ響いた。
襲撃者たちは一瞬動きを止めた。
そのわずかな間に、龍之介は敵の頭目へ槍を向けた。
「荷を置かせるつもりなら、まず俺を退かしてみろ」
男は歯を剥き、長槍を構えた。
「小僧が、舐めた口を!」
突きが来た。
龍之介は穂先を見切り、半歩踏み込んだ。相手の槍を外へ流しながら自分の槍を持ち上げ、その柄を男の肩へ叩き込む。
鈍い音が響いた。
男の右腕が落ちる。
続く一撃で膝を払うと、男は泥の中へ倒れ込んだ。
龍之介は槍先を喉元へ向けた。
「終わりだ。仲間を下がらせろ」
頭目は歯を食いしばっていたが、右腕が動かない。
周囲に残っていた男たちも、戦意を失い始めていた。
「……退け」
頭目が絞り出す。
雑木林の中から、逃げていく足音が続いた。
又左が追おうとしたが、龍之介は止めた。
「追うな。馬と荷を守る方が先だ!」
又左は舌打ちしながらも、すぐ槍を引いた。
「分かった。彦右衛門、捕まえた連中を縛るぞ!」
街道には、倒れた男たちの呻き声と、興奮した馬の鼻息が残った。
龍之介はようやく息を整えた。
荷を守り切った。
だが、米俵には矢が刺さり、馬借は震え、善兵衛は血を流している。
これが、槍を使って道を守るということだった。
◇
襲撃が起きたのは、那古野から清洲へ向かう街道の途中、五条川に近い雑木林の脇だった。
街道そのものは広くない。
田畑と低い林に挟まれた場所で、荷を積んだ馬がすれ違うには互いに道を譲る必要がある。
善兵衛は、そこへ差しかかった時から少し嫌な予感がしていたという。
「いつもなら、清洲へ向かう荷がもっと通ります。それが今日は、妙に少なかった」
龍之介は善兵衛の傷を布で押さえながら、その話を聞いた。
傷は深くない。
矢で負ったものではなく、身を伏せた時に地面の小石で切ったらしい。
「道が空いていた理由は、ほかの商人にも確かめましょう。襲う側が荷を避けさせたのなら、近くに協力した者がいるはずです」
善兵衛は頷いた。
ただ、その顔から怯えが消えない。
「龍之介殿。私はまた清洲へ戻ろうとしただけです。先日、御用を騙ったと疑われ、ようやく疑いが晴れたところでした。それが今度は、賊に襲われるとは……」
善兵衛の声が掠れた。
「清洲で商いを続けることが、そんなに悪いことなのでしょうか」
龍之介は、少し考えてから答えた。
「悪いはずがありません。清洲で買ってくれる者がいるなら、清洲で売ればよい。それを続けられるようにするのが、城と武士の仕事でしょう」
善兵衛は俯いた。
「しかし、今日のようなことがあれば、商人は怖がります」
「ええ。だから、今回の襲撃をただの災難で終わらせるわけにはいきません」
龍之介は、捕らえた頭目へ視線を向けた。
男は街道脇に座らされ、彦右衛門の見張りを受けている。
肩の痛みで顔をしかめているが、意識ははっきりしていた。
龍之介は男の前にしゃがんだ。
「お前たちは、どこの者だ」
男は顔を背けた。
「言ったところで、どうせ首を斬るんだろう」
「ここで斬るつもりなら、先ほどそうしている。襲った理由を知りたい」
男はしばらく黙っていた。
やがて、諦めたように口を開く。
「美濃から流れてきた。仕えていた家が潰れ、食い扶持を失った者ばかりだ」
龍之介は男の腕や足元を見た。
刀の握り方にも、槍の扱いにも慣れていた。
百姓が急に武器を持った者たちではない。
敗れて行き場を失った足軽崩れという説明には、確かに納得できるものがあった。
「なぜ、この道を狙った」
「近頃は清洲門前の荷の扱いが変わり、北蔵の周りにいた番の者が減ったと聞いた。商人が城下の外を通るなら、米も銭も奪いやすいと思った」
又左が顔をしかめた。
「清洲の番が減ったことまで知っていたのか」
「荷を運ぶ者が話していた。俺たちだけが知っている話じゃない」
