第84話 騙ったのは誰だ
「清洲御用を騙ったのは、米商人の善兵衛でございます」
坂井大膳が差し出した書付には、そう記されていた。
清洲城の広間へ戻った龍之介は、思わず眉を寄せた。
善兵衛は、清洲北蔵に米の受け入れを断られ、やむなく那古野の升屋久兵衛へ売り先を求めた男である。龍之介自身が話を聞き、北蔵から渡された書付も確かめている。
その善兵衛が、今度は偽りの御用を名乗った商人として訴えられていた。
広間の上座には、清洲の守護代である織田大和守信友が座っている。
信長と勘十郎は並んで控え、その後ろに龍之介、池田勝三郎、権六、竹若がいた。
大膳は信友の傍らから立ち上がり、落ち着いた声で説明を始めた。
「善兵衛なる商人は、米十二俵を清洲北蔵へ持ち込み、清洲御用の米であるから先に受けよと迫った由にございます。しかし、北蔵にはそのような御用を命じた覚えがなく、受け入れを断りました」
信友が書付を読み直した。
「それで那古野へ米を回したのか」
「はい。御用の名が通らぬと知るや、那古野の升屋へ持ち込んだものと思われます」
「証はあるのか」
「北蔵の口役から聞き取ったことを記しております」
大膳は書付の末尾を示した。
「御用を騙る者を見過ごせば、清洲の権威が軽くなります。北蔵が受け入れを断ったのは、商いを妨げるためではなく、偽りの御用を防ぐためだったのでございます」
筋の通った言い分だった。
もし善兵衛が清洲御用を騙っていたなら、北蔵には受け入れを断る理由がある。清洲の権威を守るための措置だったと言われれば、信長も簡単には反論できない。
だが、龍之介には気になることがあった。
善兵衛が見せた書付には、偽りの御用について何も書かれていなかったのである。
祭礼支度の荷を優先するため、通常の預かりを見合わせる。
それだけだった。
龍之介は、大膳の横顔を見た。
末森で追及された後も、この男はただ言い逃れをしているわけではない。
清洲の商いが那古野へ移った事実は動かせない。
ならば、移った理由を変える。
しかも今度は、実際に米を運んだ商人へ責任を負わせようとしている。
善兵衛が偽りの御用を名乗った者として扱われれば、清洲での商いを続けることは難しくなるだろう。
龍之介は、膝の上に置いた手を静かに握った。
これ以上、証のない言葉で商人を傷つけさせるわけにはいかない。
◇
「大膳。善兵衛が御用を騙ったというのは、確かなことなのだな」
信友の問いに、大膳は深く頭を下げた。
「北蔵の者が、そのように申し立てております」
「お前自身が聞いたわけではないのか」
「私はその場におりませぬ。ただ、北蔵の口役が聞いたと」
信友は書付を置いた。
「三郎。お前はどう見る」
信長は、すぐに大膳を責めなかった。
「清洲御用を騙ったのであれば、確かに調べる必要がございます。ただし、私どもが荷主から聞いた話とは違っております」
「どう違う」
「善兵衛は、北蔵に通常の荷として米を預けようとしております。北蔵からも、通常の預かりを見合わせるとの書付を受け取っておりました」
信友の目が動いた。
「その書付はあるのか」
「写しを持参しております」
信長が龍之介へ目を向けた。
龍之介は懐から畳んだ紙を取り出し、清洲の近習へ差し出した。
善兵衛から見せてもらった書付の写しである。
信友はそれを開き、しばらく黙って読んだ。
「祭礼支度の荷を先とするため、常の預かりを見合わせる……」
信友は大膳を見た。
「大膳。この書付は北蔵が出したものか」
「そのように見受けられます」
「ならば、なぜ御用を騙ったことが書かれておらぬ」
「その場では受け入れを断ることが先であり、後に事情を調べたものかと」
大膳の返事に乱れはなかった。
龍之介は、その説明を頭の中で確かめた。
あり得ない話ではない。
北蔵が最初は偽りの御用に気づかず、後から知った可能性もある。
書付に記されていないことだけで、善兵衛への疑いが晴れるわけではなかった。
「大和守様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
龍之介が頭を下げると、信友は頷いた。
「申せ」
「清洲御用の名を騙ったと判断するには、善兵衛が何と申したかを確かめる必要がございます。書付を書いた方ではなく、実際に聞いた方からお話を伺えませんでしょうか」
大膳の視線が龍之介へ向いた。
信友は、しばらく考えた。
「もっともだ。大膳、その者は誰だ」
「北蔵の口役、五平にございます」
「城へ来ているか」
「供の者とともに参っております」
「ならば呼べ」
大膳は一礼し、近習へ目配せした。
龍之介は、その動きを見ていた。
五平がここへ来ているということは、大膳も聞き取りを求められる可能性を考えていたのだろう。
簡単には崩れない。
だからこそ、問い方を誤ってはならなかった。
◇
五平は四十ほどの男だった。
日に焼けた頬に深い皺があり、右手の親指には古い傷がある。蔵の出入り口で長く荷を扱ってきた者らしく、腰を下ろしても背中の緊張が抜けなかった。
五平は信友の前で膝をつくと、畳へ額が触れそうなほど深く頭を下げた。
「五平。善兵衛が清洲御用を騙ったという話を聞こう」
信友は穏やかに言った。
「お前自身が聞いたのだな」
「……はい」
「では、善兵衛は何と申した」
五平は少し考えた。
「御用の荷を先に入れるなら、自分の米はどうなる、と」
龍之介の胸の内で、何かが噛み合った。
信友も眉を動かした。
「それだけか」
「はい。北蔵では祭礼御用の荷を先に受けると決まっておりまして、私はそのように申し伝えました」
「善兵衛が、清洲御用の米だから先に受けよと申したのか」
五平は顔を上げかけ、すぐに伏せた。
「……いえ」
広間が静まった。
信友は声を荒らげなかった。
「よく聞こえなかった。もう一度申せ」
「善兵衛殿は、自分の米を御用の荷とは申しておりませぬ」
五平の声が、わずかに震えた。
「祭礼御用を先に入れるなら、こちらの平荷はいつ受けてもらえるのか、と尋ねられました」
龍之介は、大膳を見た。
大膳の表情は変わっていない。
ただ、膝の上で扇を持つ指が、わずかに動いた。
五平は続けた。
「私も、いつ受けられるか分かりませなんだ。北蔵の奥から、通常の預かりは控えよと申しつけられておりましたので」
「それで断ったのか」
「はい」
「善兵衛が偽りの御用を名乗ったからではないのだな」
「……はい」
信友は、大膳へ向いた。
「大膳。話が違うではないか」
大膳は深く頭を下げた。
「聞き取りに行き違いがあったようにございます」
「行き違いか」
「御用の荷という言葉が出たため、善兵衛自身が御用を名乗ったものと受け取ったのでございましょう」
信友は五平を見た。
「お前は、そのように受け取ったのか」
五平は、しばらく黙っていた。
そして、首を横に振った。
「いいえ。善兵衛殿がご自分の米を平荷と申したことは、覚えております」
大膳の目が細くなる。
龍之介は、その目つきを見逃さなかった。
五平は、ここで自分の知っていることを曲げなかった。
蔵の上役にとって都合が悪くとも、聞いた言葉を聞いた通りに答えたのである。
信友は、深く息を吐いた。
「大膳。五平の申す通りなら、善兵衛が御用を騙ったという書付は正しくない」
「御意にございます」
「この男を疑う根拠は、ほかにあるか」
「現時点では、確かなものを示せませぬ」
大膳は、そこまで認めた。
だが、続けて言った。