男は吐き捨てるように言った。
「街道には米がある。だが、俺たちには食う米がない。ならば奪うしかあるまい」
又左の顔が険しくなる。
「腹が減ったからといって、善兵衛殿を射殺そうとしたことまで許されると思うなよ」
男は答えなかった。
龍之介も、そこには同意した。
食い詰めた事情はあるのだろう。
だが、弓を向けられた善兵衛にも家族がいる。
馬借たちも、命を懸けて米を運んでいる。
困っている者がいるからといって、別の者を傷つけてよいわけではない。
「お前たちの事情は、清洲の役人にも話せ。だが、奪おうとした米と、傷つけた人のことからは逃げるな」
龍之介は立ち上がった。
これ以上、ここで問い詰めても意味はない。
まずは捕らえた者を清洲へ渡し、善兵衛の荷を目的地まで届ける必要があった。
◇
清洲門前へ着いたのは、昼をかなり過ぎた頃だった。
米俵には矢の跡があり、一頭の馬は脚を擦りむいていた。
それでも六俵は揃っている。
善兵衛が取引を約束していた清洲の米屋は、荷の様子を見るなり顔色を変えた。
「善兵衛殿。いったい何があったのです」
「途中で賊に襲われました。龍之介殿たちが守ってくださらなければ、米も馬も奪われていたでしょう」
米屋は驚いた顔で龍之介を見た。
又左は槍を肩へ担ぎ、少し離れたところで笑っている。
「米は無事だ。俵が一つ傷ついたが、中身はこぼれておらん」
善兵衛は頭を下げた。
「取引は、予定通りお願いできますでしょうか」
米屋は俵の状態を確かめた。
矢が刺さった俵は藁の外側を傷つけただけで、米の入った内袋まで破れてはいない。
残る五俵も問題なかった。
「もちろんです。米が悪くなったわけではありません。約束した値で買い受けましょう」
善兵衛の肩が、ようやく落ちた。
その場で受け取りが行われ、米屋の蔵へ六俵が運び込まれた。
清洲北蔵を通さない、清洲の商人への直接の売買だった。
余計な御用札もない。
北蔵へ預ける必要もない。
荷主と買い手が合意し、米が渡り、代価が支払われる。
何でもない商いのはずだった。
だが、ここへ至るまでに、これほど多くのことが起きた。
龍之介は蔵へ入っていく米俵を見ながら、息を吐いた。
善兵衛が清洲へ戻れた。
その事実は、米六俵という数以上に重い。
「龍之介殿」
声をかけてきたのは河尻与右衛門だった。
清洲の町役として、守護代信友から北蔵の通常荷の扱いを見るよう命じられた男である。
与右衛門は部下を数人連れ、捕らえた賊の前で足を止めた。
「襲撃の報せを受けました。清洲の道で起きたことゆえ、こちらで預かります」
「お願いいたします。頭目を含め、捕らえた者は五人です。ほかは逃げましたが、善兵衛殿と馬借たちの無事を優先し、追いませんでした」
与右衛門は頷いた。
「それで結構です。商人の荷を捨てて賊を追ったのでは、護ったことになりません」
男は捕虜を部下へ引き渡すと、善兵衛の前へ進んだ。
「善兵衛殿。清洲の道でこのような目に遭わせ、申し訳ない」
善兵衛は慌てて頭を下げた。
「与右衛門様がお詫びなさることではございません」
「城下の荷を守るのも、我らの務めです。近頃、荷の扱いが変わったことに合わせ、道の番まで手が回っていなかったようです」
与右衛門は龍之介へ向き直った。
「那古野の方々に助けられたことは、大和守様へも報告いたします。ただ、清洲の道の見回りは、今後はこちらで整えねばなりません」
「それがよろしいと思います」
龍之介は答えた。
「那古野の兵が清洲の道まで常に見張れば、清洲の方々も面白くないでしょう。私どもは那古野の側を守ります。清洲の道は、清洲の兵が守ってくださればよろしい」
与右衛門は、少し意外そうな顔をした。
「清洲の手柄としてよいと」
「手柄を取りに来たわけではありません。商人が安心して荷を運べれば、それで十分です」