「ただし、北蔵が祭礼の荷を優先し、清洲の商いに滞りが生じたことは事実にございます。そこを軽く見るわけにはまいりませぬ」
龍之介は、思わず感心した。
大膳は善兵衛への疑いを引き下げた。
しかし、清洲の商いを守るという大きな主張までは捨てていない。
自分の言い分のうち、守れなくなった部分だけを切り離している。
厄介な男であることに変わりはなかった。
信友は書付を手に取り、脇へ置いた。
「善兵衛への疑いは、ここで取り下げる。新たな証がない限り、御用を騙った者として扱うことは許さぬ」
五平の肩がわずかに落ちた。
信長は深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
「三郎。お前が勝ったわけではないぞ」
信友は、少し厳しい声で言った。
「清洲の商いが那古野へ移ったことは、まだ解決しておらぬ」
「承知しております」
信長は顔を上げた。
「むしろ、その件について、ひとつ申し上げたいことがございます」
◇
「那古野へ移った米十二俵を、清洲へ戻すつもりはございません」
信長の言葉に、広間の空気が動いた。
大膳が眉を上げた。
「三郎殿。清洲の荷を戻さぬと」
「米はすでに商いが済んでおる。買い手に渡った米を、清洲の面子のために取り上げるわけにはいかぬ」
信長は落ち着いて続けた。
「だが、これから来る荷については話が別だ」
信友が興味深そうに身を乗り出した。
「聞こう」
「清洲へ持ち込まれた荷は、まず清洲の商人に見てもらえばよろしい。北蔵が受けられぬなら、荷主へその理由を伝える。そこでほかの清洲の商人が受けるなら、それでよい」
「受け手がなければ」
「荷主が自由に売り先を選べばよろしいかと。那古野へ来るなら買う者もおりましょうし、津島へ向かうなら、その道を選ぶこともできましょう」
大膳が静かに言った。
「それでは、清洲の荷がまた那古野へ流れますな」
「清洲で買い手がつけば流れぬ」
信長は大膳を見た。
「大膳。清洲には商人が大勢おる。わしの那古野より、よほど古い商いの筋もある。それなのに、北蔵が断っただけで荷が外へ出るのは、もったいないと思わぬか」
大膳は、わずかに目を細めた。
信長は続ける。
「清洲の商人が買える荷を、わざわざ那古野へ回してもらう必要はない。北蔵が預からぬ時は、門前のほかの商人へ渡せばよい。それもできぬ時に、荷主が別の道を選ぶ。そうすれば清洲の商いは残るだろう」
龍之介は、信長の横顔を見た。
うまい。
清洲の荷を奪っていないと弁解するだけではない。
清洲の荷が外へ流れにくくなる方法を、清洲の主の前で示している。
しかも、それは那古野の権益を増やす提案ではない。
清洲の商人が利益を得る提案だった。
信友の顔が変わった。
「三郎。お前は清洲の商いが太くなっても構わぬのか」
「構いませぬ」
「那古野へ来る荷が減るぞ」
「その分、那古野の商人は別の荷を探します。清洲で買い手のある荷まで奪っても、長続きいたしませぬ」
信長は少し笑った。
「清洲と那古野が、同じ米一俵を奪い合うばかりでは、尾張の商いは大きくなりませぬ」
信友は、しばらく信長を見つめていた。
やがて低く笑った。
「信秀の倅らしいことを申す」
信長も笑みを返した。
「父上には、まだまだ及びませぬ」
「謙遜まで覚えたか」
「父上に叱られることばかり増えましたので」
広間に笑いが広がった。
大膳は、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
だが、先ほどよりも表情が硬い。
龍之介には、その理由が分かった。
信長の提案が通れば、清洲の商いは守られる。
しかし、北蔵だけが荷の入口を押さえる力は弱まる。