与右衛門は、しばらく龍之介を見ていた。
やがて、深く頷いた。
「そのお言葉、大和守様へお伝えします」
龍之介は頭を下げた。
その横で又左が小さく笑う。
「龍之介。米六俵の護衛で、清洲の町役まで動かしたな」
「襲われずに済めば、それが一番だった」
「そりゃそうだが、久しぶりにお前の槍を見られた。腕が鈍っていなくて安心したぞ」
龍之介は苦笑した。
「お前こそ、二人を相手によく馬を守ったな」
「もっと暴れてもよかったんだが」
「暴れれば、馬が逃げていただろう」
又左は一瞬黙り、それから笑った。
「違いない。今日は馬に礼を言っておこう」
善兵衛が、その会話を聞いていた。
つい先ほどまで恐怖で顔色を失っていた男が、ようやく笑みを浮かべた。
「お二人には、いつか必ずお礼をいたします」
龍之介は首を振った。
「まずは商いを続けてください。今日の一件で清洲へ来なくなれば、賊に負けたのと同じです」
善兵衛は、しっかり頷いた。
「来ますとも。まだ売りたい米がございますから」
その返事を聞き、龍之介は満足した。
◇
那古野へ戻った龍之介は、信長の前で報告した。
庭では、新五と勝三郎が待っていた。
藤吉郎も、帳を抱えて控えている。
信長は善兵衛の米六俵が予定通り売れたと聞き、まず笑った。
「よし。初荷が通ったか」
「はい。ただし、道中で賊に襲われました」
「又左から聞いた。お前がずいぶん暴れたそうだな」
「必要なだけです」
「又左も同じことを言っていたぞ」
信長は声を立てて笑った。
だが、龍之介から賊の人数と襲撃の様子を聞くと、表情を引き締めた。
「北蔵の周りで番が減ったと聞き、そこを狙ったか」
「頭目はそう申しておりました。ただし、誰かが意図して番を減らしたかどうかは分かりません」
「そうだろうな」
信長は庭の端へ目を向けた。
「商いの道を変えれば、守り方も変えねばならぬ。そこを忘れていた」
龍之介は頷いた。
これまでの那古野は、荷の名を見てきた。
受け手を確かめ、商人を守り、偽りの御用を通さないようにしてきた。
だが、道が広がれば危険も増える。
商人が自由に動けることと、商人が安全に動けることは同じではない。
信長は平手を呼ばせた。
ほどなく、平手が庭へ現れる。
「若。襲撃の報せは聞きました。大殿へもお知らせなさいますか」
「無論だ。清洲の役人が賊を預かり、町役が見回りを整えると言っていることも添えよ」
「承知しました」
信長は続けた。
「それと、那古野の側の道も見直す。商人へ護衛を押しつけるのではない。危ない場所を選び、見回りを置く」
新五が頷いた。
「領内の街道を見回るなら、足軽を二組ほど動かせます。交代で巡らせるのがよろしいかと」
「よし」
信長は龍之介を見た。
「龍之介。お前に、その差配を任せる」
龍之介は思わず顔を上げた。
「私に、でございますか」
「お前は、荷を守るために賊を追わなかった。戦うだけなら又左もできる。だが、守るべき者を置き去りにして敵を追えば、護衛の意味がない」
信長は静かに続けた。
「那古野の道を守る足軽を十人預ける。二組に分け、街道の見回りをさせよ。清洲の側へ勝手に兵を入れるな。そこは河尻与右衛門と連絡を取れ」
平手が龍之介を見た。
「若から兵を預かる以上、今までより責任が重くなりますぞ」
「心得ております」
龍之介は、深く頭を下げた。
信長は笑った。
「お前にいつまでも、わしの側で槍を振るうだけの役をさせるつもりはない。兵を使え。道を守れ。必要なら又左や新五にも手を借りろ」
龍之介の胸に、熱いものが湧いた。
初めて信長の前へ立った時、自分はただの流れ者だった。
呂布の武を持つがゆえに警戒され、郭嘉の知を持つがゆえに試されてきた。
それが今、兵を預けられるところまで来た。
十人という数は大きくない。