北蔵で断っても、別の清洲商人が受けられるからだ。
大膳が守ろうとしているものが、清洲全体の商いなのか、それとも北蔵を通じて商いを動かす力なのか。
その違いが、少しずつ浮かび上がってきた。
◇
ここで勘十郎が口を開いた。
「大和守様。私からも、ひとつお願いがございます」
「申せ」
「米の荷主を、誰の家の者かで責めぬようにしていただきたいのです」
信友は眉を動かした。
「どういうことだ」
「私の館へ運ぶ米の件でも、使いを名乗る者が現れました。名を騙られたからといって、私の館が命じたことにはなりませぬ。同じように、清洲御用という言葉が出たからといって、荷主が御用を騙ったと決められては困ります」
勘十郎は、まっすぐ信友を見た。
「荷を動かす者が、何も悪いことをしておらぬのに疑われれば、私の館へ米を運んでくれる者まで減ってしまいます」
信友はゆっくり頷いた。
「お前も商いを覚えたようだな」
「館の飯を預かる者がおりますので。米が届かねば、若衆も働けませぬ」
権六が、少しだけ目を伏せた。
勘十郎は続けた。
「私は清洲の商いを損なうつもりはございません。ただ、清洲の名を守るために、何もしておらぬ商人まで疑われることは避けたいのです」
信友は、大きく頷いた。
「もっともだ」
それから大膳へ向き直った。
「大膳。北蔵の扱いを改めよう」
広間の空気が引き締まった。
「北蔵が通常の荷を受けられぬ時は、清洲門前のほかの商人が受ける道を残せ。荷主が清洲で売りたいと言うなら、門前で買い手を探せるようにする」
「御意にございます」
「北蔵が断る場合は、その理由を明らかにせよ。祭礼御用が多いのなら、何をどれほど優先するのか、北蔵を預かる者が把握しておかねばなるまい」
大膳は深く頭を下げた。
信友は続ける。
「この扱いは、河尻与右衛門にも見させる。北蔵の者だけで決めさせぬ」
大膳の肩が、わずかに動いた。
龍之介は、その変化を見た。
河尻与右衛門は、清洲の町役に関わる者である。
大膳の配下として動く者ではあるが、守護代から直接役を命じられれば、北蔵だけの都合では済まなくなる。
北蔵の入口に、別の目が入る。
これは大きい。
信友は、さらに言った。
「善兵衛には、清洲御用を騙ったとの疑いを取り下げたと伝えよ。今後も清洲で商いを続けることを妨げるな」
大膳は、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
信友は信長を見る。
「三郎。お前も心得ておけ。清洲で受け手のついた荷を、那古野の力で奪うな」
「はい」
「清洲の商人が困って那古野へ来るなら、それは商いだ。だが、こちらの困りごとを利用して清洲を細らせるなら、わしも黙ってはおらぬ」
「肝に銘じます」
信長は深く礼をした。
龍之介は、その場に生まれた変化を感じ取っていた。
大和守信友は、信長へ味方したわけではない。
自分の治める清洲の商いを守るために決めたのだ。
だが、その判断によって、善兵衛への疑いは晴れた。
通常の荷が北蔵で止められ続ける道も狭まった。
何より、清洲門前の荷を一手に動かしてきた者たちの力が、少し削がれた。
龍之介は、郭嘉の知が示す戦場の形を思い浮かべた。
敵の厚いところへ真正面から当たる必要はない。
守ろうとしている場所を見極め、そこを支える道を変えれば、相手の布陣は自ずと変わる。
信長は今日、清洲の主へ逆らうことなく、その道を変えてみせたのである。
◇
評定が終わった後、信友は龍之介だけを呼び止めた。
信長と勘十郎は、先に廊下へ出ている。
大膳もすでに退いた後だった。
「龍之介」
「はい」
「お前は、三郎の側へ来る前は何をしておった」