しかし、ただ敵を倒すのではなく、人を率いて道を守る役を与えられたのである。
「必ず、お役に立ててみせます」
龍之介が答えると、信長は満足そうに頷いた。
「期待している」
又左が、すかさず口を開いた。
「若。龍之介ばかり兵を預かるのは、少々羨ましゅうございますな」
信長は笑った。
「又左には、別の働き場を用意してやる。お前の槍が暇になるほど、尾張は静かではない」
又左は目を輝かせた。
「それは楽しみでございます」
「ただし、勝手に戦を始めるなよ」
「そこまで信用がありませぬか」
新五が横から口を挟む。
「又左殿の場合、先に言っておく方が間違いありません」
庭に笑いが広がった。
藤吉郎も笑っていたが、すぐに龍之介の方へ向き直った。
「龍之介様。兵を十人預かられるのですね」
「ああ」
「道を守る兵なら、商人も安心して荷を運べます」
「そうなればよいな」
藤吉郎は少し考え、それから言った。
「馬借の甚蔵さんたちにも、どの道を見回るか伝えておいた方がよさそうです。荷を運ぶ者は、危ないところをよく知っていますから」
龍之介は、その言葉に頷いた。
「よい考えだ。甚蔵だけでなく、権次や久六、与八にも聞こう。実際に道を使う者の話は役に立つ」
藤吉郎は嬉しそうに頭を下げた。
龍之介は、そんな彼の姿を見て思った。
兵を十人預かったからといって、何でも十人で解決できるわけではない。
馬借には馬借の知恵がある。
商人には商人の経験がある。
そこを借りながら兵を動かせるかどうかが、これからの自分に問われるのだ。
◇
その夜、清洲では坂井大膳が報告を受けていた。
那古野から来た米六俵が賊に襲われたこと。
龍之介と又左が撃退し、捕らえた者を河尻与右衛門へ引き渡したこと。
そして、善兵衛の米が無事に売れたこと。
大膳は報告を聞き終えると、しばらく黙っていた。
「賊は、わしの手の者ではないな」
「はい。美濃から流れてきた足軽崩れと聞いております」
「そうか」
大膳は扇を開いた。
その顔に、安堵とも落胆ともつかぬ表情が浮かぶ。
「ならば、これは清洲の失態だ」
控えの男が顔を上げた。
「大膳様」
「北蔵の扱いを改め、商人が自由に動き始めた。その初荷を賊に襲われたのだ。清洲の守りが足りなかったと言われても仕方あるまい」
「河尻与右衛門殿が、道の見回りを整えるとのことです」
「それでよい」
大膳は、意外にもあっさり答えた。
「ここで河尻の働きを妨げれば、大和守様のお決めになったことへ逆らうことになる」
控えの男は黙った。
大膳は、窓の外に見える清洲の町へ目を向けた。
「三郎は商いを通し、龍之介は槍で守った。清洲の役人へ賊を渡し、手柄を押しつけもしなかった」
低い声で続ける。
「実に面倒な相手になったものよ」
大膳は扇を閉じた。
「北蔵だけを使う時は終わった。清洲の商いも、少しずつ変わるだろう」
控えの男が慎重に問う。
「では、今後はいかがなさいますか」
大膳は、すぐには答えなかった。
しばらくして口を開く。
「三郎が兵を預けるようになれば、今度は商いだけの話では済まぬ」
控えの男の顔が引き締まる。
「兵を」
「龍之介という男に、十人を預けたそうだ」
大膳は静かに笑った。
「十人なら、まだ小さい。だが十人を動かせる者は、次に五十人を動かすこともできる。三郎はその男を育て始めた」
大膳は、窓の向こうを見た。
「商いの道をめぐる争いが、いずれ兵の道をめぐる争いに変わるやもしれぬな」
◇
翌朝、那古野に末森からの使いが到着した。
信秀の名を受けた者で、泥のついた草履のまま庭へ入ってくる。
信長はすぐに会った。
龍之介も呼ばれた。
「大殿より、急ぎのお知らせにございます」
使いは膝をついた。
「三河の方から、今川方の兵が境の動きを探っているとの報せが入りました」
信長の顔が引き締まった。
使いは続けた。
「まだ大軍が動いたわけではございません。ただ、道や渡しを調べる者が増え、こちらの見張りからも不審な動きが報告されております」
龍之介は、思わず信長を見た。
清洲では商いをめぐる争いが続いた。
だが、尾張の外には今川がいる。
織田家の内側で争っている間も、三河からの圧力は消えていない。
信長は使いへ尋ねた。
「父上は、何と仰せだ」
「若様には那古野の道と兵の動きを確かめておくようにと。東の備えについては、追ってご沙汰があるとのことです」
信長は頷いた。
「分かった。父上には、那古野の見回りを整え始めたことを伝えてくれ」
「承知いたしました」
使いが下がると、信長は龍之介へ向き直った。
「早速、お前の兵が役に立ちそうだな」
「はい」
龍之介は深く頷いた。
十人を預かったばかりである。
まだ誰がどれほど槍を使えるかも、馬に乗れるかも、道を知っているかも確かめていない。
それでも、兵を預かるということは、こういうことなのだ。
必要になってから動かすのでは遅い。
平時に使い方を決め、いざという時に迷わず動けるようにする。
龍之介は信長へ申し出た。
「若様。預かった十人の顔と腕を、今日中に確かめます。見回りへ出す前に、馬借たちから危ない道も聞いておきたいと存じます」
「よし。新五にも手伝わせる。又左には槍の扱いを見させよう」
「ありがとうございます」
信長は庭の向こうへ目を向けた。
「清洲の争いが終わったわけではない。だが、東から今川が来るなら、いつまでも帳を見ているわけにはいかぬ」
その声には、若い武将らしい鋭さがあった。
龍之介も、同じ方角を見る。
今川。
その名を聞くだけで、前世の記憶が幾つも蘇る。
だが、知っている出来事がそのまま起こるとは限らない。
すでに信長の周囲は大きく変わっている。
勘十郎は自分の判断を持ち始めた。
権六は弟の側で働きながら、兄との争いを避けようとしている。
商人と馬借は那古野を信用し始め、龍之介自身も兵を預けられる立場になった。
この変化が、これからの戦へどう影響するのか。
それは、実際に敵と向き合わなければ分からない。
信長は振り返った。
「龍之介。久しぶりに、お前の槍を見たくなった」
龍之介は笑った。
「又左から、私が賊を倒した話を聞かれたのではありませんか」
「聞いたとも。お前が敵の槍を奪って、そのまま三人を倒したそうだな」
「三人まとめてではございません。一人ずつ相手をいたしました」
「細かい男だ」
信長は楽しそうに笑った。
「だが、今川の兵を相手にするなら、もっと大きな働きが要るかもしれぬ」
龍之介は腰の刀へ目を落とした。
今の自分には、呂布の武がある。
郭嘉の知もある。
しかし、それだけでは兵十人を生かして帰すことはできない。
預かった兵の顔を覚え、得手不得手を見極め、退く道まで考える必要がある。
武と知を自分一人のために使う時期は、もう終わりつつあった。
「若様。十人を預かった以上、十人を働かせ、できる限り十人とも無事に帰すつもりです」
信長は、その言葉を聞いて頷いた。
「よい。だが、戦場で誰一人死なせぬと約束するな。守るべきものを守るために、危険を引き受けさせねばならぬ時もある」
「心得ております」
「そのうえで、勝て」
信長の声が、少し低くなった。
龍之介は深く頭を下げた。
「必ず」
庭を吹き抜ける風が、遠くの土と草の匂いを運んでくる。
清洲へ米六俵を届けたことで、商いの道は一つ開いた。
龍之介はその道を槍で守り、信長から兵十人を預けられた。
そして今、東の境では今川方の兵が動き始めている。
龍之介は、預かった兵たちの待つ練兵場へ歩き出した。
次に槍を振るう時、自分の背後には十人の兵がいる。
その事実が、足取りを自然と速めていた。