思いがけない問いだった。
龍之介は、一瞬だけ返答に迷った。
現代の六十年を生き、神から呂布の武と郭嘉の知を授かってこの時代へ来た。
そんな話をしても、信友が信じるはずはない。
「諸国を渡り歩き、戦と人の動きを見てまいりました」
嘘ではない。
だが、すべてを語っているわけでもなかった。
信友は、少し笑った。
「三郎は、面白い者を拾ったものだ」
「恐れ入ります」
「お前は、あの米商人を守るためだけに口を開いたのか」
龍之介は、信友を見た。
その目には、試すような光がある。
「善兵衛殿が罰せられれば、清洲のほかの商人も萎縮いたします。清洲御用を騙ったと疑われれば、誰もが自分の荷を運びにくくなりましょう」
「清洲の商人のためでもあったか」
「はい」
「那古野の者なのにか」
龍之介は、少しだけ笑った。
「商人が荷を運ばなくなれば、清洲も那古野も困ります。若様に仕える者としても、それは望みませぬ」
信友は、しばらく黙っていた。
庭では風が松の枝を揺らしている。
廊下の先から、武者の足音が聞こえた。
「龍之介。大膳は、あの男なりに清洲を守ろうとしておる」
「存じております」
「だが、守るつもりで人を押さえすぎれば、荷も人も逃げる」
信友は、やや苦い顔になった。
「わしも、今日初めてそれを思い知らされた」
龍之介は深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
「三郎へ伝えよ。清洲の商いを太らせると言ったこと、忘れるなとな」
「承知しました」
「それと、お前にも一つ申しつけておく」
信友の声が低くなった。
「清洲を調べるなら、わしの名を軽んじるな。大膳の名と、清洲そのものを混ぜることも許さぬ」
龍之介は、顔を上げた。
「心得ました」
信友は、満足そうに頷いた。
「よい。下がれ」
龍之介が広間を出ると、廊下の先で信長が待っていた。
「何を言われた」
「清洲を調べるなら、大和守様の名を軽んじるな、と」
「なるほど」
信長は小さく笑った。
「父上が聞けば、もっともだと仰せになるだろうな」
「それと、清洲の商いを太らせると言ったことを忘れるな、とも」
信長は、少し意外そうな顔をした。
「大和守様が、そう申されたか」
「はい」
信長は廊下の向こうへ目を向けた。
「なら、忘れぬ」
勘十郎も近づいてきた。
「兄上。善兵衛殿は、これで清洲へ戻れるのでしょうか」
「戻れるだろう。少なくとも、偽りの御用を名乗った者として責められることはなくなった」
「よかった」
勘十郎は、安堵したように息を吐いた。
権六も、わずかに表情を緩めている。
信長は弟を見た。
「お前の言葉も効いたぞ」
「私が申したのは、館へ米を運んでくれる商人に困られては困るということだけです」
「それで十分だ」
信長は笑った。
「今日の清洲では、誰もわしらを兄弟喧嘩させられなかったな」
勘十郎も笑みを返した。
「兄上が勝手に喧嘩を始めなければ、私からはいたしませぬ」
「言うようになったものだ」
二人のやり取りを聞き、権六が低く笑った。
龍之介は、しばらくその光景を見ていた。
清洲へ入る門は二つに分けられようとした。
だが、兄弟は同じ門から入り、同じ座で言葉を交わした。
大膳が仕掛けた荷の疑いも、善兵衛一人へ押しつけることはできなかった。
それどころか、北蔵の扱いそのものが改められることになった。
清洲の主が、自分の意思で動いた。
そこに、今日の大きな意味がある。
◇
坂井大膳は、清洲城の別の座敷で報告を受けていた。
北蔵の通常荷について、河尻与右衛門が改めを見ることになった。
善兵衛への疑いは取り下げられた。
清洲門前では、北蔵が受けられぬ荷をほかの商人へ回す道が作られる。
大膳は、最後まで黙って聞いた。
やがて扇を開き、庭へ目を向ける。
「三郎め。清洲の商いを守ると言って、わしの手を外したか」
控えの男は答えなかった。
大膳は苦笑する。
「大和守様がご自身で決められたことだ。異を唱えるわけにはいかぬ」
「では、北蔵は」
「今までのようには使えまい」
大膳は、扇を閉じた。
「甚内は末森で預かられ、仮帳は封じられた。今度は通常荷の扱いに別の目が入る。清洲の商いを守るという言葉も、三郎に先に使われた」
控えの男が、恐る恐る問う。
「いかがいたしますか」
大膳は、しばらく考えていた。
やがて、静かに答えた。
「大和守様は、清洲の商いを守ろうとなされた。それ自体は正しい」
「はい」
「ならば、わしも別の道を考えるしかあるまい」
大膳は、窓の外に見える清洲城下へ目を向けた。
荷車が行き交い、商人たちが店先で声を上げている。
あの道のすべてを一人で押さえることなど、もともとできるはずもない。
ただ、これまでは北蔵という便利な場所があった。
そこへ荷を集め、名を変え、道を変え、声を流すことができた。
今、その便利な場所が使いにくくなった。
大膳は、ゆっくり息を吐いた。
「三郎は、思っていたよりも大きな相手になったようだな」
控えの男は頭を下げた。
大膳の声には、怒りよりも警戒があった。
那古野の若は、清洲の商いを奪うことなく、清洲の主を動かした。
その事実を、大膳は重く受け止めていた。
◇
清洲城を出る頃には、空が少し赤みを帯びていた。
門前には荷車が二台並び、蔵の者と商人が何やら話し合っている。
龍之介は、その様子に足を止めた。
北蔵の受け入れ見合わせについて、河尻与右衛門の者が事情を聞き始めているらしい。
荷車の御者は、まだ不安そうだった。
だが、門を閉ざされているわけではない。
受けられぬなら、ほかの清洲商人に当たる。
その話が、さっそく始まっていた。
信長も、その光景を見た。
「動きが早いな」
「大和守様が直接お命じになりましたから」
龍之介が答えると、信長は笑った。
「これで清洲の商いが太くなれば、大膳も文句は言いにくかろう」
「少なくとも、商いを守るためという言葉は使いにくくなります」
「ならば、今日の働きは悪くない」
信長は馬へ近づき、手綱を取った。
勘十郎は権六とともに少し先で待っている。
龍之介は、もう一度清洲の門を振り返った。
ここまで清洲が仕掛けてきたものは、多かった。
荷を乱す。
名を騙る。
人を疲れさせる。
祈りを使う。
祭礼を使う。
帳を整える。
そして今度は、商人へ罪を着せようとした。
その一つ一つを受けながら、那古野は少しずつ力をつけてきた。
信長の名も変わり始めている。
ただの若殿ではない。
商いを見て、家臣を使い、弟を認め、清洲の主さえ動かす男になろうとしている。
龍之介は馬の背へ身を上げた。
呂布の武があれば、力で道を開くことはできる。
郭嘉の知があれば、相手の狙いを見抜くこともできる。
だが、今日、清洲の門を開かせたのは、どちらか一つの力ではなかった。
信長自身の判断だった。
龍之介は、そのことを嬉しく思った。
この若は、まだ強くなる。
そして、自分もまた、この男とともに乱世を進む。
「龍之介!」
信長が前から呼んだ。
「何をしておる。置いていくぞ!」
「ただいま参ります!」
龍之介は馬腹を軽く蹴った。
清洲の城門が背後へ遠ざかる。
今日、ひとつの疑いが晴れ、ひとつの道が開いた。
だが、坂井大膳がこれで退くとは思えない。
むしろ、北蔵という便利な手を失ったことで、次はもっと大きな場所へ手を伸ばしてくるだろう。
龍之介は前を行く信長の背を追った。
清洲での勝負は、まだ始まったばかりだった。




